5:闇路
深い夜闇に沈んでいたはずの野営地は、右へ左へと乱れるオレンジの光に煌々と照らし出されていた。
「畜生! なんでこいつらっ!」
弱い人間ができる、精一杯の威嚇。
見張り役だった者たちが焚火の火を松明に移して振り回していた。
「何だっ! 何が来やがった!」
怒号に気づき、寝静まっていた者たちもまるで巣をつつかれた虫のように起きだした。
そのほとんどがパニックを起こし、誰かにすがり、恐怖に震えるばかりの者たちだ。ある程度の落ち着きを保った者たちが抑えていなければ今にも叫びだし、そして駆け出してしまいそうに見える。
「猿顔だっ! 猿顔が出やがった!!」
誰かが叫ぶのと同時くらいだったか。
気づくと、ユリシスは思わず空いた手で口元を抑えていた。
いつの間にか、あたりに不愉快な獣臭さが沁み渡っていた。生臭さと、何かが腐ったような酸っぱいにおい。そして、乾いた血でも舐めているかのような鼻につんと来る鉄臭さ。
死を連想させる悍ましい異臭に眉を顰めずにはいられない。
そして、臭い以外にもその兆候は現れた。
飛び交う怒号と声にならない悲鳴の中をかき分けるようにして鳴り渡る、ザッザ、ザッザと大地を踏みしめる無数の足音。
荒々しい吐息はまるで誰かを嘲笑うかのように気味の悪いリズムを刻んでいる。
いやに甲高い、特徴的な唸り声がグルグル、グルグルと周囲から聞こえてくる。
木々の合間からのぞく不可視の気配が、先も見通せぬ暗闇の中に大きな影を作るようだった。
少しずつ音が、獣臭さが近寄ってくる。
それに合わせて武装した大人たちが子供を、女たちを庇うように前に出た。
ユリシスもまた、震える手で剣鉈を握る。
緊張に顔を強張らせ、裂けてしまうのではないかと思うほどに唇を引き結んで。
「こいつも持っとけ」
そういって、ユリシスは一本の木の棒を手渡された。なんてことのない、乾かされた太い木の枝だ。しかし、その先端は真っ赤に燃えている。
同じように、できるだけ多くの者たちに火のついた棒が配られていく。もともと松明にするため用意してあったものとは違う、振れば簡単に消えてしまうだろう、即席の火のこん棒。
しかし、火や煙を嫌う猿顔に対しては牽制くらいにはなるはずだった。
「なんだってこいつら、やってきやがった! 火を焚いてりゃ寄ってこねえはずだろ!」
「落ち着けっ! 寄ってきただけだ、まだ手を出してくるとは決まってない!」
「これだけ近づいて来てるんだぞっ!」
「わかってる!」
誰かが吠えるように悪態をつく。
威勢のいいように聞こえるそれもしかし、声の震えは隠せていない。焦りと恐怖が滲み出ていた。
自身を鼓舞するためというのもあったのだろう、しかし今この場においてそれは悪手でしかなかった。大声はパニックに陥った者たちをいたずらに刺激してしまう。恐怖は背後に庇った一団に敏感に伝播し、膨れ上がるばかりの緊迫感は今にも限界を迎えそうだ。
身を切るような寒さの中だというのに、背に一筋も二筋も汗が伝っていく。
ユリシスは、服の裾を強く引っ張られたのを感じた。眼だけをそこに向けると、小さく細い手がギュッと握りしめているようだった。
今日一日ですっかり見慣れてしまった手だった。
「……大丈夫、大丈夫だから」
そう小声でささやくと、背後で小さく頷く気配を感じた。
なんの慰めになるというのか。そう自嘲したくもなるが、どうしても言わずにはいられなかった。
せめて、この子だけでも。
足音が近づいてくるたび、火の輪が揺れる。
どこから来るか、それを知るために炎が揺れ、火花を散らす。
「……来やがった」
オロフが、ひと際低い声で呻く。
誰かがごくりと息をのむ。
緊張は限界にまで引き延ばされ、いっそ一帯は無音が支配していた。
誰が示すでもなく、一点を、その先を睨む。
大樹の合間から伸びてくる灰茶けた長い手足。
人のそれに近しい黒い五指がひたと白い地面に乗せられ、されど人とは似ても似つかない毛深い腕がしなやかに撓む。
炎に浮かび上がったのは醜悪な顔。
面長で、鈍く黒い肌は毛が生えず、たるんだ分厚い皮から金に光る二つの目玉がギラリと覗く。
浅く突き出した鼻頭とその下に並ぶギザギザの歯列。目の横付近から生える猿にしては長い立派な立ち耳。
唸り声をあげる口元から涎をだらだらと垂らし、血走った目がギラギラと獲物を、ユリシスたちをじっと睨みつけている。
猿顔が、シルワトローが――魔物がとうとう姿を現わした。
連中を刺激しないように、しかし侮られないように。オロフたちは松明を持った手を見せつけるように大きく、そしてゆっくりと動かす。
戦って追い払うなど、まず無理だ。
足音だけでとんでもない量の猿顔が集まってきていることがわかっていた。
一つの群れが六~七匹程度で構成されているとするなら、ざっと群れ五つほどの数は集まっているだろう。
猿顔は確かに、森に住む魔物の中では一番弱い。うまくいけば追い払うことも、仕留めることだってできる。
それでも、油断しなければのことであるし、何より一対一に持ち込めれるのであればのことだ。
群れに襲われれば逃げるかやり過ごすしかない。だが既に見つかっている上、逃げることもできない。
何せ足の遅い者たちがオロフたちの後ろにいるのだから。
だから、今のように渾身の威圧が伴った視線を連中にぶつけることしかできることはなかった。
そんな中ユリシスは、ただ姿を現した猿顔を見つめていた。
否、観察していた。
そして、一つの真実にたどり着く。
火を恐れて近づいてこないはずの彼らが現れた理由。
それはとても単純なことで、そして不本意ながら自身もとても慣れ親しんでしまっていたどうしようもない衝動。
――飢えているんだ。
炎を怖がる余裕もないくらい、こいつらは飢えていた。
なりふり構う余裕がない。あるいは恐れる火が目に入ることすらないのかもしれない。
ならば、彼らは。
***
「来たっ!」
身の毛もよだつような吠え声を上げて、とうとう猿顔の一匹が駆け出した。
そして最初の一匹を皮切りに、湧いて出てくるように木々の間から不気味な顔が飛び出てくる。
醜悪な顔。
顔。
顔。
狂気的で、喜色を浮かべたように見えるにたにた顔。眼だけは爛々とし、獰猛な輝きを放っていた。
迫ってくる恐怖を目の前に、張りつめていた緊張は一気に破裂した。
無数の唸り声、吠え声に負けないほどに大きな悲鳴が一斉に上がり、一塊になっていた者たちが、蜘蛛の子を散らすように逃げ出してしまった。
「馬鹿野郎っ!」
運悪く目をつけられたのだろう、逃げ出したうちの一人に凶爪が迫った。
それを、一人が松明をふるって追い払おうとする。だが飢えに急かされた狂獣はそんなものは物ともしない。抗いがたい衝動に突き動かされた体が止まることはもはやなかった。
幸か不幸か、注意だけは引けたようだ。
ギロリ、と真横に並んだ二つの目が動く。
金の双眸が捉える先が変わる。地に足が着くや否や、ぐるりと方向転換がなされ、そして大口を開けて、まるで炎に誘引されるがごとくに突き進んだ。
「くそがっ!」
避けることもかなわず、男は冷たい大地の上に押し倒された。
生臭い吐息が鼻にかかり、だらだらと涎が顔に垂れる。そして、長い爪が纏った蓑を引き裂いた。
「舐めるなぁっ!」
だが、悍ましく剥かれた牙が体に突き立てられるその前に、手にした鋭い刃が振るわれる。
勢い任せに振るわれた片手斧が突き刺さる。
ギャン、と悲鳴を上げ、耳の横から刃を生やしたまま先駆けの一匹は転がっていった。
「参ったか化け物っ――」
だが、威勢のよさが幅を利かせるのはそこまでだった。後に続いた連中が一匹、また一匹と覆いかぶさっていく。
「――――っ!」
倒れこんだ男のもとに、断末魔すら埋もれるほどに狂気が群がっていく。
「バートォ! 畜生めっ!」
傍にいた者が必死に群がる猿顔を引きはがそうとするが、雪崩込む量のほうが圧倒的に多い。
「おおおおぉぉおぉおおおぉ!」
そして、怒声とも悲鳴ともとれる断末魔をあげながら肉を、骨を削られ、また一人凶器の群れに飲まれていった。
「立ち向かうなっ! とにかく女子供を逃がせっ!」
「だがっ!」
「諦めろっ!!」
まるで大きな毛玉のよう。いっそ滑稽にも見える悍ましい毛皮の塊に目をやることもなく、オロフが指示を出す。
見捨てるという、非常な宣告を。
集団は既に統率とよべるものは機能していない。
かろうじて、我先にと逃げ出した者たちを庇うように武装した者たちが動き、その後を追いかけている。
はぐれてしまえば、それこそ連中にとって格好の餌になる。それだけは防がないといけない。
そうわかってはいるものの、だ。
あちこちから、先ほどまでと毛色の違う叫び声が上がり始める。
それを聞き、誰もが唇をかむ。
戦える者と、そうでない者。その数があまりにも違う。
暗闇の中、把握できるほど近くにいる者はそう多くない。
「くそっ! なんとしてでも連中を近づけさせるなっ!」
何人、生き残れるか。
嫌な考えを振り払うように、オロフは檄を飛ばした。
***
火や煙、もしくは金気を嫌っているのか、それともより楽に狩れる相手というものを理解しているのか。猿顔たちはユリシスらの間をすり抜けて、無防備な背を晒している弱者を優先して狙う。
ギャッギャと不気味な鳴き声を耳にし、ユリシスは自身の右やや後方を走っていた一匹に目を向けた。ちょうど、ユリシスの前を必死に走る少女――イェシカに向けて飛びかかろうとしていた。
「させるかっ!」
今にもその爪の餌食になろうかというころでしかし、ユリシスが猿顔の横っ腹に分厚い金属塊を叩き付けることで防がれる。
短い悲鳴を上げて転がっていく姿を一瞬だけ視界の隅に収め、すぐさま牽制の意味を込めて別の猿顔たちへと視線を這わせる。
何度目かももうわからないほどの攻防だった。
額を垂れる幾筋もの汗を拭う暇もない。
剣鉈はもはや刃物としてろく機能しないほどに刃が摩耗し、分厚い毛皮に覆われた猿顔に痛手を与えることはかなわない。走りながらではいまいち威力が乗らないというのもあるだろう。
そのおかげか、何度追い払おうとなかなか数が減らなかった。先ほど吹き飛ばした一匹もじきに追跡者の群れに復帰するだろう。
視界の悪い暗闇の中、足場の悪い森の中というのも災いした。
もはや火は消えかけ。狭い空から薄っすらと差す月明かりくらいが道しるべという有様だ。
そんな中積もった雪、盛り上がる木の根や飛び出た石ころに足を取られそうになりながらの懸命な逃走。
いくら足の早いとは言えない相手といえど振り切ることもできていなかった。
このままでは、いずれ先にスタミナが切れるだろうこちらが不利だ。
そのことに歯噛みしながらも、目の前の脅威を振り払うことに専心するしかない。
現状なんとか対処できているのは、追ってきている連中の数自体が最初の比でないほどに少ないからだ。
仕留めたわけではない。
ただ、ばらけているだけ。
あの後、ばらばらに逃げた人たちをユリシスたちもこれまたばらばらに追いかけることになった。
そして、猿顔たちも散り散りになったユリシスたちに合わせるように、取り分を均等に分けるかのように数を減らしたのだ。
だが、最も大きな要因は別にある。
連中が自らの意思で足を止めているのだ。
木々の騒めきの向こうから聞こえていた喧噪はいつしかその数を減らしていた。
その意味がわからないわけではない。
単に距離が離れただけ、そう楽天的に考えられればどれだけよかったか。
だが、それを理解していたからこそ。
恐ろしくて、悔しくて、そして恨めしくて。
胸に沸き上がった感情すべてを目の前の異形どもにぶつけることができていたからこそ、恐怖に足がすくむことなくいられた。
飛びかかる猿顔の鼻っ柱を殴りつける。
回り込もうとしていた一匹に向かって煙のくすぶるこん棒を投げつけてやった。
牽制にと、連中の血肉と脂で汚れた鉈を目の前で振ってやる。
今にも崩れ落ちてしまいそうなほどの疲れも、避けるのが間に合わず切り裂かれた肌の痛みも、自分を獲物、もしくは食事を邪魔する障害物程度にしか見ていない猿顔どもの目も気にせずにいられる。
自棄になったというのも少し違う。
ただ、己の中の大事な何かは、間違いなく麻痺しているだろう。
「死んじまえぇっ!!」
飽きもせず飛びかかってきた一匹の顔面を鉈で思いっきり切りつける。何かが砕けるような感触が手を伝うのも構わず、体勢を崩さない程度に思い切り振りぬく。
だが、それは失敗だった。
――しまった!
走るのには不自由ないくらいにセーブした。
しかし、次の一手をすぐさま打てる体勢ではない。それは致命的な隙を晒すということに違いなかった。
熱くなっていた思考が急速に冷やされていく。サッと血の気が引き、硬直した体とは裏腹に視線だけは自由に動く。
映り込むのは、先に飛び出た奴の背後に隠れるようにしていた別の一匹の姿。
千切れんばかりに深められたにたにた顔が、その生臭い息が肌を湿らすほどすぐそばにあった。
「ユリシスッ!」
誰かが己を助けようと手を伸ばす。フリーズしつつある思考がそれが誰のものであるかと弾き出す。
しかし意味はない。
そして、既に遅い。
猿顔は既に無防備となったユリシスの肩に手をかけ、そして。
「なっ――」
そのまま彼を踏み台にして飛びあがった。
魔物一匹に踏みつけられる。その重みと食い込む爪に痛みを感じるより、驚愕ばかりが先行した。
そして一匹、二匹と、隙を晒した彼の脇をすり抜けていく。
厄介な邪魔者を仕留める絶好の機会を捨ててまで前進した奴らの行動、そしてなぜかはわからないが窮地を脱することに成功したことにユリシスは一瞬惚けてしまう。しかしすぐさま、その目的、目標を理解した。理解してしまった。
奴らは、徹底して弱者を狙っていた。
――嫌だ、やめてくれ。
痺れた舌が、声にならない言葉を紡いだ。
背後で甲高い悲鳴があがる。
――特別仲の良い相手というわけではなかった。
だがそれも、一瞬のうちに霞に消える。
――何せ、仕事にかまけて友達なんてものを持たなかったくらいなのだから。
崩れかけた体を無理やり動かし、全身の腱が切れるかと思われるほどの勢いで体を捩る。
――だからこそ、最悪な世界の中であっても、彼女と過ごした今日一日はかけがえのないものとなってしまった。
そして、
月明かりの下、獣に集られ地に倒れ行く少女の姿を、恐怖に見開かれたその目を見てしまった。
「イェシカァッ!」
伸ばした手が届くはずもなく、小さな体は灰茶の毛に埋もれていく。
イェシカが軽すぎたためか、三匹の獣に取りつかれた少女の体は勢いよく地を転がっていった。
そして転がった先、樹幹にぶつかることでそれらはようやく動きを止めた。
それで猿顔たちが振りほどけていたらどれだけよかったか。しかし深く絡まった毛玉のように、ぶつかった衝撃にもまるでほどける様子がない。
「クソッ! 離れろォ!」
もつれる手足を必死に手繰り、ギッ、ガッ、とくぐもった悲鳴を上げる〝それ〟に駆け寄る。
耳に届く、誰かが叫ぶ声は脳の奥底に押しのけて、ユリシスは進むのをやめない。
木の根に躓き何度も転びながら、ようやく彼女のもとへ辿り着く。粘つく何かに手を滑らせながら、地を這っていた上体を持ち上げる。
「離れろって言ってんだろっ!」
まとわりついた一匹、一番手近な一匹に、剣鉈の、その未だ鋭さを失われていない一部分――鋭い切っ先を首に思い切り突き立てた。
齧るのに夢中だった猿顔は何の抵抗もすることができずに致命の一撃を受け入れることになった。
ぐちゅり、と嫌な感触がユリシスの手を伝う。毛皮を貫き、肉を潰したようだ。血が滲むほどに強く両手で柄を握り、深く深く刃を沈めていく。
猿顔はわめく代わりに口の端から血のあぶくを吐き出し、ピンと硬直した筋肉はわずかに痙攣するばかりで反撃の色を見せない。
そんな中刃はミチミチと肉を掻き分けて、やがて固い骨へと到達した。
何かが切れたような音の後、どぷりと噴き出す血飛沫が手を、顔を汚す。
そんなことに構っている暇などない。
早く、早く早く早く早くっ!
興奮のあまりに、あれだけ恐れていた魔物をあっさりと仕留めたことなど意識の外だった。
焦れる心に急かされるまま、首元に刺さった鉈を力任せに引き抜く。
ぶちぶちと繊維を引きちぎり、刃が血肉の底から引き上げられる。途端、栓を外されたように一層血が噴き上がった。
喉を破壊され、呻き声すらあげずに動かなくなったそれをイェシカの体から強引に引きはがす。子供一人分はあるだろう重さの血袋を、腕力の限界など無視して片手で放り投げた。
同時に、握った刃は間髪入れずに別の一匹へと突き立てた。
ザクリ、と切り裂くような手応えと、ぞっとするような叫び声。
今度はうまく刺さらない。
いくら鋭い切っ先といえど、先と違って片手では毛皮を貫くことすらできないようだ。
そのことにイラつきながら、隠すこともなく舌打ちをする。
血で滑る柄を右手で目いっぱい握り、捻じ込むように刃を捻れば切っ先を飲み込んだ筋肉がびくりと跳ねた。
そこでようやく、硬直していた猿顔に動きがみられた。反撃など想定外だったかのように、驚愕に目をむいて振り向いたのだ。
物凄い力で其れが動いたため、浅く刺さっていただけの鉈が簡単に抜ける。
驚愕はすぐに怒りに代わり、赤黒い何かがこびりついた歯茎を剥き出しにして唸り――
それを、手の空いたばかりの左腕で思い切り殴りつけた。
固い。
殴った手が砕けたかと思うほどに固い。
だが、鼻っ柱を殴られた猿顔は思わず怯み、その隙だらけの顔面に再び鉈の切っ先を向けた。
今度は両手で力を、体重を込めて。
そのまま地面に押し倒し、逆手に握りなおした刃を押し込んでいく。
皮膚を突き破り、切っ先が固い何かにぶち当たる。グッと体重をさらに乗せると、軋みをあげて何かが――頭蓋が割れた。
脳漿が噴き出し、びくびくと痙攣するばかりになった猿顔は力を失い地に伏せた。
あと一匹。
たった三十秒かそこらの凶行。
されど三十秒も時間をかけてしまった。
倒れた猿顔を邪魔だと蹴飛ばし、最後の一匹へと手を伸ばす。伸ばそうとする。
「ッ!」
しかしそれより早く、最後の一匹の顔が、その鋭いギザギザ歯を剥き出しに迫っていた。
仲間が死のうがお構いなく肉を食んでいたそいつはようやく己の身の危険を理解したのだろう。ごちそうを安全に貪るため、邪魔者を先に排除することを選んだのだ。
グシャリ、とそれは新たな肉を食む。
腕を覆った蓑、皮をなめして作った腕あて、そして布の衣服。それらすべてを突き破り、ユリシスの腕に深く牙が食い込む。
生まれて初めての噛まれることの、筋肉を乱暴に切り裂かれる痛み。食いついただけで終わるはずなどない。猿顔の顎は今まさにユリシスの腕を食いちぎらんと、万力のごとく力が籠められている。
たまらず、雄たけびに近い悲鳴を上げた。
運の悪いことにそいつは鉈を持った右腕に噛みついていた。
唾を飛ばしながら吠え、ユリシスは無事な腕で下手人を殴りつける。しかし、まるで応えていないのか相手は怯む気配もない。
痛い。
身を食われるというのはこんなに痛いのか。
激痛に目の奥で火花が散る。燃えるように熱を持った右腕からは目をそらしたくなるほどの血が流れていた。
ゴリ、と獣の牙がより深く食い込んでいく。
その度に気が狂いそうなほどの痛みが走り、鼓動はこれ以上ないほどに早鐘を打つ。体に小さな穴が開いているというのに、足りない分を補おうと狭い管を押しのけるくらいに勢いよく血液が流れていくのだ。あまりの脈拍に頭がぐわんぐわんと揺れるようだった。
チカチカと痛む頭でしかし、ユリシスはかえって安心してもいた。
二匹はすでに始末した。どういうわけかほかの猿顔どもは近くにいない。最後の一匹が自分にご執心な以上、イェシカは無事なのだ。
今のうちに逃げてくれればいい。
今のうちに誰かが助けてくれればいい。
そうだ。自分以外にも、この場にはオロフがいるのだから。
オロフがイェシカをつれて逃げてくれれば、それでいい。
だが、現実はどうにも思い通りに進まないらしい。
ユリシスの目に飛び込んできたのは、腕に噛みついていた猿顔の頭を鷲掴む大きな手だった。
しかし血管が浮き出るほどに力が籠められた手でも猿顔は食いついた腕から離れようとしない。
むしろ、離れるものかと一層に牙が食い込む。
走る痛みに思わず呻いた。
乱入者のほうはというと、そもそも引きはがすのが目的ではなかったようだ。
むんずと頭を掴んだ腕は引っ張るのではなくどちらかというと押さえつけているようにすら見えた。
しっかりと固定された猿顔の頭。いくら腕が、足が暴れようとそこだけは変わらない。
だからこそ、それは致命的な隙になる。
ヒュン、と間近で風を切るような音がした。
直後、無防備に曝け出されていた猿顔の首に、血まみれの斧が突き刺さった。
***
口を離し、一通り暴れまわった後にそれは動かなくなった。
火という明かりが途絶えた暗闇の中、二人分の荒い息だけが静かに満たす。
それが整う前に、一人が猿顔の死骸にゆっくりと歩み寄る。そして、首元から生える突起物を抜き放った。
ピューっと、気の抜けるような音とともに鉄臭い液体が噴き出した。
「オロフ……」
目の前に立つ男の名を呟く。
よく見れば全身いたるところに傷が目立つ。
あの三匹以外は彼が対処したのだろう。死骸が転がっていないのを見るに、逃げたのか。
斧を腰のベルトに提げ直したオロフは、そのまま座り込んだ自身へと手を伸ばす。
「早くここから――」
そして、彼が何事かを言いかけたところで、今までぼうっと事の成り行きを見守っていたユリシスははっと我に返った。
「そうだ! イェシカは……!」
オロフは彼女より自身を助けることを優先したのだ、ならばイェシカは無事に違いない。
それにしては息遣いも、声も聞こえないことが気になるが。
きっと、怖くて声も出せないのだろう。さんざん齧られたのだ、痛みに気絶しているのかもしれない。
なら、無理に起こすこともない。背負ってでも逃げればいいのだ。
だから、だからとユリシスは目の前に転がるそれへとそっと触れる。土と血に汚れた手をそっと握る。
それは、とても冷たかった。
傍らに立つオロフは、痛ましいものを見るよう、目を伏せた。低く、平坦な声でユリシスの名を呼ぶが、今ばかりは彼の耳には届かない。
「イェシカ?」
力っ気がまるで感じられない。
だらりと投げ出された手足はピクリとも動かない。
ゆっくりと視線を移動させる。
腕から胴へ。胴から、顔へ。
ぞわりぞわりと肌に泡が立っていくのを感じる。
それ以上は見るなと脳が警鐘を鳴らしていた。しかし受け入れられないと硬直していく体と裏腹に目だけは勝手に動く。
いっそのこと、暗闇がすべて隠してくれていたらよかったのに。
彼女が身にまとっていたものはいたるところが真っ赤に染まっていた。
惨いという言葉すらも力不足。
一際血の色の濃い腹部からは本来隠されているべきものが零れ落ち、生命の残り香のように温かなものが立ち上る。
細い首には穴が開き、ゆっくりと血が流れ続け。
「あ、ああぁあ……ああっ!!」
認めたくなかった現実も、見てしまえばどうしようもない。
命の音も、温かさも。もはや消え去った後の虚ろな目が、ユリシスを見つめていた。
***
「――行くぞ」
強い力で肩を掴まれる。
もの言わぬ彼女にすがるように蹲っていたユリシスは、そのまま強引に立ち上がらされた。そして、半ば引きずられながら彼女のもとから離される。
力の入らない体では為されるがままだ。
嘆く時間も与えてくれないのか。
「待ってよ! イェシカが!」
「もう死んだ」
せめてもの抵抗にと声を上げるが、無味な声がばっさりと切り捨てる。
あまりに取り付く島もない、有無を言わせぬ態度だ。
「でもっ! 俺のせいだ! 俺がもっと冷静でいたら!」
支離も滅裂に叫び、がむしゃらに暴れ、たった一つの戒めから逃れようとする。それでも、力強い手は振りほどけない。
「……わかれ。わかってくれ。俺たちは音を立てすぎた。すぐに別のが寄ってくるぞ」
耳を澄ませなくてもわかる。一度眠りについたはずの森がざわついている。
濃い獣の気配。
大量の足音。
ずっと遠くからだが、確実にこちらに近づいてきている。
己が飢えを満たさんと、純粋すぎる悪意が列を、群れを成して近づいてきていた。
音だけではない。あまりにも『血の匂い』をまき散らしすぎたのだ。
「悼むのは、生きてからだ」
留まっていれば確実に死ぬ。到底追い払える量ではない。オロフの判断は決して間違っていない。
「……いいよ、放っておいてくれ」
だが、今はもうそんなことはどうでもよくなっていた。
為されるがままだった体に力が戻る。歩くためではない。歩みを止めるためだ。
「ユリシス」
「いいんです、もう」
「……死にたいのか」
怒気すらも孕んだような、低いうなり声がユリシスの身を貫く。
それに、答えることも、頷くこともない。
それでも意図は伝わるだろう。
「今逃げのびたところで、同じです。これから先、何度同じことが起こるか」
「今日が特別ついていなかっただけかもしれん」
「今日は、運がよかったじゃないですか。むしろ、順調すぎた」
グッと、肩に置かれた手に力が入る。
そもそも、こうなることは初めからわかっていたのだ。
森に足を踏み入れた時から、いや、村を一歩出たその時からこうなることはわかっていたのだ。自分たちは死ぬために村を出たのだから。
たまたま日中に魔物と遭遇しなかったからって、希望を持ってしまったことがいけなかった。
「……そうだな。いささか楽観視していたのかもしれない。だがそれは、俺の責任だ。夜だからと休むべきではなかったのかもしれない。危険を押してでも先に進むべきだったのかもしれない。そうでなくとも、もっと安全な場所で野営するべきだった」
そこで初めて、ユリシスは振り返った。肩越しにのぞく彼の横顔はひどく空虚だ。
肩に乗せられた手だけがその情動を推し量るしるべとなる。
死への恐怖からの震えも、当然あるだろう。
だが、これはもっと別の。
彼も、後悔しているのか。
自分なんかより、ずっと後悔しているのか。
「だから、お前が気に病むことはない」
オロフは今回のまとめ役だった。三十人分の命を預かっていた。
責任感が強く、優しい男だ。それが、今日一日でいったい何人分の死を背負ってしまったのか。その無表情の下で、どれだけ自分自身を責めているのだろうか。
そう考えると、自分は何とも薄情なのか。
どうしようもなく情けなくて、笑いすら出てきそうだった。
なにせ、自分は〝たった一人分〟しか悔やんでいないのだ。彼女よりも幼い子供だっていた。彼女よりも交友があったものもいた。
それでも、彼らが死んでしまったことは仕方がないと割り切れている。避けられないことだったと納得している。
全員、共に過ごしてきた仲間だというのに、彼らの命に優劣をつけているのだ。
ただ、そんな自分でも。
〝お兄さん〟として、彼女くらいは生かしてあげたかった。
――ああ、そうか。
なぜこんなに彼女に執着していたのか、ようやくわかった。
自分は彼女に甘えていたのか。
寂しさを癒してくれる、家族が欲しかったのか。
自分勝手な理由に、ますます惨めになる。
情けなさに打ちひしがれる心なんてお構いなしに、冷え切った頬を、温かいものが流れていく。
父を亡くして以来の涙だった。
角ばった顔がこちらを向く。
まったくの無表情。毅然とした態度の裏に何を湛えているのか、今ならよくわかる気がした。
「おそらく、お前が最後の一人なんだ」
「先に行った人たちだっているでしょう。そっちを追いかければいい」
「……もう遅い。猿顔どもは俺やお前よりも、彼らを追った」
死骸がなかったのは、どうやらそういうことらしかった。
「……これから先、生き残れなさそうだと判断した。俺は彼らを見捨てたんだ。俺はお前を選んだんだ」
「酷いやつだろう?」
そこでようやく、彼は無表情を崩す。空虚な笑いが痛々しい。
「だから……頼む――お前だけでも、生きてくれ」
「えっ?」
何を言われたのかを理解できず、ユリシスの思考に一瞬の空白が生まれる。
そうじゃないだろう。
一緒に逃げるんだろう。
まるで、自分はここで死んでしまうかのような言い草ではないか。
「連中、思った以上に早かったようだ。いや、余計なものまで呼んでしまったのかもしれない」
困惑を察したのだろう、まるで小さい子に言い聞かせるように穏やかに語る。
いつの間にかあれだけ煩かった森の騒めきは先と比べ物にならないほどに静かになっていた。
しかし、草木がかき分けられる音、地を踏み荒らされる足音、背筋を凍らるようなおぞましい遠吠えは変わらず聞こえてくる。
雰囲気だけが、まるで違う。
張り詰めた緊迫感が辺りを満たしていた。
猿顔か、それに近い〝弱者〟とは似ても似つかない気配。
捕食者であった魔物たちすらもが何かを警戒している。
何か、もっと恐ろしいものが、圧倒的な〝強者〟がもう目の前にまで迫ってきている。
そんな威圧感のようなものが全身を撫で付けている。
それを認知してしまうと、否応なく生存本能が刺激される。何もかも諦めてしまったはずなのに、この身は卑しくも死にたくないと叫んでいる。
「行け」
掴まれていた肩が唐突に離される。
突き放すように、月光も届かない深い茂みのほうへと。
「一人で逃げるなんてっ!」
絞りだした声は情けなくも震えていた。
「目をつけられてしまった以上、あれからは到底逃げ切れん。せめて気を逸らすくらいはしないとな」
「なら、それこそ俺がっ!」
本能はすぐにでも逃げ出せと騒ぎ立てる。
それでも、自分一人が生き残るなんて到底受け入れられない。むしろ、自分が代わりになるべきだ。
「知りたいことが、山ほどあるんだろ」
「えっ」
なぜ今、そんなことを。
何を考えてそんなことを言ったのか。
もう彼は背中を向けてしまったため、彼の表情は伺うこともできない。
「お前は賢い子だ。誰も手を付けようとしなかった蔵書を読みふけってたの、有名だからな。俺だって知っている」
「そんなものっ! どうでもいい! あれはただっ!!」
聞く耳を持たないのか、制止すらせずに彼は動き出した口を止めない。
「それに、我慢強い子だ。遊ぶこともなく、泣くこともなく……お前を見捨てた村を恨むこともなく。ただ村のためにずっと生きてきた。俺ら大人は、そんなお前に何もしてやることができなかった」
「今まで、十分よくしてもらえたっ」
村長や、近所の人たち。仕事を教えてくれた大人たち。自分たちも貧しいというのに、取り分が減るというのに、彼らは身寄りのない自分にとても優しくしてくれた。
「ずっと、寂しい思いをさせてきた」
「っ! それはっ……」
それでも、寂しさだけはずっと抱えていたようだ。それは今日、十分に思い知らされた。
「忘れるな。お前が負い目を感じる必要は一つもない。お前はただ、自分の好きなように生きればいい。強いて言うなら、生きてくれることこそが俺の、俺たちの望みさ」
***
遥か後方。
真っ暗闇の向こうから恐ろしい咆哮が響き渡る。
雷鳴のように荒々しい。
暴れまわっているのか、木々が倒れる音が地鳴りとして届く。
それらは、いつまでも鳴りやまない。
遠い昔。
初めて野営することになった時だったか。
猿顔たちとはまた違う、森にはとても恐ろしい魔物が住んでいるのだと教わった。
『森の王』
それはちょうど、こんな風に吠えるのだったか。
一度だけ振り返る。
あの暗闇の向こうに、ずいぶん多くのものを落としてきた。
それはきっと、生きていくために必要なものだったはずなのに。
胸の奥にぽっかりと穴が開いてしまったようだった。
風穴の中を風が吹き抜ける。ひゅるりひゅるりと、風は熱と気力とを奪っていくようだ。
虚脱感がふらついた足にしがみつき、今にも地に引きずり倒されそうだった。
それでも。
「生きなきゃ……」
生きなければいけない。
それだけが、まるで強迫観念のように頭にこびりついている。
だが、自分はいったい何を糧に生きていけばいいのだろうか。
「生きてから……生き残ってから、考えよう」
あてどもない、長い長い旅が幕を開けた。