7:息継ぎ
恐ろしい夜が明けた。
とても長い悪夢を見ていた、そんな勘違いを起こしてしまいそうなほど、眼前に広がる景色は平穏そのものだ。
言葉は出ない。
生きていることにひたすら安堵し、強張った体から力が抜けていくばかりだった。
日が昇るさまを暫くの間眺め続け、ようやく体を動かせるほどに気力が戻ってくる。
岩陰から這い出て沢辺でぼうっと立ち尽くしていたせいで、冷たい山の風にすっかり体を冷やされてしまった。
肌寒さに腕をさする。思わずぶるりと体を震えさせてしまうが、それもかえって意識を覚醒させてくれた。
太陽の眩しさが目に痛いほどになり始め、視線は自然と落ち着きを求めて彷徨い始める。
目が留まったのは、昨夜件の魔物が通ったであろう方向。沢沿いの、枯れ色の林だった。
そこは昨日とはまるで違った光景が広がっていた。
一面の雪の原は捲れ上がり、なだらかだった斜面はでこぼことした大地にすり替わっていた。真っ白な地面には点々と土が飛散し、まるで落とし物のようだ。
通り道の木々は軒並み倒れ、辛うじて折れなかったものも、幹の損傷具合から見てじきに枯れてしまうのだろう。
遠目からでも、その凄まじさは見て取れる。
この惨状は、たった一匹の魔物によって起こされたものだ。いや、この程度ならば相当ましな方だろう。何せ暴れ回ったわけでもない。ただ歩いただけ。真っすぐに、たった一本の線を雪山に刻んだだけで済んだのだから。
その事実に戦慄しながらも、ユリシスは件の魔物の正体には検討がついていた。
それを確かめる前に、まずは諸々の準備に取り掛かることにした。もう少し、心を落ち着かせてからでもいいだろう、と。
寝床に戻ると、冷えた体を温めるために再び火を熾し、腕にも薬を塗りなおす。味気ないパンと水だけで軽い食事をとって腹を満たし、ようやく人心地ついた。
「行くか」
誰ともなしに、ぽつりと口から零れ落ちる。
どうも独り言が増えてきていると、ユリシスは感じ始めていた。言葉を返してくれる誰かなど望めない現状では余計虚しくなりそうなものだが、案外気が楽になるものだ。
一晩では乾かなかったようで、およそ半日ぶりに身に着ける手袋と腕あては湿り気が残っている。それでもないよりましなくらいにはなっていた。
腕に巻く蓑だけを干したままにし、ユリシスは岩陰を出て魔物の通った跡へと足を運ぶ。
昨夜は魔物の登場でどっと疲れてしまったが、それでもいくらか睡眠はとれた。そのため精神面とは反対に、昨日よりかは足取りも軽い。幾分頭もすっきりしている。
段差を難なく乗り越え、林の中へと足を踏み入れる。
改めて近づいてみると惨状がより鮮明になり、寒さとは別に背筋に震えが走る。
どうにも恐怖がまだ抜けきっていないようだ。なにせ猿顔どもとはまるで違う、人間の身一つでは抗いようもない危機が目と鼻の先を通り過ぎたのだ。
昨夜のうちにいったい寿命がどれだけ縮んだだろうか。
だが、怖がってばかりもいられない。
この山の中にはこんなやつらがうようよいるのだから。
恐怖を戒めるように、わざとソレと向き合う。地面に視線を這わせると、一定間隔ごとに地面が盛り上がった部分がよく目立つ。
ただ盛り上がっただけではない。小山の天頂にはまるで噴火口のように大きな穴が開いている。手近な一つに寄り、中を覗き込む。
小山の中、捲れ上がった大地にはわかりやすく足跡が残っていた。
人間の頭三、四個分の大きさの、極端に短い三本指の大きな足跡。
「やっぱり土喰らい、かな」
思い当たるのはメイル村では土喰らいと呼ばれている魔物。都会風に言うと、ギブラルパというらしい。
土の中に潜って山中に穴をあける魔物らしく、大昔には唐突に足元から顔を出した土喰らいに、狩猟に来ていた村人が食われてしまったと言い伝えが残っている。
その姿は醜悪で、胴の短いトカゲのような見た目らしい。
乳白色から土色の体に鱗はなく、かわりに硬化した皮膚や筋肉が瘤状に盛り上がり、でこぼことした鎧をまとっているそうだ。
胴が短いとはいえ、所詮比率の話であって全長は大岩を連ねてなお足りない。
手足は柱のように長く、歩くのが下手で大地に杭を打つかのような歩き方をする。その手足も、地面に潜る際は折り畳んでぴったりと体に張り付け、代わりに長く頑丈な尾が土を掻いて地中を泳ぐ。
地面に潜っていることが多く、土のにおいを振りまくのもきっとそのせいだろう。
幸いなことに目は退化している。そのため動かず、じっと物陰にでも隠れていれば見つからないのだとユリシスは教えられていた。
メイル村では遭遇例のほとんどない魔物だ。
ならばなぜこんなことまでユリシスが知っているのかというと、それは彼の〝お勉強〟の成果であった。
ユリシスは必死に字を覚え、村の蔵書をよく読み漁っていた。それには村人が記した山林の記録の他、外から買い付けた書物もあった。
更に、ユリシスは外からの訪問者からよく魔物の話を聞いていた。山に入る際に役に立つだろうとの考えだったのだが、思いのほか熱が入ったのは純粋な興味も混じっていたからなのかもしれない。
なんにせよ、ユリシスはデリアラス連峰において、メイル村の人たちがよく知らない、または遭遇したことすらない魔物に対してもある程度の知識があった。
当時は、こんな形でその知識が使われることになるとは思っていなかったが。
木の密度が低いのも納得だ。おそらく巨体が通るたびになぎ倒しているのだろう。いわば極大なけもの道。大きすぎてそうだと気づかなかった。
想像していた通りのけもの道がないのは、もしかしたらここらが土喰らいのテリトリーだからなのかもしれない。猿顔などの小型の魔物はあれに襲われることを恐れ、近寄らないのだろう。
やはり、長居はできそうにない。
***
一通りに観察を終えてなお、ユリシスは未だ林の中を歩いていた。
昨日のうちに仕掛けていた罠の様子を見るためだ。
結果は一つは土喰らいに踏み潰されでもしたのか派手に壊れており、三つは変化なし。
一つは行方不明で、残るは最後の一つ。
「でかいな……」
最後の一つには見事獲物が引っ掛かっていた。しかし、掛かっていたものが少々想像を超えたもので、まじまじと見つめてしまう。
罠に掛かっていたのは丸々と太った山兎だった。
片手ではなんとか持ち上げられる重さ、自身の腰にまで届こうかというサイズ。
うまく首に蔦が絡まっており、その状態で無理に暴れでもしたのか、首の骨が折れ、既に息絶えていた。
見た目に違わない力を備えているようで、蔦を固定していた低木はいくら細かったといえ根元にひび割れが走っている。蔦などは半ば千切れかけだ。頑丈で太い蔦だからこそ耐えられたのだろう。
もし山兎がみなこのようなサイズなら、ただでさえ実用に耐えうる蔦は少ないというのにこれからは更に見つけるのが困難になるだろう。
見た目は兎そのもののように見えるが、こいつももしかしたら魔物なのだろうか。
そう疑いたくなるくらいの異質さだ。
冬の前にエネルギーを蓄えていたのだとしても、限度があるだろう。
行方不明の一つを除き罠をすべて回収し、山兎を抱えながら沢へと戻る。
大物の成果に、ユリシスは素直に喜べずにいた。
丸々と肥えた兎は食いでがあるだろう。それこそこんな獲物が取れるのならメイル村が食糧難に喘ぐことにならないほどに。
しかし、今この場においてはなかなかに厄介だった。
処理が困難なのだ。
解体には時間がかかるだろうし、肉のすべてを手早く保存食へと調理するのには手の込んだ道具が必要となる。
長居したくないといった矢先にこれだ。
だが、食料の心許ない旅路でこれだけの獲物を捨てていくなんて考えられない。
現在の寝床も、ちょうど水場ということもあって処理もしやすい。
最悪、しばらくの間ここに泊まることになるかもしれない。
「いや、案外何とかなるか?」
一つ、名案とばかりに思いつく。大した案でもないが、わざわざ面倒な道具を作らずにも済むかもしれない。
不安半分喜び半分。
微妙な表情を浮かべながら、ユリシスは解体用のナイフを取り出した。
***
血抜きを済ませ、狩猟用の小さなナイフで丁寧に解体していく。肉は脂を取り除き、薄切りにしていく。
切り分けた肉は岩陰へと持っていき、ひとまず物干しに干しておく。
今日食べる分を除いたとしてもかなりの量だ。あまりにも肉の量が多く、途中物干しを追加で作ることにもなった。
岩陰は寝床に使っていた場所とはまた別だ。
血抜きの間に新たに探した場所で、小さな洞のようになっている。寝るにはとても窮屈で、空気の通りも悪い。
その岩陰に新たに薪を組んでいく。
肉を燻すため、そしてあらかじめ洞の中の温度を温めておくためだ。
火をつけるのは明日になるだろうか。
洞のそばには倒れないよう注意しながら物干しが並べられている。しばらく風にさらし、ある程度乾いてからこれらを煙で燻していくことになる。
最後に、木の枝をそこらから拾ってきて蓋代わりに洞の入り口に立てかけていく予定だが、これは後で集めることになるだろう。
雑なつくりだが、これで何とか食用に耐えうる燻製肉を作れそうだ。
獲物が捕れた場合は、あらかじめ燻製にすることに決めていた。
今の時期ならば腐るのを気にせずに干し肉にするのも可能だが、こちらは時間がかかりすぎる。
燻製にするにしてもこの量は時間がかかりそうでもあるが、火を使う分ましだろう。
血の匂いも、煙に紛れてくれると良いのだが。
ネックとなるのは干している時間だ。なるべく風下になるような場所を選んだが、一体どれだけ効果があるか。
頼みは実のところ土喰らいである。
あれの縄張りである以上、ほかの魔物が寄って来ることもそうはないだろう。
それに、土喰らい自体の歩みは遅い。そのうえ奴は巨大な魔物だ、縄張りの広さもそれ相応だろう。
どれだけの間地上に出ているのかは知らないが、一日やそこらで再びここに戻ってくるとは考えにくい。
これらを考慮し、少しの間は魔物に襲われずに済むかもしれない、そう考えたわけだ。
肉の処理はひとまず終わった。だが、ここで一息つくわけにはいかない。
今度は皮だ。
「普通の鉈も、持ってくればよかったな」
皮に関してはナイフなんかよりはよっぽどやりやすい。
山兎の皮は適当な岩の上に広げ、裏側が真っ白になるほど丁寧に裏すき――肉と脂をこそぎ落としていく。裏すきを終えると沢で十分に洗い、そして干す。こちらは寝床の方でいいだろう。後々揉んだり伸ばしたりという作業も残っているのだが、今はこれで終わりだ。
広げてみるとやはりかなり大きい。半身ほどは覆えそうだ。
処理が不十分では長持ちはしないだろうし、大きさ的にも置いてきてしまった毛布代わりにこそならないが、暖かそうな毛皮であることに変わりない。時期的に冬毛であったのもありがたかった。
内臓は食べられる部分を除き捨ててしまうしかない。供養としては埋めるのが一番なのだろうが、臭いが残ってはいけない。沢の流れに任せることにした。
最後は骨だ。
骨の扱いは正直なところ困ってしまう。
使いようによってはかなり便利な部位でもあるのだが、加工するだけの時間も用意もない。
骨の処理、加工はなかなか面倒だ。食べるだけの肉と違い、道具として残すのなら長い時間をかけて油や臭いを落としていかないといけない。
結局頭骨と肩甲骨、背骨あたりはどちらにせよ嵩張るので捨てることにし、それ以外は丁寧にばらし、血や脂、そして残った肉などを落としていく。
丹念に洗い、そしてしばらく沢に漬けてみることに決めた。流水で臭いと油が抜けるならそれでよし。だめならば、これも置いていくことになるだろう。
蔦で括った骨、そしてもろもろの捨てる部分を持ち、沢を下流へと下って行く。現在の野営地のそばにしないのは、水に漬けている間どれだけ臭いが出るのかがわからなかったからだ。
少なくとも今日は昨日と同じ寝床で夜を越すことになる。
そのため、安全のためできる限り離れた位置に置いておきたいのだ。
燻製の方も不安だが、あちらは火の加減を見なければいけない。目を瞑るしかないだろう。
***
それから夜に怯えながら過ごすこと二日間。
ずいぶんと煙臭い仕上がりになったが、ようやくこれからの食の見通しが立った。