三十二話 平民嫌いのワケ
「殿下」
ポツリと。
人面の化け物を前にレヴェスタは呟いた。
否応なしに視界に飛び込んでくる三日月に歪んだ傲岸の表情。滴る唾液。
此方の事を餌か何かとしか見ていないであろう化け物と相対する中で、言葉を交わせるのは今ここしかないと判断したが故の言葉であった。
「ここからは、別行動といきましょうか」
それは、言ってしまえば不退転の覚悟のあらわれであり、決別に限りなく似たナニカであり、今出来る精一杯のレヴェスタなりの見栄であった。
「僕を、見捨てる気か……?」
どうにか搾り出したレヴェスタのその一言に対する返事は、どうしようもなくルハアらしいものであった。
しかし、レヴェスタはそれは違うと面白くもないだろうに、空笑いを挟みながら小さく首を振る。
「逆ですよ、逆。殿下を逃がす為の措置ですよ。どうにもこの化け物は狩りを楽しんでるようでもある。私がそれなりに時間さえ稼げれば、何人か生き残るくらいは出来るでしょうよ」
己が捨て石になる。
その申し出が今出来る最善であると理解しているのだろう。技量も半端な人間が居残っても寸の時間すら稼げないどころか寧ろ足手纏いにしかならないと悟っていたからだろう。
周囲にいた他の騎士達からその一言に対する反論は一切なく、ただ静かにその言葉を受け入れているようでもあった。
「……だめだ。お前が僕を守れ」
「そうすれば十中八九全員お陀仏だ。だから、その言葉に頷く事は出来ませんねえ」
「捨て石の役割は他の者に任せればいいだろうが……!!」
この場においてルハアは、レヴェスタの技量にしか信を置いていなかった。
だから、この状況下であってもそのような発言が出来てしまう。
そうする事で他の人間から疑心に似た負の感情を向けられる事になろうが、それはもうお構いなしであった。それ程までに余裕は削り取られ、失われていた。
「それが出来るものなら、初めからそう言ってますとも。出来ないから、そう言わないんですよ殿下」
物分かりの悪い子供に言い聞かせるように。
そして、これが最後の会話になるかもしれないという予感を受け入れながら、
「しっかし、ベロニアの連中はよくもまあこんな怪物どもを抑え込んでたもんだ……確かに、ここまで来てるんなら、貴族だ平民だと言ってる側が愚か極まれり、ってとこなのかね」
こんな化け物が一体だけでない事は、レヴェスタ達は身をもって知る羽目になった。
だからこそ、才あるものは誰でも受け入れ、事の対処にあたる、くらいの事はして然るべき、か。
そんな考えが湧き上がり、そのまま言葉に変えて口にすれば殿下は怒るのだろうなと理解しながらも、別に今であれば良いかとレヴェスタは割り切り、口を開く。
「殿下ぁ。一つ、最後と言っちゃなんですが、私の頼み事を聞いちゃくれませんかねえ」
……ここでくたばるならば、言っても言わなくても同じかと考えたが故の発言だった。
「……そろそろ、その同族嫌悪をやめにしたらどうです」
「…………」
故に、遠慮なく、レヴェスタはルハアの地雷を踏みにかかった。
人面の化け物は、その会話が醜い犠牲のなすりつけ合いとでも思っているのか、幸い、ひどく歪んだ笑みを浮かべながらジッとレヴェスタ達の様子を見ていた。
じわりじわりと追い詰めるのが好みであるのか。
逃げ道を塞いでいる事もあってか、その表情には余裕の色が濃く滲んでいた。
「……悪いな。レヴェスタ。よく聞こえ————」
「庶子だからと、平民を嫌うその癖をこの際、取っ払っては如何と申させていただきました」
よく聞こえなかったと、聞こえないふりを敢行しようとしたルハアに、それは許さないとばかりに言葉を繰り返す。
しかも今度は、言い訳のしようがない程、核心に踏み込んだ上で。
表向きは一応、ルハアは本妻の子。
という扱いになってはいるが、一部の人間だけが知る事実であるものの、ルハアは紛れもなく、庶子であった。
それも、今や没落した貴族だった御家の令嬢の子であった。
ただ、生母が病で逝去した事と、現国王陛下と本妻の間に子が設けられなかった事から一応、嫡子扱いを受けていた王子。
それが、ルハア・ドルク・リグルッドの実態であった。
如何に貴族だったとはいえ、没落しては最早、平民と大差はない。
それ故、平民を前にすると自分の事を指摘されているような被害妄想が己の中で繰り返されでもしていたのか、極端にルハアは平民という事実があるだけで人を嫌っていた。
「あのルイス・ミラーが必要と言ったのです。恐らく、あのヒイナとかいう平民の存在は本当に必要だったのでしょうよ。そして、恐らくこれからも第二第三の彼女のような存在が出てくる。正直、こんな化け物とやり合うなら、そんな拘りはさっさと捨ててしまった方がいい。そう、思いましてね」
それが、己に出来る最後の助言であり、頼みのようなものであるのだとレヴェスタは言う。
「正直、化け物って呼び方も生易しく感じるくらいでしてね。だから、まあ、今更でしかないですが、そんな拘りは取っ払ってしまった方が良いんじゃないかと思いまして」
やがて、そこで漸く痺れを切らしたのか。
もういいだろうと言わんばかりに人面の化け物が動いた事をいい事に、レヴェスタは洞になっていた周囲。
その天井を手にする剣で一思いに斬り裂く。
ず、ず、ず、と斬り崩れる音が続いた。
レヴェスタと、その他を隔離する為の措置であるのだと誰もが一瞬で気付く。
次いで、先の会話に対してろくに納得も出来ず、尚且つ、レヴェスタと共に行動をするつもりでしかなかったルハアは呆気に取られたようにその場で立ち尽くしていた。
「……っ、し、失礼します……ッ!!」
そんな彼の姿を見かねてか。
周囲にいた騎士の一人が、崩れ落ちる天井に巻き込まれないよう、その身体を担ぎ、その場から離れてゆく。
「さあ、やろうかい。化け物さん。守るもんがなくなった俺は、これまでとはひと味違うぜえ? ……簡単にこの先を追えると思わねえこった」
轟音とも形容すべき岩なだれの音に紛れ、威勢のいいそんな言葉が、隙間を縫うようにその場に小さく響き渡った。
* * * *
————走る。走る。駆け走る。
あの後、一つだけ忠告を残してくれたベラルタさんと別れた私達は、すぐ様カルア平原へと足を踏み入れ、ひたすらに足を動かし続けていた。
「……それで、あいつの言ってた〝暴食〟って一体何なんだ?」
この中では内情を一番よく知っている私に、エヴァンが唐突にそう問うてくる。
ベラルタさんがくれた忠告は簡潔なものだった。
『……〝暴食〟には気をつけな』
たった、それだけ。
けれど、カルア平原で結界の維持に携わっていた人間からすれば、これほど絶望を促す言葉もないだろう。
「……人面の化け物だよ。四つ足で、兎に角強い。基本的に、一人の時に出会ったら何を差し置いてでも逃げろって言われてるくらいには」
カルア平原に初めてやって来た時、何よりも先に教えられた事が、結界の維持の方法ではなく〝暴食〟を目にしたら何がなんでも逃げろ。
という忠告であった程。
何度か、結界維持に携わっている人達総動員で討伐を試みた事もあったけれど、腕っ節だけでなく頭も魔物の癖して賢しいようで、人が多く集まってる時には絶対に私達の前に姿を見せる事はなかった。
「……人面の化け物、ですか。聞いた事がありませんね」
「恐らくは、突然変異の魔物だと思います。カルア平原ではよくいるんです。そういう突然変異の魔物が」
その中でも特に危険度が高いとされているのが、ベラルタさんも言っていた〝暴食〟である。
名の由来は、悪食である事から。
〝暴食〟はそれこそ、何でも食らう。無機物、有機物問わず、物であればそれこそ、何でも。故に————〝暴食〟。
「それで、その〝暴食〟とやらの弱点は?」
「……〝暴食〟は名前の通り、何でも喰べる魔物ですが、唯一、魔道で生み出した現象は食べられないらしいんです。聞いた話ですが、身体は鋼鉄並みに硬いとか、何とか。だから、弱点というより、攻撃手段は魔道のみと考えて貰えれば」
故に、特に騎士と呼ばれる連中とは相性が抜群に悪い魔物としても知られている。
幸い、結界の維持を行える人間は魔道師のみ。
だから、その相性の悪さというものを味わう機会は一度として無かったのだが、
「……だとすれば尚更急がなければなりませんか」
「……なんですよね」
私と、ルイスさんの間でのみ会話が成立する。
「……? それは、どういう事なんだ?」
「理由は分からないんだけど、リグルッドの方の王子殿下の周りは何故か騎士の方で固められてたんだよ。多分、護衛に何人かいたとしても恐らく全員、魔道師じゃなくて、騎士だと思う」
〝暴食〟からすれば、これほど与し易い相手もいない事だろう。
だからこそ、余計に焦燥感を煽られる。
「それに、これを見る限り王子殿下達は多分、かなり奥にまで進んでる」
ベラルタさんから渡された魔道具を片手に、エヴァンにそう説明する。
満を辞して奥へと誘導し、そこで確実に始末する。如何にも〝暴食〟がやりそうな手口であった。
それにだからこそ、ベラルタさんもあえて気をつけろ。なんて言葉を言っていたのだろうし。
「……間に合えばいいんだけどね」
間に合えばいいじゃない。
間に合わせなくちゃいけない。
……そうは思えど、中々に厳しいものがあるのもまた事実であった。
そんな中。
魔道具が示す場所はまだ先である筈なのに、見慣れない複数の人影が私達の視界に入り込む。
それは————騎士であった。
「っ……!!」
……否、騎士らしき重傷人と言った方が正しいか。
逸る気持ちに従うように、忙しなく動かしていた足の動きが更に加速する。
そして何故か、目を凝らしてみれば、そこには見覚えのある王子の姿もあった。





