8:いつも傍らに
「ユリシス、起きて。起きてってば」
まどろみから引きずり出したのは、そんな柔らかな声だった。
――イェシカ……? 何で……。
「何でって、寝ぼけてるの?」
困ったように口元を緩めながら、彼女は首を傾げる。こう言うのは失礼かもしれないが、よく見慣れた顔だった。遠目から見た彼女はよくこんな顔を浮かべていたような気がする。
なにせ、小さな子たちのお姉さんだったから。腕白な子供たちの面倒を見るのは傍目にも大変そうだった。
それがまさか、自分にも向けられることになるとは。
ゆっくりと辺りを見渡せば、自分は木の根にすっぽりと収まっているようだった。向こうでは火を囲んで皆が食事をとり始めている。
大きく眉を垂らしたベンノが、ふやかしたパンをしゃぶりながらこちらを眺めていた。
そういえば、自分たちは森の中で野営中なのだったか。
どうやら随分深く眠り込んでいたらしい。
見張り役をすっぽかしたなんて、してないといいのだけれど。
そう頭をひねってみても、ぼんやりとした頭では記憶を引っ張り起こすのも難しい。
ペアになったオロフは、無愛想が過ぎるが優しい男だ。安全面を思うと考え物だが、気を使って起こさなかったなんてことも、無いわけではない。
いつのまにか毛布を蹴とばしてしまっていたらしく、少し肌寒い。
「皆もう起きてるよ。早くしないとご飯抜きになっちゃう」
――そうか、日が昇ったらすぐ出発だったっけ。
「そうだよ。置いてかれちゃうよ?」
――それは困るな。
寝ぼけ眼をこすりながらの自分と、くすくすと楽しそうに笑う彼女。
彼女の背後からは何人かの子供たちが興味深そうに覗き込んでいる。
なんだか、無性に恥ずかしい。情けないところを見せてしまったようだ。
それでも、まあ悪くない。
「ほら」
白い、小さな手が伸ばされる。
それを、手に取って――
***
「夢、か」
目を開けると、弱弱しい火がゆらゆらと揺れるのが目に入る。
それだけだ。
それ以外は寒々しい雪原と、延々と広がる闇ばかり。
沢沿いの寝床を後にして、今は折り重なるように倒れた木々の陰に身を寄せていた。
再出発からまだ一日目。
燻製肉が出来上がったのが昼頃だったこともあって、あれからろくに進めていなかった。
岩陰よりもひどい寝床を考えると、もう一日あそこで夜を越すのもありだったかもしれない。そう、今さらながらに後悔してしまう。
「……起こしてくれたのか。ありがとう」
生命線である焚き火はもう少しで消えそうといった有様だ。このまま寝ていたら凍えてしまっていたかもしれない。
新たに薪を足すと、ゆっくりと、火の勢いと暖かさが戻ってくる。
「……おやすみ」
まだ夜は長そうだ。もう一度、眠りに落ちる。小さく丸めた体を、毛布代わりの兎の毛皮で包んで。
それでも、心の温かさまでは戻ってくれなかった。
***
沢に沿うように、山頂方向へと歩みを進める。
山道は険しさを増す一方で、積もった雪と相まって足を上げるのも一苦労だ。
周囲はいまだ木々の疎らな景色である。
土喰らいの縄張りを抜けていないのだ。
縄張り内を歩く危険はもちろん承知のこと。
土喰らいのテリトリーを歩くことで、別の魔物との遭遇を避けようという魂胆である。
半ば賭けのようなものだ。
あの夜に土喰らい姿を現したのは縄張りの巡回だったのではないか。
そう考え、ならば土喰らいが戻ってくるまで、逆に利用して距離を稼ぐべきではないかと思いついた。
燻製肉作りをしている間、一向に土喰らいが戻ってくる気配がなかったことがこの方針を後押しした。もしかしたら縄張りの巡回はまだ終わっていないんじゃないか、と。
何せ奴は足が遅い。一周して戻ってくるだけで相当の時間がかかるだろう。
しかし仮説は仮説。明らかに土喰らいの通り道だろう木々の全く生えないルートを歩くのは憚られ、様子の伺える少し離れた位置を保っている。
一度意識してしまえば、少しくらい距離を開けた程度で見失わないくらいには周囲との違いは一目瞭然なのだ、それくらいは問題ない。
しかし名前の通り土に潜ることが多い魔物だ。もしも巡回を終えて地中に潜ったのであればあれの接近に気づくのは難しい。
さらに、潜っているときのほうが注意しなければならないとも聞いている。
土喰らいは目が悪いという特徴もあって、地上で遭遇しても隠れるのは簡単らしい。
しかし土中にいるときは振動で生き物の位置を感知するという。
人間一人分の足音が地中にどれほど響くのかはわからないが、索敵能力は地中にいるときのほうが高いのだ。
山中の魔物の警戒の他、地下にも意識を向けざるを得ないというのは、随分と気が滅入るものだ。
***
ゴウゴウと、荒々しい音が耳朶を打つ。
目の前に広がるのは沢とは比べ物にならないほどに勢いのある水流だ。
白波があちこちで立ち、まるで「凍ってなるものか」と激しく抵抗しているようだった。
あれからずっと沢を遡っていくと、次第に水流に勢いがつき始め、とうとう大きな川と合流した。
容易に渡らせる気はないかのように合流した川は幅が広く、流れも速い。
深さこそそれほどでもないが、流れを考えると下手に渡ろうとすれば足を取られてしまいそうだ。
激流から突き出した岩を飛び石にすればなんとか渡れそうではある。しかしそれもどこにでもあるわけではない。
今のうちに川を渡ってしまうかどうか、少しばかり悩んでしまう。
方針が決まらないまましばらく川沿いを歩いているうちに、木々の疎密にもとうとう変化が見られ始めた。
木々が疎らな道――土喰らいの縄張りが徐々に川沿い、山頂方向からずれ始めてきたのだ。
特に川の対岸は枯れ色が薄れ始め、緑の葉をつけた背の高い針葉樹が立ち並んでいる。
あちらは完全に縄張りから外れているのだろう。
ここらが一つの分岐点になりそうだった。
休憩を兼ねて手近な木に寄り掛かる。
水袋に口をつけると、思っていた以上に喉が乾いていたらしい、眼前の川に負けないくらいの勢いで水が流れていく。
身を切るような寒さの中、相反するように体は熱を持っていた。防寒着の中は熱がこもり、内が暖かく外が寒い。寒暖が入り混じるせいで体のバランスが崩れそうだ。
冬山の過酷さを改めて実感させられているようで、こうして立ち止まっているだけでもどんどん体力が消耗していく。いっそ止まっているほうが辛いまでもある。歩いていれば全身が血を求めているから良いものの、立ち止まっていればそれが頭に溜まるようでポーっと顔が熱くなるのだ。
頭が火照るのなら雪風も涼しいようで、実はそうでもない。
何せ顔だけはずっと露出しているのだから、雪に焼けた肌に冷風はピリピリとむず痒いばかりで不快でしかない。防寒着のあるなしにかかわらず、内と外での温度差が気持ち悪い。
それでも、しばらく休めば筋肉のほうは疲れが取れていくのだから始末に負えない。どちらをとっても角が立ってしまう。
そんな中、意外にも気力の方は尽きていなかった。
足の下という警戒すべき方向が増えたというのに、だ。
目下の警戒対象である土喰らいは微塵も気配がなく、そしてその他の魔物も一匹も見当たらない。
このことが大きな助けになっていた。
寄りかかっていた木から体を起こすと、体の節々が軋むような悲鳴を上げた。
重みの増した背嚢の吊り下げ紐がやけに体に食い込んでいる。もう少し、もう少し休んでいこうと地面に縛り付けるようだ。
未練がましい要望には断りを入れ、ようやく決まったこれからの方針を案内人にして連れ立って歩く。
これまで魔物との遭遇が一度もなかったことを考え、せめて土喰らいの縄張りが遠目でもわかるうちはこのままではいいかもしれない――
決められたのは、先延ばしにするという方針だった。
魔物と遭遇しないというのはかなりのメリットなのだ。警戒は必要だが、それでも周囲をうろつく気配がないというのはそれだけで体を動かしやすくなる。
夏の山林は今の比ではないほどに精神が削られていくことを、ユリシスは身をもって経験している。
一方で冬山はどうだ。
いくら警戒しているとはいえ。
いくら魔物の縄張りを利用しているとはいえ。
どこを見渡しても静かな大地が広がるだけだ。夏に比して心に余裕が残る。
そんな中、寒さと雪だけがどうしようもなく厄介だった。
寒さはそれだけで体温を奪うし、積もった雪は歩くのを困難にさせる。
精神的疲労と肉体的疲労、そのどちらもを受け入れなければならないとしたら、いったい何日体が持つというのか。
だからこそ、魔物との遭遇が少ないことは極大な利点になり、およそ手放しがたいものにまでなるのだ。
方針が定まれば、自然と足も動き出す。
川沿いと土喰らいの縄張りの中間地点を、どちらからも離れないように進んでいく。
川に合流してからというもの、山の景色はすっかりと姿を変えている。現在ユリシスが歩いている道だって、なんと林の中だった。
土喰らいの縄張りから少し外れただけでこれだ。境界線がくっきりするほどに木々が茂っている。
目に映るのはどれも針葉樹。真っすぐに、そして高く背を伸ばしていることから根本付近はまだなんとか見通しは効く。視界は悪くなってしまったが、ここは身を隠すのが容易くなったことを喜ぶべきことだろうか。
「あ……」
頬に冷たい何かがはらりと落ちる。
見上げると、白光に鈍く照らされていた空は陰りはじめ、はらはらと雪が舞い始めていた。
これまで天候にだけは恵まれていたが、とうとう天にも見放されたか。
幸い、吹雪くほどではない。しかしそれもいつまで続くか。
***
冷たい風に交じって、綿のような雪が体に吹き付けていく。纏った蓑すら白に染まりはじめ、瞼に積もる雪がいちいち鬱陶しい。
いまだ吹雪く様子はないが、大地に深々と雪が積もりゆくのを見ていると、頭上の景色を反映したかのように心にも暗雲が立ち込めていく。
「寝床、探したほうがいいかな……」
雲に隠れたとはいえ、まだ日は高い。
昼にもなっておらず、距離だって全く稼げていない。
増えた食料もこれでは一時のしのぎにしかならないではないか。
「もう少し……もう少し……」
どうせ針葉樹林には野営に適した場所も少ない。そう適当に理由付けをし、ザクリザクリと新雪を踏み崩し続ける。
轟轟という川の流れも遠のいていくのをぼんやりと感じていた。
降りしきる雪がすべての音を吸い込んでいるかのように深い寂寞が広がっている。
時間の感覚も方向感すらもあやふやになりつつあった。
景色は何一つ変わらない。どれも似たような針葉樹が一定の間隔で続くばかりで、自分はもしかしたら立ち止まっているのではないか、と疑いすらもかけてしまいそうだ。
不意に思い出したように目線を遠くへ向けると、土喰らいの縄張りは木々の合間から辛うじて見えるだけというほどに遠くになっていた。
――これはよくないな。
そう、ユリシスは自身の判断の誤りを悟った。確かに魔物も出ない楽な道中だ。しかし今のスタンスはあまりに中途半端だと理解してしまった。
このまま歩き続ければいずれは目印たるどちらとも離れてしまう。
引き返すかどうか。
そう悩み始めたとき、ふと静かな世界で耳がとある音をとらえた。
すぐさま身を屈め、木々の陰へと滑り込む。
ふわふわと宙を漂い気味だった思考も自然と引き締まっていくのを感じ、場違いにもほっとしてしまう自分がいた。
――どっちだ……?
右へ左へと視線を動かすも、音の主の姿は見えない。
まだ、音は微か。しかし途切れることのない音を考えると土喰らいが歩いているというわけではなさそうだ。
――来た。
勢いよく地を走る音。しかし柔らかな雪に勢いも音も吸われるのか、随分と慎ましい。
「あれは……珍しいな。狼か」
ユリシスの目に映ったのは一目散に逃げ惑う鹿の大群と、それを追いかける狼の群れだった。
鹿はともかく、狼のほうはメイル村近辺では滅多に見ない。ベンノの言葉を信じるのなら、滅多に見なくなった、と言うべきか。
いくら珍しい普通の動物とはいえ、狼は肉食の獣だ。遭遇すればただでは済まないのだが、こうも冷静でいられるのはどこか基準がずれてきているのかもしれない。
危機感の摩耗を心配しながらも、ユリシスはじっと事の成り行きを見守ることにした。
鹿の群れは林の中よりもその健脚を生かせる開けた地を選んだのか、こちらに寄って来る様子はない。一団からはぐれるものもおらず、このままじっとしていればやり過ごせるだろう。
そう幾分胸が軽くなったのも束の間。
今度はそれこそ地鳴りかというほどに大地が揺れ始める。
「うわッ!?」
バランスを崩し、雪の中へと体ごと突っ込んでしまう。雪を払う暇も惜しいと、身を寄せていた木を支えになんとか体勢を正し、今度こそ神経をピンと張り詰める。
呼吸が浅くなっていくのを無意識に感じ取る。努めて深く息を吸い、高まりゆく心拍を、混乱し始める思考を鎮めようと体が奔走する。
大丈夫、大丈夫と自らを慰めてもざわざわと肌が泡立つのを止められない。疑いようのない嫌な予感が脳裏を埋め尽くし、目を、耳を、鼻を、そして肌をも使って〝其れ〟の動向を探る。
そして、〝其れ〟は唐突に現れた。
大気を揺るがすほどの轟音。空気をけたたましく弾けさせ、雪も土砂も――そして獣たちも何もかもを巻き上げた。
思わず息をのむ。
遠く距離を開けていたはずのユリシスの元まで真っ白な飛沫が届く。いや、撒き散らされた衝撃に雪が舞っただけだろうか。
なんにせよ、自然と腕が顔を庇っていた。
それでも、腕の下から、木々の合間から、雪煙の向こうからでもその威容はしっかりと目に焼き付けられる。
土色の、醜悪なでこぼこ顔。
雪原から飛び出した巨大な顔面は、その深く裂けた大口を開けて宙へと伸びていった。
周囲には巻き上げられた獣が――鹿も狼も関係なくボトボトと落ちていき、運悪く真上にいた数匹は抵抗することもかなわずに恐ろしく開けられた穴の中に消えていった。
空中から落下したものは動きが鈍く、立ち上がろうと必死にもがくが、そんなものは格好の的でしかない。
跳ね上げた首はいつの間にか地の高さまで戻り、辺りに転がる肉たちを手当たり次第に喰らっていく。
丸呑みされたもの。
一部を残して噛み千切られたもの。
立ち上がり、逃げようとしたところを襲われ下半身を失ったもの。
肉も土も雪も何もかもが大口の中へと消えていく。
大顎が閉じられるたび、断末魔の叫びすら聞こえてくるようだ。
圧倒的という他なかった。
これは狩りですらない。ただの捕食。ただの食事だ。
繰り広げられる凄惨な光景にユリシスは目を奪われていた。いや、体が動くことを認めず、見開かれた目を逸らすことができていなかった。
血生臭さに顔をしかめることすらも許されない。
ピクリとも動かない体で、逃げろ逃げろと慌ただしく警鐘を鳴らす本能だけが正常だ。
生き残るため、すぐさま逃げ出せる獣とは大違いだった。
先ほどまで追うものと追われるものだった集団はその立場を放り捨て、混じり合いながらも散り散りに逃げていく。
何匹かユリシスのいる林の方へも向かってくるが、どいつもこいつも立ち尽くす人間一人などにまるで気づかず、もしくは気にする余裕もなく駆け抜けていった。
木のすぐそばに立ち尽くしていたからか、ぶつからなかったことだけが幸いだろう。
そんな、恐慌が満ち渡った世界の中、地中からの襲撃者――土喰らいは周囲にもう獲物が転がっていないことを確認すると、再びゆっくりと大地の中へと消えていった。
***
頭の上に雪が重く降り積もった後。
ようやく硬直が解けたユリシスが川を渡る決心をしたのは、言うまでもない。