3:静かな世界
未だ日は高い時間帯だというのに、森の中はどんよりと薄暗い。見上げれば黒々とした葉が幾層にも重なり、分厚い樹冠が日の光を遮っていた。
村周辺の木々と違い、森を構成しているのは大体が冬でも葉をつけたままの常緑樹だ。
人の手が加えられることがないためかどの木も背が高く、大の大人何人分ものの太さの幹は力強い根に支えられている。
緑の天幕のおかげで林床に積もる雪は外と違い薄っすらとし、その分これまでより幾分歩きやすい。もっとも、木の根や大きな石ころが多い分、悪路であることばかりは変わりないのだが。
しかし、林内の歩きやすさに反し、平原を歩いていた時よりも集団の歩みは遅かった。
女子供をはじめとした、初めて森の中を歩くものに歩調を合わせているというのもある。
加えて、慣れない場所を歩いているため疲労のたまりが早いのだろう。できるだけ明るいうちに距離を稼ぐつもりなのか、休憩も挟んでいないというのも一役買って足を上げることすら辛そうな者も多い。
もしも安心して休める場所があるのなら、今すぐにでも休憩することを提案したいくらいだ。
だがなによりの原因は緊張感の違いだろう。
森の中は見通しが悪く、どこに魔物が潜んでいるかわからない。
農業を主とし、せいぜいが鳥や兎、大きなもので鹿などの野生動物を狩ったことがあるくらいの村人が魔物と戦って勝てる道理はない。少なくとも、犠牲が出ることは間違いないだろう。
口減らしを受けた身なのだ、最悪の覚悟はできている。しかし、好んで死にたくはないし、死なせたくはない。全員無事でよその集落にたどり着ければそれが一番だ。それゆえどうしても慎重にならざるを得ないのだ。
当然先ほどのように会話をしながらというわけにもいかない。
気を紛らわせていた会話がなくなってからというもの、心には暗いものが立ち込めるばかりだった。
仕方のないことだとはわかっている。
魔物に限らず野生の生き物たちは耳がいい。
彼らに見つからないためには静かに、慎重に、そしてできるだけ身を隠しながらひっそりと歩かないといけない。
そういう意味では人が通れるような、他より開けた道を歩くのは矛盾しているように思えた。かなりのリスクを背負っていて落ち着かない。それでも大勢が迷わずに進むにはここを通るしかないのがとても焦れったかった。
***
森に入ってからというもの、ユリシス含めた大人の男性たちすら緊張に顔をしかめている。それこそ初めて森に足を踏み入れた時と同等に、いやもしかしたらそれ以上に気を張っているかもしれない。
こう言っては何だが、足手まといが多いというのがネックだ。力のあるもの、体力のあるものだけであれば魔物と遭遇したとしてもやり過ごせたり、逃げたりできるかもしれない。
しかし庇わなければならない者がいるとなると話が違ってくる。そもそも、見つかる可能性だって余計に高くなる。
大人ですら極限に近い精神状態に陥っている。そんな中まだ小さな子供となればどうだ。
周囲の気配を探るついでに、ユリシスは皆の様子をそっと伺ってみた。
まず目に入ったのはイェシカだ。隣を歩いている彼女はユリシスの服の裾をギュッと握りしめ、落ち着かないのだろう忙しなく周囲に視線を動かしていた。
ほかの子供たちも皆似たようなもので、近くを歩く大人たちに寄り添い、身を震わせながら恐る恐る歩いている。
枝葉が揺れるたびに体をびくつかせ、パニックを起こしそうなのを大人たちに必死に宥めすかされているようだった。
周囲の警戒以外に意識を向けたことで初めて自身も腰に提げた剣鉈のあたりで手が行ったり来たりを繰り返していることに気が付いた。
武器とは身を守る術。
暴力に抗うための術。
いったいどれだけ役に立つかなんてわかったものではない。それでも、武器とは持っているだけで安心するものだ。
無意識とはいえ、自身も僅かばかりの安心を得ようと必死だったようだ。
このままでは長くはもたないかもしれない、そんなことが頭に浮かんだ。
しかし、ユリシスが危惧していたものとは裏腹に、一行はその後も順調に歩を進めていた。
歩みは遅い。
それでも一度も止まることなく進んでいる。
理由はひとえに生き物が少ないからだろう。
冬は大抵の生物が死に絶える。あるいは冬眠につく季節だ。それは恐ろしい魔物とて例外ではなかったようだ。
注意すべきは冬でも活動するような連中だが、それも森の、そして山の生物全体でみればごく一部になるのだろうか。
春や夏ではこうはいかなかった。
緑の匂いが濃い時期は、木々の向こうから感じる獣の気配にいちいち身を隠し、やり過ごし、戻ってくるのを警戒して慎重に進むのだ。
少なくともユリシスが山菜取りや狩猟に参加したときはそうだった。
だからこそ。
こんな静かな森は初めてで、今まで必要以上に気を張っていたのかもしれない、そんな考えが頭の中に芽生え始めた。
歩く音と、時折吹き付ける風に木々がざわめく以外、まったく物音はしない。鳥の声一つ聞こえず、まさに終わりを迎えた世界に迷い込んだようだった。
魔物なんていないんじゃないか、みんな冬眠しているんじゃないか――このまま無事パント村までたどり着けるんじゃないか、そう思ってしまうくらいに。
ふと空を見上げる。
木々に遮られ空は狭い。それでも差し込む光の方向などから太陽の位置くらいは把握できた。昼を少し回ったところだろうか。ここからは日が傾いていくのも早い。
「オロフさん」
驚かせないよう先にイェシカに合図をしてから、少し歩調を早めてオロフの傍まで寄る。
耳元まで近づくようなことはしないが、努めて声を潜めながら話しかけた。
「今夜はどうするつもりですか。まさか歩き通しなんてことはしないでしょう」
「ああ、そうだな」
「休憩?」
「それはまだだ」
隣にいるのだ、当然話が聞こえたのだろう。
しかし期待を込めたイェシカの問いは一顧だにもせず否定された。
「どこかの木の根元に天幕でも張って過ごすことになるだろうな。どこを選んでも大差ない。だから暗くなるまでは歩くつもりだよ」
周りはどこも似たような景色だ。巨木が立ち並び、風をしのげそうな陰はそこらにある。
しかし。
「危なくはないですか」
天幕を張るとはいえ、野晒しとさほど変わらない。
それに、間違いなく寒さに震えることになる。薪もろくに拾えそうになく、火だって満足に焚けないだろう。冬の野営はさすがに経験がない。どの程度まで耐えられるのか、それも確かめていかなけれまならない。
そうでなくとも、魔物の問題もある。
冬の魔物がどれほど夜目が効くかはわからないが、まず眠れない夜になるはずだ。
「洞窟や穴倉を選ぶよりはましだろう。連中のねぐらにのこのこ入り込むことになるのはごめんだ」
そう言われてしまえば黙るしかない。
天然の穴倉は既に先客がいることのほうが多い。特に今の時期は冬眠に利用しているものも多いだろう。
「飯もそこで食うことになるな」
隣から「ごはん……」と呟くのが聞こえた。
荷物の中には旅の食料も含まれている。
切り捨てた者に旅糧を与えるのは、やはり情からだろうか。そのほとんどが無駄になるかもしれないというのに。
一人分ならともかく、三十人分ともなればかなりの量になる。もしこの分を残った者たちでわけあえば、切り詰めた食事も少しは華やいだことだろう。
とはいえ貰った側からすると普段の配給に少し色を付けた程度のものでしかない。そんな量だ。
目的地にたどり着くまでどれだけ掛かるかわからないし、山歩きはかなりの体力を要する。
それを考えると満足な食事とは到底言えず、それどころかかなり心許ない。村にいた頃と同じく、そして村に残った者たちと同じく、節約しながら食べていかないといけないことに変わりはなかった。
足りなくなったら、その時はもう現地調達か飢えて死ぬしかない。
***
「今日はここまでが限界か」
日が落ち始めた頃。
おもむろにオロフが立ち止まった。
あの後も歩き続けた一行は、山の麓付近までたどり着いていた。
途中からなだらかな勾配に、そしてただの林床から山道へと移り変わっていくにつれ歩みはさらに遅くなったが、それなりの距離は稼げただろう。本格的に山に入ることすら出来なかったが、メンバーを考えれば上出来か。
幸い魔物に出くわすようなことは一度もなく、いつの間にか皆の纏っていた重苦しい雰囲気も緩和されていた。
「ここらで夜を超す。固まって過ごすから、野営地に良さそうな場所を探してくれ。できるだけ木々が密集していて、根が大きく張り出しているところがいい」
そう指示を受けても、ようやく休めるのかと胸をなでおろすだけで足を止めたものがほとんどだった。だが、それも仕方のないことだろう。大半が村の外に一度も出たことがない者、もしくは長いブランクをあけた者たちだ。
ユリシスだって、初めて森の中を歩いた後は彼らと同じくらい疲弊したものだ。
彼らの心情もわかるからか、誰もそれを咎めるようなことはしなかった。
代わりに何人かの体力があるものたちが率先して都合のよさそうな場所を探す。ユリシスもイェシカを近くの大人に預け、木々の間を歩き始めた。
山のほうから転がってきたのか、場違いなように居座る大岩とそれに絡みつくような木の根。周囲は当然木々に囲まれ、見通しは悪い。
野営地に選ばれたのはそんな場所だった。
体がすっぽりと隠せそうな岩陰や木の根を選び、皆がそれぞれ天幕を張り始める。
出っ張りや低い位置に残された古い枝、もしくはひこばえなどにうまく紐をひっかけ、広げた布を蓋のようにする。運よくウロを見つけた者などは楽なものだ。中に何かが潜んでいないか、確認する必要はあるが。
あとは地面や周りに毛布や布切れを詰めて、できるだけ外気に触れる面積を減らす。これでどこまで通用するか。不安は残るが、これ以上を用意できないのも事実だった。
静かに、しかしどこか安心した様子で作業は進められた。どうしても疲労は隠せないが、皆精神的には村を出た時よりよっぽど元気なように見える。
いち早く用意が出来たものは他の誰かを手伝い、どこか和気藹々とした空気が漂う。共同で何かをするのは村の中での営みを思い出させて和やかな気分にさせてくれた。
できあがった寝床は一人一つというわけではなく、体格の小さいものや子どもなどは集まって使うようだ。たしかに身を寄せ合うほうが暖かい。
ユリシス自身はちょうど子供と大人との間といった具合の体格なため、彼らに混ざるのは難しかった。
それに、別の事情で寝床を共にするのも躊躇われる。きっと起こしてしまうことになるからだ。
「ユリシス、こちらへ来きない」
「わかりました」
自身の分は手早く用意を済ませ、率先して手伝いをしていたユリシスに対し、大人の一人が手招きをする。手伝っていた者に断りをいれて、ユリシスは彼の後を追った。
***
ほかの者たちが火をおこしくつろぎ始めている中、六人の男たちが集団のやや隅のほうに集まっていた。
上は初老に差し掛かったくらいの者までで、ベンノのような老爺はいない。下はユリシスが一番若かった。
これから今夜の見張り役を決めるのだ。
危険にまみれた野外で夜を越すのなら、無警戒に眠りにつくわけにはいかない。見張りを立てるのは当然のことだ。
もっとも一人に任せるようなことはせず、複数人で、それも交代で行うことになるだろう。
外で夜を越すことなどそうはないが、初めてのことでもなかった。かつて外に山菜を取りに出かけた際、天候不順で立ち往生してしまったことがあった。その時も同じように対処し、無事生き延びることができた。
似たような事態に陥ることは実をいうと少なくない。天候不順だったり、道に迷ったり、魔物の存在が歩き回るのを阻んだり。
様々なアクシデントがひ弱な人間を、まるで摂理に還れとでも言わんばかりに大自然の中に放り出すのだ。
ユリシスは運よく毎回生還できていた。しかし、同様の状況に陥ったのか、村の外に出たっきり帰ってこなかった者も多い。
見張り順、および組み分けはすぐに決まった。二人一組で、それぞれ二回順番が回ってくる。ユリシスのペアはオロフに決まった。
三十人という人数のわりに役割をこなせる者は少ない。わかってはいたことだが、今夜はあまり疲れは取れないだろうな、と少しばかり気が滅入る。
たった一日を過ごすくらいならば目を瞑れるくらいの負担だが、それがこれから毎日続いていくとなると……あまり考えたくないことだった。
時間がかかったのはその後だ。
見張り決めの後は、そのまま今後のことについての話し合いになった。明日からは更に厳しい旅路になるだろうことは誰もが理解している。何せとうとう本格的に雪山を登ることになるのだ。歩いたことのある山ならまだいい。それ以降はもはや未知の領域だ。
どれだけのペースで進むべきか。
どのような場所を野営地に選ぶべきか。
皆の体力事情と、さらに食糧事情とも相談しながら進まなければならない。
とれる選択肢などろくになく、結局はその場その場で最善を選ぶ、臨機応変な対応をするしかないということになった。
最善な対応、だ。
誰も言葉にしなかったが、これからは少しずつ脱落者が出ていくだろう。そういった意味合いが、暗に含まれていた。