6:彷徨
あれからどれくらい経っただろうか。
ふらふらと歩き続け、気が付けば木々の天井からは白い光が差し込んでいる。
いつのまにか森は抜け、辺りはすっかり山道となっていた。
鬱蒼としていることに変わりはないが、大樹の立ち並ぶ森とはまた違った景色が広がっている。
大木ではあるが、森とは比べ物にならないほど華奢で枯れ色の雑木と、雪に埋もれかけた笹薮。
緩いとは言い難い傾斜と、でこぼことした大地。倒木や土くれでできた天然の段差に、どこかから転がってきた大岩。
身を隠すすべには事欠かないが、どこに何が潜んでいるかもわかったものじゃない。
そんな中をフラフラと無警戒に歩き回っていたようだった。
道からは既に外れ、どこを歩いているのかもわからない。以前山に入った時に通ったルートとも違う。まるで見慣れない景色だ。
幸い、周囲に魔物どもの気配はない。
昨日の騒ぎで、ずっと後ろ、森のほうに集まっているのだろう。
そうでもなければ血の匂いを漂わせている自分などすぐに襲われているはずだ。
食らいつかれた右腕の具合は悪い。
服の上からでも痛々しい傷口が見えるが、血はある程度止まっているようだった。
体を動かすたびに重い痛みが走るが、寒さに感覚が麻痺してきているのか動かせないほどではない。
だからといってこのまま放置するのはよくないだろう。大した治療もできないが、応急処置くらいはしなければならない。傷薬なら多少は持ち合わせがある。
近くの藪に分け入って、身を隠すように腰を下ろす。その際ガサガサと藪が揺れ、葉に積もっていた雪が体に降りかかるが、冷たさに構うほどの気力はなかった。
小瓶に入った塗り薬、包帯、そして水袋を用意する。
水袋の中身はそれほど多くない。最悪これで使い切ってしまうだろう。後で水場を探す必要がありそうだ。見つからなければ、雪でも代わりに詰め込むか。
腕を外気に晒し、水で傷を洗い流す。途端にジクジクとした鈍痛と刺すような痛みが交互に襲いかかってくる。時折吹き付ける寒風と相まって、治療のはずがより痛めつけてるように錯覚してしまう。
左手も血と泥まみれだ。手袋など何の意味もないほどにべったりと染み込んでいる。
こんな手で傷口に触るわけにはいかず、右腕同様洗い流すと、水袋はすっかり空になってしまった。
こびりついた血がある程度落ちると、痛々しい、より鮮明となった傷口が露わになる。
ここに傷薬を塗るのはなかなかに勇気がいる。
小瓶からひと掬い。
一思いに、それを傷口に塗りたくった。
苦悶の声が漏れ出てしまうのは、仕方のないことだろう。
薬を塗った後は包帯を巻き、また腕当てや蓑を着込んでいく。これらも早いうちに洗っておきたいところだ。
先までの痛みとはやや違う、掻痒感。ハーブ由来の清涼感がひりひりと傷口を襲い、そして相反するように熱を持ったような感覚が傷口を苛む。
それらが肌になじむまでしばらくじっと座り込んでいた。
空を見上げていた目元が痒い。
手袋を外したままの左手で拭うと、乾ききった涙の痕が剥がれ落ちていく。
頬を伝っていた温かいものは、もうすっかり冷めきっていた。
***
一度腰を下ろしてしまうと、なかなか足が動こうとしない。尻にまるで根が生えてしまったかのように立ち上がる気力が沸き上がらず、ユリシスはしばらくぼうっと空を見上げていた。
――そういえば、昨日は結局眠らなかったんだっけ。
一度自覚してしまうと、疲労が一気に体に襲い掛かってきた。歩き通し、走りっぱなしだった足は言わずもがな、肉厚の鉈を振り回していた腕も、寒空の下晒され続けた肌も、冷たい空気を吸い続けた肺も、体の至る所が休息を訴えかけている。
飢えすらも襲い掛かり、腕一本指一本動かすのも億劫になる。
もう、何もかもを投げ出してしまいたかった。
体も精神ももはや限界だ。
今にも毛布を被って寝転んでしまいたい。
こんな雪も風も凌げそうにない場所だというのに。
思わず手が背嚢へと伸びたところで、毛布は置いてきてしまったことを思い出した。
勿体ないことをした。
そんな考えが止まりかけの頭に浮かぶ。
こんな雪の中毛布もなしで寝るなんて、風邪をひくでは済まされまい。
――ああ、冷静に考えるとかなりまずいかもしれない。
何人もの命を犠牲にしてまで生き残ったというのに、このままでは自然そのものに殺されてしまうのではないか。
事実、投げ出した手足は指先の感覚がかなり怪しい。
血の巡りが悪いのか。それとも体を温めるだけの力が残っていないのか。
せめて火くらいは起こさないとすぐにでも凍え死んでしまいそうだ。
――それでいいじゃないか。
そう、温かい泥のような思考が這い上がってくる。
仕方のないことだ。終わってしまえ。
そう囁いてくる。
だが、
――それは、いけない。
真反対の、何よりも重い『生きなければならない』という義務感が泥を押しつぶした。。
セットされたトリガーが自動的に引かれる。
呪いにも似た、生きることへの脅迫が心臓を叩き起こし、熱い血流が体を巡り始める。
生き続けるのは辛いことだ。
生きているだけで死という恐怖がついて回る。それがいったいどれだけ恐ろしいことか。
いっそすべてを投げ出して死んでしまうのが一番楽なのに。
自分はどうやら、それが許される人間ではなくなってしまったらしい。
ありもしない毛布を求めていた腕は、代わりに干し肉を引っ張り出し、口に放り込んだ。
ひどく冷たい。ただでさえ固い肉が今は石のようにすら感じた。
そんなもので体力は戻らないが、それでも立ち上がる気力くらいは戻ってくれたようだ。
「……行くか」
そしてまた、ふらつく体を引きずるようにして歩きだした。
***
道を外れてしまった以上、またしてもあてどもなく彷徨うくらいしかできない。
幸い太陽の位置から方向くらいは把握できる。だが、現在必要としている水場や安全に休めそうな場所は方角からは導き出せない。
あまりの手がかりのなさに『村に戻ってしまおうか』なんてことを考えたのも一度や二度ではなかった。
戻ったのが一人だけなら、確かに受け入れてもらえるかもしれない。しかし結局来年再来年と同じことが繰り返されるだけだろう。
何より、自分一人がのうのうと帰るのは違うだろうと、甘い考えを浮かべる自分を責めるもう一人の自分がその案をすぐさま却下するのだ。
そうして誘惑と自罰に苛まれながらも、思考の根幹の部分は頭の中にある知識を必死に引っ張り出している。外で生き残る術は一通り教えられている。その中で現状に当てはまるものを継ぎ接ぎし、体は愚直に実行する。
最も水場を見つける可能性の高い手段はけもの道をたどることだ。
野生動物だって水を飲む。そのため彼らの巡回ルートには水場だって当然含まれている。
だが、確かにけもの道をたどれば水場に辿り着けるかもしれないが、巣に行き当たることもある。さらに、道中の遭遇リスクも高い。
そのためユリシスはもっと別のものを探していた。
注目するのは木だ。
一見全部同じに見えるが、よく見れば様々な樹種が混じっていることがわかる。
冬になり葉も花も落としてしまっているが、その枝ぶりや樹皮などからなんとかおおよその樹種を見分けていた。
木にも好みの生育地というものがあるらしい。中には水辺を好む種というのもいるのだとユリシスは教えられていた。
この知識がどれだけ役に立つかはわからない。目当ての木を見つけたとしても、たまたまそこに生えているだけかもしれない。なにせ、木は自分で住まいを選べないのだから。
足が生えて歩くわけではないのだ、芽吹いた地で育つしかない。
それでも、今はこれが一番有用だと判断したのだ。
体力はかなり前に尽きている。
今は意地ですらない何かで動いているに過ぎない。
時間は掛けられそうにない。
あまりにも見つからないのであれば、最悪雨風くらいは凌げそうなところを先に見つけてしまうのもありだった。
まだ日が高くにあるのだけが幸いだ。一睡もしなかったためかなり早く動けていることになる。
薪に使えそうな小枝などを拾い集めながら、ひたすらに山の中を歩き回る。
手段を間違えたのではないか、無駄足ではないか、徒労に終わるのではないか、そんな暗い考えに支配されながらも歩き回る。
努めて無心を意識し、観察する目だけに注力する。いつの間にか枝葉を包んだ布切れはぱんぱんに膨れ上がっていた。
「……あった」
散々山の中を歩き回り、日も真上にまで昇ったところでようやく小さな沢を見つけた。
さらさらと流れるせせらぎに、胸を撫で下ろさずにはいられなかった。
成果がないというのは、この過酷な環境下では存外堪えるものらしい。
僅かな手がかりしかない中水場探しは難航したが、山の中が静まりかえっているのが助けになった。遥か遠くで流れていた水の音が、魔物への警戒に鋭敏になった神経にはよく届いたのだ。
周囲一帯に目を配り、一応の安全を確認してから沢へと降りる。
沢は木々の割れ目、大地の割れ目のようにゆったりと横たわっていた。
なだらかな谷の真ん中を澄んだ水が流れていく。
穏やかに見える印象と違い、流水に削られたのか沢辺は小さな崖のよう崩れ、それなりの高低差がある。崖の表面は木の根や岩石が露出し、それらの表面には苔が繁茂していた。
水の通り道にはゴロゴロと岩が点在しており、流れが岩にぶつかるたびに飛沫が上がり、白い泡となってまた流れに消えていく。
沢自体は非常に狭く、また浅瀬がほとんどのようで簡単に渡ってしまえそうだ。流れの遅さも相まって、万が一滑り落ちてしまっても溺れることも流されることもないだろう。
だからといって好んで濡れたくもない。
岩場になっている沢べりは濡れていることもあって滑りやすい。気を抜かずに歩を進める。
「冷たいな……」
沢べりに屈み、空になった水袋を満たしていく。
血で汚れたもろもろを洗いたいところだが、それは後にする。
防寒着も水に濡れてしまえばかえって体温を奪っていく。
今日はここ周辺で夜を越すことにしたのだ、洗濯は寝床の用意を終えて、火を焚いてからにするべきだろう。
寝床に関しては、一人分でいいのならそこら中にちょうどいい岩陰やくぼみがある。増水時に削られでもしたのだろうか、沢べりはえぐられたような地形が多かった。
その中で最も奥まっていて、そして風の当たらない場所を見繕う。
ごつごつとした岩場に土砂がたまり辛うじて平坦になった岩陰。岩の塊が剥がれ、そして流されてしまったかのように側面が深くえぐれており、もし雨や雪が降ったところで濡れる心配はない。浅い洞窟のような地形だ。
それでも、毛布も天幕もなければ、本当にただの身を隠せそうな場でしかない。
魔物が水を飲みに沢を降りてくることだけは怖いが、それは最早運だろう。
ここに来るまでけもの道らしいものも見かけなかった。自身の足跡が残っていることは心配だが、それも含めて連中が利用する水場ではないことを祈るしかない。
雪の代わりに苔が覆った岩陰に腰を下ろして、革袋からあるものを取り出す。火打石だ。
枝を組んでから火打ち石で火をおこし、拾っていた笹の葉や針葉樹の枝で焚き付けを行う。
火熾しには慣れたものだ。
ぱちぱちと火がはじけ出し、じんわりと暖かさが伝わってくる。
ゆらゆらと踊る火を見つめていると、思わずこのまま休みたくなってしまう。
どうも相当疲れがたまっているらしい。
頭を振って眠気を振り払い、これからのためにいくつかの作業に取り掛かることにした。
何より、何かをしていないと悪いことばかりが頭に浮かんでしまうのだ。没頭できる何かが、今は必要だった。
まずは拾い集めていた枝の中から長さが十分なものを選び、物干しを作る。
後々血で汚れた腕あてや蓑を干すためだ。
紐替わりに使うのは植物の蔓や茎。道中使えそうなものはたいてい拾っている。
物干しの他にも小動物用のくくり罠をいくつか作る。時期が時期だからか、罠に使えそうなほどに長く頑丈な蔓はそれほど得られていない。これからも見つけたら積極的に集めていくべきだろう。
くくり罠は単純な仕掛けなためすぐに出来上がった。せっかく沢があるのだ、川魚や川エビの類の罠も作りたいところだが、こちらは編むのに時間がかかる。
今日中には無理だろう。
ああ、鉈も研いでおかないと。
焚き火が安定した頃合いを見計らって、早速沢付近の何か所かに罠を仕掛けにいく。
狙いは山兎だ。兎は冬眠をしないため冬の山でも捕れるだろう、経験こそないがそう考えた。いまだ動物の類は見かけていないが、罠の有用性次第では後々主食になるかもしれない、とも。
罠の設置は順調に進んだ。
兎の通りそうな道を見繕い、目立たぬように草木に紛れさせて仕込んでいく。
しかし、作業中のユリシスの表情はどうも曇りがちだった。
何かはわからないが、どうにも違和感が拭えないのだ。不明瞭な霧が隠してしまったかのように、答えはまるで見つからない。
用意した六つの罠を仕掛け終え、歩き回った道を改めて見渡してみる。
ここらはどうも木々の密度が低いような気がする。
雪に埋もれているとはいえ林床も随分と寂しく、これまでよく見かけていた笹薮と違いまばらに草木が飛び出ているくらいだ。
ここらは湿気が多い。土壌のせいということはあるかもしれない。
そして。
「……これ、最近倒れたのかな」
足元に横たわるそれの前に屈み、積もった雪を手で払う。
なぜか、倒木が多いのだ。
沢沿いの木は樹種ゆえか、それか遷移の時期なのかはわからないが、樹幹が細い、つまり若い木が多い。そのため雪の重みに耐えきれずに倒れやすいのだろうか。
もしくは、この沢は氾濫しやすいのかもしれない。
「なら、早めに引き上げる必要があるな」
まとわりつく違和感に一通りの納得をつけ、ユリシスは再び沢へと引き返した。
今日のところは、まあいいだろうと。
***
洗濯を済ませ、薬を塗りなおしたあたりで日が傾き始めた。
さすがに疲れもピークを迎え、今日は日も高いうちに眠りにつくことにした。
眠るのは怖い。
眠っている間は、心も体も無防備だ。
〝何〟に襲われても、抗うことすら許されない。
それに、さすがに一人っきりでの野宿は経験がなかった。どうしても不安を覚えずにはいられない。
魔物もそうだが、寒さも怖い。
下手に寝てしまうと明日の朝になっても目が覚めない、なんて事態になっていそうだ。
なるべく風の通らない岩陰の奥に引っ込んではいるものの、空気の冷たさばかりはどうしようにもない。
防寒着を着込んではいるが、やはり毛布を失ったのは痛かった。
焚き火は先ほど火持ちの良さそうな薪を拾っておいたので、度々継ぎ足せば朝までは持つだろう。
この焚き火がおそらく生命線だ。
体力的には熟睡をしてしまいたいが、何度か起きなければいけない。
せめてもう一人でもいれば。
そう思わずにはいられなかった。
***
まだ空が真っ黒な頃のことだ。
穏やかなせせらぎと、時折火の粉がはじける以外の音がない、静かな夜。
岩陰の奥で寒さに震え、小さく丸まっていたユリシスはふと、地を伝う低く、そして腹に響くような振動に目を覚ました。
「……なんだ」
そっと起き上がり、被っていた布切れを取り払う。
地鳴り?
雪崩?
鉄砲水?
幾つかの考えが頭をよぎるがしかし、着々と近づいてくる揺れは山の上、沢の上流ではなく下のほうからやってきている。
揺れも断続的なものだ。一定の間隔を保って、まるで大きな槌で地面を打ち付けているかのような。
もしかしたら――
ある考えに至ると、ユリシスは急いで今も煌々と火を灯している薪を崩す。すると途端に火の勢いが弱まり、赤熱した炭火――熾火だけが残る。それも砂をかけて完全に消してしまった。
煙まではどうしようもない。そのことに一抹の不安を覚えながらもユリシスはじっとその場で息を潜める。
夜間は日中以上に冷える。
そんな中生命線であるはずの焚き火を消してしまうなど自殺行為だ。
だが、そうせざるを得ない事情が、耳慣れない音と嗅ぎなれない臭いを伴って登って来ていた。
地を伝うだけだった揺れは次第に大地を、大気を揺るがすほどに大きくなり、質量すら伴っていそうな重低音をまき散らしながら近づいてくる。
時折木々が軋む音が混じり、また重い音にかき消されていく。木々はそのまま地に沈んでいったのだろう。その様は暗闇の中でも容易に想像がつく。
揺れが近づくとともに、更にギシギシ、ギシギシと、硬い何かをこすり合わせるような不快な音が地鳴りに混ざり始めた。
一定の間隔を挟んで、そして波打つようにゆったりと音を揺らし、木々を叩き折り、地を削っていく。
同時に、しけっていて、どこかかび臭いにおいが辺りに満ちる。初めて開いた土地、深く掘り起こした畑のにおいとよく似たにおい。
暗闇と相まって、ミミズやモグラが暮らすような地の底に迷い込んでしまったような。
いや、大地そのものが歩きだし、土壌の生き物も何もかもが巻き込まれてしまったような、そんな荒唐無稽な世界に様変わりしてしまったような。
地鳴り――巨大な〝魔物〟の足音に比べて心音など微かなもの。
それでも、少しでも自分の気配を消そうとしてのことだろう、早鐘を打つ心臓は手で押さえつけられていた。杭でも打つかのように、胸には爪が立てられている。
顎を伝い、大地にこぼれる一筋の汗すら憎らしい。
体の震えと、それに伴う衣擦れの音などもってのほかだ。
――気付くな、気付くな、気付くな!
心の声まで聞こえてしまうのではないかとありえない不安が膨らみ、疑念が頭をかき乱す。今にも岩陰を飛び出して逃げ出してしまいたい衝動にすら駆られてしまう。
そんな、狂ったように騒ぎ立てる生存本能をなけなしの理性がなんとか押し込めていた。
誰も地面に転がる石ころなんて気にしない。
だが、虫が走っていたらどうだ。
ネズミが走っていればどうだ。
自分の餌になりえる生きた肉が走っていればどうだ。
今は、自然の一部になりきってやり過ごすのが一番なのだ。
瞑ることも、しかし開くこともできない瞼の奥で暗闇をじっと睨む。
今にもソレが沢に降りてくるのではないか。
岩陰を覗き込むのではないか。
そんな恐ろしい妄想を網膜に作り出しては否定してを繰り返す。
最早大地が震えているのか、自分が震えているのかすらわからなかった。
***
いつまでそうしていたか。
気が付けば土のにおいは風に流され、せせらぎが耳に届くほどに静まり返っている。
重圧はとうに霧散し、体を揺らすのは自らの鼓動だけだった。
岩陰からそっと顔をのぞかせる。
寝る前と変わらない、生き物の気配のまるでない、静かな世界が広がっていた。
疲れ切った顔で空を見上げる。
東の空が、白み始めていた。