4:最初の夜
「まだ起きてたのか」
殆どの者が天幕に引っ込んで眠りにつき始めていた中、焚火の前に数人が残っていた。
男たちが戻ってくるまで火の番をしていたのだろうが、その中には驚くことにイェシカも混じっていた。
「うん。これ、分けてあげようと思って」
イェシカが差し出した小瓶を受け取り、蓋を開けてみる。
「これ、ジャムか?」
餞別か、それともせめてもの慰めのつもりだったのか、それはしばらく目にしていなかった木の実のジャムのようだった。
そんなことのために、わざわざ?
ユリシスはそこでようやく、彼女が小さい子たちのお姉さん役に据えられている理由を垣間見た気がした。
「ちっちゃい子たちの荷物にだけ入ってたんだ。私のにも入ってたのは、ちょっと納得がいかないけど」
そう苦笑いを浮かべながら、彼女はわざわざ残しておいたのか、一切れのパンを取り出した。
それに倣ってユリシスも背負いっぱなしの背嚢の中から食料の入った小袋を取り出す。
小袋の中をまさぐっても、例の瓶は入っていない。
「やっぱり。お兄さんだもんね、ユリシスは」
そう言って、彼女は面白そうに笑った。
つられて、頬が動いた。そんな気がした。
「おいしいね」
噛み応えのあるパンを夢中に咀嚼しながら、ユリシスは無言で頷いた。
半日ぶり、それもいつもよりジャムの分だけ豪華な食事は疲れた体にはよくしみた。成長期の体は「足りない、もっとよこせ」と訴えかけてくるが、生憎節約しないといけないのだ。薄くスライスした干し肉を一枚口に含んでごまかすことにした。
「私の分、あげようか?」
「馬鹿言うな、ちゃんととっとけ」
こういうやり取りも、悪くない。
***
見張り役以外の大人たちはさっさと食事を済ませて寝床に引っ込んでしまっている。
残っているのは最初の見張り役になったユリシスとオロフ、そしてイェシカとベンノだった。ベンノはずっと、一人火の番をしていた。
「……明日も、何もないといいね」
「そうだね」
今日みたいな日が続けば、全員とはいかないかもしれないが、多くの人が生き残れるだろう。小さな子供程度であれば、最悪おぶって歩くことだってできる。だが、魔物に追われるようなことがあればそうもいかなくなってしまう。
「……もう寝なよ。明日も早いぞ」
「うん……」
イェシカの口数が少なくなったことに気づいて横を見ると、いつの間にかうつらうつらと船をこぎ始めていたようだった。
寝るように促してみても、もう聞こえているかも怪しいくらいだった。
「つれてってやれ。そのままだと体を冷やす」
「……わかりました」
その姿に微笑ましさを覚えていたところ、思わぬ横槍が入った。
見れば、今まで見たこともないような、それこそ〝変な顔〟としか形容できない表情をしたオロフの姿が目に入る。
なんとなく、そんな目で見られているのがこそばゆく、ユリシスはすっかり夢の世界に足を踏み入れてしまった彼女を起こさないように静かに抱え、そそくさとその場を後にした。
見られていた気恥ずかしさを隠すのには丁度よかった。
***
「随分もめとったようだな」
ちらと、ユリシスの後ろ姿へと目をやってから、ベンノが口を開いた。
何やら感慨深そうだった顔が、一瞬にしてすっと色が落ちる。
「……ここから先は、年寄りの方々や女子供には厳しいでしょうから」
暗に足手まといだと言われたベンノは「ワシのことかな」と飄々と笑った。一方でオロフは、つられて笑みを零すようなことはない。
いや、と彼は首を振る。
「俺たちだってきつい。雪の中歩き回るってのはどうも思ってた以上に体力を持ってかれる。それで山越えなんて……」
万全な状態であればまた違ったかもしれない。しかし、かつては屈強といっていいほどに逞しかった手足も、今はひどく頼りない。
「実際、ここまでたどり着けるとは思ってませんでしたよ。全員では。警戒はしてましたが、それでも襲ってくださいと言わんばかりのありさまだった。それくらい隙だらけだった。人数が多すぎるんだ」
オロフは片手で顔を覆いながら心中を吐露する。自分だって死にたくない。生き残りたい。だから、足手まといでしかない大勢を引き連れて進むのは、重すぎる責任を背負って歩くのは、とてもじゃないが割に合わない。
「せめて冬じゃなかったら、旅糧に余裕があったら、俺らだけだったら――魔物がいなかったら。そんなことばかりを考えてしまう」
「お前は、よくやってるよ」
手に持っていた小枝を、ベンノはひょいと火の中に放り投げた。
パチリと火の粉が上がった。
「……爺さま方は、どこまで行ったことがあるんですか」
自身の倍は生きているのだ、何か役に立つことを知っているのではないかと思わず期待してしまう。
「たいして変わらんさ。せいぜいが一番手前の峠まで。そこから先は、獣の臭いが濃くてかなわん」
「まあ、そうですよね」
だが、そうはうまくはいかないものだ。
村の外で生き抜くための知恵は、それこそ初めて森を歩く前に耳にたこができるほどに言い聞かせられるのが習わしだ。
「昔は、もう少し先まで行けてたらしいがな」
だからこそ、初めて聞いた、教えられたことのない過去のことを気になる者がいるのだろうが。
「――それは、魔物がいなかったから、ですか」
***
「……あの話、結局どういうことなんですか」
「さて、どの話だったか」
背後からの声に、振り向くことなくベンノは応えた。
「……寝かしつけたか」
「最初から寝てたじゃないですか」
「ちゃんと寒くないようにしてやったか? 年下の女の子なんだ、雑に扱ってはいかんぞ」
「言われなくても」
むすっとした顔で、ユリシスはまた焚火の前に腰を下ろした。
「それより、どういうことなんですか、本当に魔物は昔はいなかったんですか」
わかってはいただろうに、「その話か」とベンノはつまらなそうな顔をする。
対して、オロフのほうは興味がないわけではないらしい。静かに耳を傾けている。
何せ、現状直面している脅威の一つなのだから。
「どうもこうも、ワシも知らんと言っただろう」
「別のことに対してでしょう。それも嘘だった」
「よく覚えてるじゃないか」
まったく褒めていない口振りで、揶揄うように笑った。
「実際、ワシが知ってることなんてほとんどない。何せ教えてくれたワシの祖父すら生まれる前の話だ。ワシだって初めて聞いた時は信じなかったくらいには、魔物の存在はもう当たり前のことだったしな」
「じゃあ、アンタは祖父からはなんて聞いたんですか。連中は突然現れたのか、それとも代を重ねてあんな化け物になったのか」
オロフの静かな視線がベンノへと向けられる。
それに対して。
「どちらでもない」
「そりゃ、」
どういうことだ、と続ける前に、ベンノが言葉を紡ぐ。
「正しくは、突然他所からやってきた、だ。そして今の姿になった。ここら高地の環境に適応したんだろう。寒さに強いものが残ったか、寒さに適応するため、姿を変えてきた」
しょぼくれた目を、より細める。
「昔――祖父の頃はもっと、普通の獣も多かったらしいぞ。化け物みたいな連中は滅多に見かけず、出くわすほとんどが鹿や狐。注意するのはもっぱら熊や狼だったと」
どれも、今では珍しい動物たちだ。熊なんて、ユリシスは実物を見たことはなかった。
生きてる実物は。
「ベンノさんが若かったころはどうだったんですか」
「ワシの頃はもう今と変わらんよ。ワシも狼よりもよく猿顔に追いかけられたものだった」
あいつか、とユリシスとオロフは思わず嫌な顔をする。
村の人たちが猿顔とよぶ魔物は、正しくはシルワトローという。
一見すると狼のような四つ足の魔物だ。しかし彼らをよく観察すると、猿のような特徴も見えてくる。狼よりも平べったい顔は面長な猿のように見えるし、物を掴むのに適した細長い五指が特徴的だ。
指、そして曲線を描く鋭い爪で器用に木を登ることができるため、彼らの前では木の上も逃げ場にはならない。
それが樹上の獲物を狩るために進化したものなのか、それともより上位の捕食者から逃げるために得た術なのかはわからない。
習性も群れて行動し、獲物を執拗に追いかける。ここらでは最も弱く、しかし数が多いため遭遇率の高い肉食の魔物だ。
幸い狼ほど足は速くなく、早いうちに気付ければ逃げることも不可能ではない。炎を怖がることからこうして火を囲んでいれば安全でもある。
「その猿顔共よりも、昔はもっと小さな魔物も多かったものだがな」
「徐々に、今のバランスになったってわけですか」
そういうことだろう、とベンノは鷹揚と頷いた。
「なら、あいつらはどこからやってきたんですか?」
「そこまでは知らん」
相変わらずあっさりと切り捨てるものだ。
こうも素気無くされると後に続く言葉も失ってしまう。
だからこそ、その後の言葉にも反応しきれない。
「それ以上は、自分で調べるといい」
「え?」
「爺さん、それは――」
何かを言いかけたオロフを制し、老爺は続ける。
「メイル村は、それはもう小さな村だ。隣のパント村だってきっとそうだろう。そんな寒村に残っている情報なんてたかが知れている」
だが、と彼は居住まいを正す。
「もっと大きな街へ行けば話は違ってくる。人の集まる都市に行けば多くの情報が入ってくるだろう。歴史の長い街に行けば、古い資料が残っているかもしれん。もしくは、メイル村が世間知らずなだけで、案外世間一般では常識的な知識なのだとしてもおかしくはない」
そう一息で言い切って、ベンノはゆっくりとユリシスへと視線を向けた。深い思慮を湛えた瞳が、閉口したままの彼をじっと見つめる。
「だから、知りたかったら思う存分調べることだ。ユリシス。お前はまだ若い。世界を知るのに充分以上に時間が残っている。気が済むまでに、好きなだけ、好きなように生きてみろ。自分勝手に生きるのも、悪いことじゃないだろうさ」
***
ユリシスは狭い寝床の中で、なかなか寝付けないでいた。
体はもう疲れ切っているというのに。
明日からも歩き通しなのだから、朝までに疲れを取らなければいけないというのに。
休息を訴える体とは裏腹に、頭は妙に冴えている。
次の見張りの交代まで、それほど長くはないだろう。今はもう三組目へと交代していた。
眠れないのは固い地面の上だからということだけではない。背負ったままの革袋が邪魔なわけでも、蓑や薄っぺらい毛布に包まっても防ぎきれない寒さが原因でもない。
ベンノの最後に言った言葉が頭の中にずっと残っているのだ。
『知りたいことがあるのなら自分で調べろ』
実のところ、自分がどうして魔物の話にこだわっているのかよくわかっていない。そんなことを知ってどうなるのか、どうせこれから死ぬのだから無駄だ、と頭の中の冷静な部分が口々に言う。
魔物の存在は口減らしの原因の一つだ。あいつらがいなければもっと野山に出て採集や狩りで腹を満たすことができた。
だから、八つ当たり先にしたかったのだろうか。
一方で、頭の中の冷静じゃない部分。
何と言ったらいいのだろうか。ぼんやりとしていて、そして騒がしい。先ほどから絶えずざわざわとしていて、疲れている体まで動かそうとする。
農作業もできない雨の日に、村の蔵書を漁った時と似ている。
時折訪れて、村に一晩泊まっていく来訪者たちに話を聞いている時に似ている。
――そうか。案外、ただの好奇心なのかもしれない。
今までは生きるため、役立てるためと知識を蓄えていたつもりだった。だが、それだけではなかったらしい。
何にせよ、全部生き残れたらの話だ。
もしかしたらベンノも、生きるための理由を与えようとしていたのかもしれない。
そこまで考えて、狭いねぐらの中で寝返りをうった。
眠れずに、何度も繰り返してきたこと。ただ、今度は眠れそうな気がした。
――まずは、眠らないといけないな。
***
「起きろっ! 魔物が来たっ!」
ガバリ、と勢いよく飛び起きる。
跳ね飛ばした毛布はそのままに、外していたベルトを引っ掴んで腰に巻く。そしてベルトに提げていた剣鉈を抜き、狭い寝床を飛び出した。