シマリスさん、雲を食べる
ここは、どこか深い森の中。長かった冬が終わり、ようやく春の季節です。
春になると、草木が繁り、動物たちも巣穴から外へ出てきます。シマリスさんも、夜明けと共に小さな巣穴から出てきました。木漏れ日から漏れる春のぽかぽか陽気が、シマリスさんの茶色い毛並みを照らします。
「やっと春が来た。また新鮮な木の実が食べられるぞ」
シマリスさんはそう言うと、巣穴から持ち出していた木の実をぱくり。頬袋に膨らませ、もこもこと口を動かします。シマリスさんにとって、大好きな木の実はいつだって欠かせません。
シマリスさんがふと、空を見上げます。透き通るように青い空、そこに浮かぶ白い雲。シマリスさんの小さな瞳は、木の実に似た形の、ひときわ大きな雲に吸い寄せられていきます。
「あ、あの雲はまさか……死んだおじいちゃんが言ってた、マボロシの木の実雲!?」
シマリスさんは、かつておじいちゃんから聞いたマボロシの木の実雲の話を思い返します。マボロシの木の実雲――それは美味しいキノコや昆虫、そして世界中の木の実が集まる、まさにシマリスの楽園です。百年に一度見られるか見られないか、と言われた幻の雲が空に漂うのを前に、シマリスさんはいてもたってもいられません。
「こうしちゃいられない。マボロシの木の実雲へ行って、シマリスの楽園で暮らすんだっ」
そう言って、シマリスさんは森の中を駆けていきました。頬袋に入れた木の実をもこもこと食べながら、シマリスさんはマボロシの木の実雲に思いを馳せるのでした。
*
「おーい、フクロウさん、フクロウさん」
シマリスさんは、モミの木の枝に止まったフクロウさんを見上げ、声をかけました。首を下へ動かしたフクロウさんは、腐葉土の上にいるシマリスさんの姿を見つめると、ぶっきらぼうな態度で返します。
「何だい。アタシャ、これから夜まで寝るところなんだよ。邪魔しないでくれるかね」
「オイラ、マボロシの木の実雲まで行きたいんだ。空の向こうまで、連れてってよお」
「嫌だね、他を当たんな。アタシャそんな空高くまで飛んだことは一度もないし、何より年だしね……でも、あー……」
そこまで口にしたところで、フクロウさんは何かを考えながら、首を一回転させました。シマリスさんもつられて真似しますが、うまくいきません。やがて、シマリスさんへ顔を向けたフクロウさんが、小さなクチバシをぱくぱく動かします。
「……そうそう、思い出した。カラスなら頼めば連れてってくれそうじゃないか」
「カラスさん!? そんな、頼むのは怖いよお」
「空まで元気に飛び回るのは、カラスぐらいのもんだ。ほらほら、さっさと行かなきゃ、寝る前のおやつにアンタを食っちまうぞ」
「怖いこと言わないでよ、フクロウさん」
シマリスさんはそう言うと、踵を返しトボトボ歩き出しました。ふと、足元に落ちている小さな赤い果実に気がつくと、シマリスさんはすぐさま近づいて、ぱくり。目元に笑みを浮かべながら、もこもこと頬袋を動かします。
フクロウさんは、そんなシマリスさんの様子を見下ろしながら、やれやれ、と一言呟き、自分の巣穴へと飛び去っていきました。
*
「おーい、カラスさん、カラスさん」
シマリスさんは、落ち葉の山で餌を探すカラスさんに、おそるおそる声をかけました。カラスさんは、後ろに立っているシマリスさんには目もくれず、足下の虫をついばみながら応えます。
「こっちは朝飯の最中だってのに、いったい何の用だ」
「オイラ、マボロシの木の実雲へ行きたいんだ。だから」
その言葉を聞いたカラスさんは、クチバシの中で身を捩らせた虫を一瞬で丸のみにすると、シマリスさんへ顔を向けました。そのまま、カラスさんはシマリスさんとの距離を少しずつ縮めます。徐々に近づいてくるぎらぎら輝く黒い瞳を前に、シマリスさんは声をかけたことを少し後悔しましたが、カラスさんは構うことなくクチバシを動かしました。
「マボロシの木の実雲か。オレも噂には聞いたことあるぜ、シマリスの楽園だってな。で、まさかこのオレに連れてってほしい、とかか?」
カラスさんの低い声に、シマリスさんは首を縦に振ります。すると、カラスさんは大きな翼を広げ、ケラケラと笑い出しました。シマリスさんが驚きを隠せずにいると、カラスさんが続けます。
「まさか、そんなのあるわけないだろ。だって、空に浮かんでるのはただの雲だぜ? もし空にシマリスの楽園があるって言うなら、オレは今ごろカラスの楽園で毎日ぜいたく三昧さ」
カラスさんがため息交じりにそう言うと、シマリスさんは少しガッカリしたように肩を落とします。そんなシマリスさんをよそに、カラスさんはすぐそばにある木の枝へ飛んでいきました。
「あっ、待ってよカラスさん」
シマリスさんはカラスさんのいる木へ、急いで走っていきました。途中、木の根っこのそばに落ちていた小さな木の実を見つけると、すぐさま両手で持ち上げて、ぱくり。もこもこと頬袋を動かしながら、カラスさんのいる木を素早くよじ登ります。
やがて、シマリスさんはカラスさんのいる枝へやって来ました。カラスさんは、半ば気だるげに首をかしげながら、シマリスさんの小さな身体を見つめます。対するシマリスさんは、口の中にある木の実を飲み込むと、カラスさんにはっきりと声を上げました。
「だけど、それでも、オイラはマボロシの木の実雲へ行ってみたいんだ。おじいちゃんが言ってたことが本当かどうか、確かめてみたいんだ」
「強情なシマリスだな……まったく」
そう言って、カラスさんは空を仰ぎます。青い空に浮かぶマボロシの木の実雲を見上げ、しばし黙り込んだ後、カラスさんは再びシマリスさんへ向き直ります。
「……分かった、そこまで言うなら連れてってやる。だが、オレはお前を木の実雲まで送ってはやるが、森までは帰せねえぞ。食い意地の張ったシマリスをずっと乗せてやれるほど、オレは体力自慢じゃねえからな。どうする」
低い声で口にしたカラスさんの言葉に、シマリスさんは二、三度瞬きをした後、こくん、と頷きました。
「分かった。帰りたくなったら、その時はオイラで何とかするよ。だからカラスさん、マボロシの木の実雲までよろしくね」
カラスさんは思わず目をみはりましたが、それも束の間、シマリスさんの顔を見てカラスさんも小さく頷いて見せました。
「よし、じゃあオレの脚に捕まってろ」
「あっ、ちょっと待って」
「なんだ」
カラスさんがそう言うと、シマリスさんは頭上で小さく揺れていた木の葉を手に取って、ぱくり。
「美味しそうな葉っぱを食べて、それから行こう」
「やっぱり何か食い意地張ってるよな、お前」
もこもこと頬袋を膨らませるシマリスさんのそばで、カラスさんは小さくため息を吐きました。
*
シマリスさんは、生まれて初めて地面から空へ飛び立ちました。生まれ育った森全体の姿を見下ろしつつ、シマリスさんは茶色いシッポを左右に激しく揺らします。
「わあ、たっかーい! すごいね、カラスさん! 毎日こんな景色を見てたなんて!」
「あんまりはしゃぐな。お前、オレの思った以上に重いんだから、木の実雲に着く前に落としちまうぞ」
カラスさんはごちりながら、両脚でシマリスさんの身体をしっかり掴みます。あまり爪を立てないよう気を配るカラスさんでしたが、シマリスさんは時折身を乗り出しては、カラスさんの脚から抜け落ちそうになりました。
「すごい、もう雲が目と鼻の先に……カラスさん、あと少しでマボロシの木の実雲だよ!」
「分かってる。それより、こっから上は空気が薄くなる。うっかりオレの脚から手を離すなよ」
そして、シマリスさんとカラスさんは、マボロシの木の実雲のそばまでやって来ました。もこもこと膨らんだ巨大な白い雲の周りではかすかに風が吹いており、時折小さな雲がちぎれては、どこからか別の雲が流れてきて、巨大な雲へと吸い込まれていきます。その流れを繰り返し、マボロシの木の実雲は二匹の前でどんどん大きくなっていきました。
「ほら見ろ、やっぱマボロシの木の実雲はただの雲みたいだぜ。とてもシマリスの楽園には見えないな」
「うん。だけど、ここに来て良かったよ。本当にそう思う」
シマリスさんはそう言うと、カラスさんの脚から身を乗り出しました。すると、シマリスさんの小さな身体がカラスさんの脚のすき間から抜け落ち、そのままマボロシの木の実雲へ吸い込まれていきました。
「おい、お前、待てっ」
「カ、カラスさーん!」
気がついたカラスさんが追いかけるより早く、シマリスさんはマボロシの木の実雲の中へ消えていきました。
*
シマリスさんがおそるおそる目を開けると、そこには真っ白な森が広がっていました。もこもことした樹木、その周りに転がるさまざまな形をした白黒の木の実、そして全身真っ白に包まれたシマリスが、白い森のあちこちを走っていきます。
シマリスさんは驚きながらも、そばに転がっていた真っ白な木の実を手に取って、口に運びます。
もこもこ、もこもこ。
「わあっ、この木の実、とっても美味しいぞ」
口の中で噛めば噛むほど、白い木の実が少しずつ蕩けるような甘味を放っていくのが、シマリスさんにも分かりました。今までにない不思議な味わいを前に、頬袋まで溶けてしまいそうな錯覚さえ感じるほどです。
「どうだ、美味しいかい、その木の実は」
シマリスさんの後ろから、しわかれた声が響きます。どこか懐かしい気持ちを呼び起こす声に、シマリスさんは顔を後ろへ向けました。見ると、全身を白く染めたシマリスが、シマリスさんを穏やかな瞳で見つめていました。
「うん、とっても美味しいよ。オイラ、こんなに美味しい木の実、初めて食べたよ!」
シマリスさんが小さな身体を大きく揺らし、伝えきれない喜びを全力で伝えます。対する白いシマリスは、ほっほっ、と笑い声を上げると、シマリスさんへ優しく語りかけました。
「ほら、ワシの言ったとおり。マボロシの木の実雲、シマリスの楽園は、ちゃんとあるんだよ」
「えっ……」
シマリスさんが驚いて顔を上げるやいなや、ふいに地面から風が吹き始め、シマリスさんの体がふわりと宙に浮きました。白いシマリスは、頭上のシマリスさんへ小さく手を振りながら、声を辺りに響かせます。
「もう時間だ、またきっと会おう」
シマリスさんの目の前で、白いシマリスの姿が一瞬、かつてこの雲の存在を教えてくれたシマリスの姿に見えました。白い地面から徐々に身体が離れていく中、シマリスさんは精一杯叫びます。
「待って、待ってよ! おじい――」
*
気がつくと、シマリスさんは空中でカラスさんの脚に身体を支えられながら、森へゆっくり下ろされていました。シマリスさんの頭上で、カラスさんが独りクチバシをぱくぱくと動かします。
「ああ、結局、最後まで世話する羽目になっちまった。何やってんだオレは……ん、ああ。気がついたのか」
シマリスさんは辺りをキョロキョロ見回した後、思い出したように頭上を見上げます。ところが、空には大小様々な大きさの雲が流れるだけで、マボロシの木の実雲は影も形もありません。
「驚いたぜ。あの後、マボロシの木の実雲がみるみる消えてなくなって、そんで入れ替わりにお前が落ちてきたんだ。つっても、落ちる速さがスゲー遅かったから、こうして脚で掴むことができたわけだが」
低い声で告げるカラスさんの言葉を聞いて、シマリスさんはカラスさんの黒い瞳を仰ぎます。カラスさんもまた、自身の脚を掴む小さな身体を見下ろしました。
「本当にありがとう、カラスさん。おかげでオイラ、マボロシの木の実雲へ行くことができたよ」
「へっ、まあ何だ、たまにはこういうのも悪くねえ。で、マボロシの木の実雲はどうだったよ?」
カラスさんの問いに、シマリスさんは笑顔で、大きく口を開いて答えます。
「とっても、美味しかった!」
「ああ……けどその方がお前らしいかもな。そら、もうすぐ地面だぜ」
シマリスさんはカラスさんの脚に掴まりながら、再び広い森の姿を見回しました。
ここは、どこか深い森の中。春はまだまだ、始まったばかりです。
シマリスさん、雲を食べる/おしまい