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22:終着点



「まだ、立とうってのか。ほんと、しぶといなっ」


 吐き捨てるように呟いた。

 肩で息をしながら、抜け落ちそうになっていた斧を握りなおす。たったそれだけで体のあちこちに耐え難い激痛が駆け巡った。


 全身が引きつるような感覚に襲われ、否応なしに関節の力が緩む。

 限界は近い。

 確かめるまでもなく、考えるまでもなく、それを理解していた。


 外気に反して熱を持った体からは蒸気すら立ち昇り、怠さを覚える現状とは真逆にこれまでに込められていた力の具合が伺える。こもった熱の放出が間に合わず、沸き上がった血液に体が煮え立つようだ。


 こんな状態で己の使命が果たせるというのだろうか。そんな素朴な疑問への回答は不可能の三文字だ。立っているだけでふらつくような体では、容易く未来を見通せるような単純な攻撃すらそう何度も避けられはしない。


 たった一人の少女を逃がす時間すら、きっと稼げやしない。


 しかし馴染みとなった絶望の足音は聞こえない。いまだ希望は残る。

 先の疑問への答えは、相手が健在であることが前提なのだ。



 諦めとは無縁に煌めく鋭い眼差し。琥珀色の眼光が射貫くのは憎き魔物、その頂点。

 ウェトル・シルワトローの姿だった。


 人がかなうとは到底思えない、かつて組みなおされた生態系からすらも外れた強大な生命。

 しかしその巨体は背に大きな傷を負って地に倒れ伏し、顔には怒り以上に苦悶の色が濃い。

 見下していた生物に苦汁をなめさせられた獣の顔は醜く歪み、ボロボロの歯列が忌々し気に軋む。

 矮小な反逆者など食い殺してやるとばかりに不快な歯ぎしりの音が耳に届く。


 両者共に満身創痍。

 しかし両者共に不撓不屈の闘志が滾っていた。



――もう一撃くらい、入れるべきか。


 為しえるとは思っていなかった望外の勝利。

 それを半ば確信しながらも、ユリシスの頭に油断はなかった。

 ほんの少し前まで焦燥と混乱に塗れていた胸中も、今は鼓動が興奮と緊張に高ぶるのみにまで収まっていた。これ以上の予期せぬ事態でも起こらない限り、最期まで平静を保てるだろう。


 原因は言わずもがな。

 己が敗北を決して認めないだろう、傲慢な巨人の威圧がユリシスの危機感を刺激し続けるのだ。


 浮かれることを決して許さず、自然思考も冷えていく。

 平静を取り戻しつつある中もっぱら議題に上がるのは、これから己が取るべき選択肢。

 命をベットしてまで望んだ少女の生存が掛かった、失敗の許されない賭けだった。



 体がまだ動くうちに、できる限りを尽くしておくべきか。


 あれに人を騙すような知恵は――あったとしても使われまい。

 背骨を叩き割ってから、ついでとばかりに顔面に数発傷を与えた時も抵抗らしい抵抗が見られなかったのだから。

 しかし気が逸ったせいで手痛い反撃を貰っては堪らない。限界がきているのはこちらも同じ。立っているだけで既に辛く、余計なことをして弱みを見せるようなことになるのもまた避けなければならない。



 そう、慎重を期すがゆえ、思考は見事堂々巡りへと陥っていた。


 動けぬ体と動かぬ思考。

 片や立ち上がることすら不自由だが、絶対の破壊力にすべてをひっくり返す力を持つ。

 片や限界に近くとも僅かながらに余力のある体。しかしその身には巨躯を仕留める力は持たず、逃がすべき、守るべき対象を傍らに持つ。


場が膠着状態へと移行したのは自然なことだった。



――逃げてくれれば一番なんだけど。


 ふと思い浮かぶのは逃がしたはずの少女の顔だ。

 なぜ戻ってきたのか。

 なぜ逃げずにここにいるのか。

 ユリシスにはそれが未だにわからない。


 鋭敏になった神経はいまだこの場に残る、自身と仇敵以外の気配を捉えている。

 『逃げて』という懇願は一度は聞き届けられたと思っていたが、どうにもそれは間違いだったらしい。


 どれだけ持つかはわからない。しかし巨人の動きを封じることに成功した今、彼女がこの場を離れてくれさえすれば何もかもが解決するのだ。



 彼女の存在が相手の頭から抜け落ちていれば、少しは安心もできるのだが。


 そう愚痴をこぼすように、憎々しげに歪む金の双眸――否、片目は潰れ、より爛々とした光を帯びた隻眼と睨み合う。


 その憎悪を向ける対象は、己のみ。


 そうは見えるのだが。

 残虐性を歪な人型に固めたような存在だ、見せしめにと先に仲間を殺す。そんな選択を取るかもしれないとどうにも穿って見てしまう。



「なんでこう、うまくいかないんだろうな」


 口の端を歪めて、自嘲する。

 そして細められた目は、様子を変えつつある巨躯を忌々し気に見つめていた。


 巨人はこれまでも腕の力でもって、力ずくに立ち上がろうとしていた。しかしその度に背の損傷に呻き、蠢き始めた体はすぐに萎びていた。


 だが今回は違う。

 潰れた片目、体中にいつの間にかできていた小さな傷から赤色が飛び出していく。

 それは変わらない。

 全身に力が籠められ、異常発達した筋肉が瘤のように盛り上がっていく。

 それも変わらない。


 違うのは、体を起こすことを諦めたこと。

 二足で立つことを諦めたこと。

 倒れ伏し、地を揺らす音が聞こえないこと。


 腰を上げ、足を立たせ、しかし上体は地と平行なまま。

 久しく遠のいていた原点に返るように。


 そして――



 ***



「――ユリシスッ!」

「ッ!!」


 巨人が巨獣に変わるのと、喜色を浮かべた銀色の少女が飛び出してくるのは全くの同時だった。


――ああ、本当に。


「まだ終わってない! 下がっててっ!」

「えっ――」


――うまくいかないっ。


 喉が裂けそうなほどの声で叫ぶも、驚きに硬直した小さな体は嫌に悪い位置で止まってしまう。

 ちょうど、足を動かさずとも腕を伸ばせば届く範囲。鉄槌でも鷲掴みでも薙ぎ払いでも、なんであれ容易く命が消し飛んでしまう、必殺の間合い。



「クソッ!!」


 なんて間の悪い。

 まさかこの瞬間を狙っていたわけではあるまい。そんな器用な真似ができるほどあれには余裕がなかったはずだ。

 なら、ただの偶然だとでもいうのだろうか。

 そんな都合の悪すぎる偶然を認めないといけないのだろうか。


 平静は再び消し飛んでしまい、代わりに決して軽くはない混乱が頭を襲う。

 認めたくないほど数奇な現実と仄かに抱いていた希望、ありのままを受け入れる機械的な思考と筋道だてた理性的な思考、それらが競合する。


 しかし動転する精神に頼らずとも、体は既に動いていた。

 本能と、義務と意地。

 これらはどれだけ目まぐるしく状況が変わろうが、どれだけ理解の及ばない状況に陥ろうが決して左右されずに、体を独りでにでも操ってくれる。


 軋む体の限界を超える。立つのも精いっぱいで、歩くことすらままならない、そんな体で彼女を庇うように即座に飛び出だした。



 ――――そして、すぐに身を翻した。


「ッ!?」


 飛びのくと同時に少女の体を抱き寄せ、硬直したままの彼女を連れて二歩、三歩と飛ぶように遠ざかる。己のみならずもう一人分の体重をも支える羽目になった足が悲鳴を上げた。


「……何だよこれっ」


 しかし労わる暇も余裕もここにはない。

 ひとまずの安全地帯。その場しのぎの空白地帯で少女を下し、そのまま休むようなことはなく、過剰ともとれるほどに距離を取る。


「また、動いてる……」


 肩も触れ合う距離で呟かれれば、心の声がつい漏れ出てしまったかのような小さな囁きであったとしても捉えてしまうものだ。


「また……?」

「この蔦、罠のために木に結ぼうとしたんだけど、勝手に巻き付いていったの」


 彼女にとっても理解の及ばない出来事だったのだろう、たどたどしい説明からは困惑と混乱が滲み出るばかりで言葉が全く足りていない。しかし、情報足らずな説明だったとしてもちょうど再現してくれる見本があればその光景を思い浮かべることは容易だった。



 千切れたはずの蔦が、動いていた。


 独りでに動く植物。

 蛇のように地を這い、鎌首をもたげる。

 尾を木に巻き付け、千切れた頭でもって獣を噛む。長い胴体は捉えた獲物を締め上げ、できあがるのは異形の戒めだ。


 なんとも不気味な光景か。

 〝悲鳴〟すら耳にし、思わず顔を顰めてしまう。


 こいつらは寄生先を求めているのか。

 いや、それもどうも少しだけ違う。

 より上質な寄生先を、上質な餌を探しているのだろう。

 耳聡く異音を捉えたユリシスは、千切れた蔦だけでなく、周囲の木々からも蔦がべりべりと樹皮を引きはがしながら集まってきているのを目にしていた。


 樹木よりもよっぽど栄養のありそうな餌を求めて、無数の蔦は冬眠明けの蛇のようにうじゃうじゃと群れる。


 集まった植物質の蛇は巨獣へと巻き付いていく。巨獣を締め上げていく。


 逞しい腕も足も、巨体すらも枯れ色に覆われて見えなくなっていく。

 だが、ウェトル・シルワトローも当然無抵抗にそれを受け入れたりはしない。

 岩をも砕く剛力でもって戒めを引き千切り、嫌悪感すら覚える臭気を伴った蛇の血液をあたりに散らす。灰茶の体毛はどろりと粘つくそれに濡れ、不気味にてかっている。


 ウェトル・シルワトローの反撃によって、雪原に散らばる枯れ色の蔦は初めよりよっぽど数を増していた。今や巨体の周囲一帯だけ白い大地が姿を隠し、蛇の死骸にまみれていた。



 しかし、抵抗するということは体の支えが無くなるということ。



 四本足で何とか立てるといった具合の巨獣にとっては腕の一本も欠かせない。巨体が再び地に沈むまで、さして時間は要さなかった。

 そしてそこへ追い打ちを掛けるように蛇が容赦なく殺到する。

 後はもう、為されるがままだ。

 とうとう頭すら覆い隠され、喉も締め上げられているのかくぐもった悲鳴すら聞こえない。


 予想だにしなかった結末。

 あまりにも惨たらしい幕引き。


 それに暫し絶句するも、ユリシスはあることに気づく。


「――逃げるよ」


 そう促せば、隣に佇む少女も異変に気付いたようだった。


「さっきは来なかったのにっ……!」


 ウェトル・シルワトローの体はもはや毛の一本も見ることができないほどに蔦に集られている。そのため取り分が残っていないからか、餌にありつけなかった奴らがずるずると大地を這い――こちらへと忍び寄っていた。


「大丈夫、あいつら動きは遅い」


 問題は騒めき出した森だ。

 周辺一帯の木々から樹皮の剥がれるような乾いた音が無数に聞こえる。

 耳か鼻でもついているのか、連中はどうにかして大物が仕留められたことを感知しているらしい。しかし今頃出てきたところで獲物にはありつけない。全部こっちに流れてくるだろう。


 巻き込まれてたまるものか。


「急ごう」


 胸元で握られた手、その片方をそっと掴んで、木立の間を駆けていった。


 予想外の結末。

 しかしそれは悪いことではない。

 この子が救えたのだ、何だっていい。



 ***



「ユリシス、こっちだよ」


 蔦の蛇の縄張りから抜けた二人は、騒めきの途絶えた森の中をゆっくりと歩いていた。

 繋がれた手はもう必要ないと離され、今は少女――シュルヴィが先導して藪をかき分けている。


 そう、ユリシスが守ろうとしていたはずの彼女が先を歩いていた。

 普段ならあり得ない状況。

 安全の確認が取れた寝床周辺ならまだしも、ここはまだ歩いたことすらない地。

 どこに危険が潜んでいるかわからない森の中で、これまで彼女を先に行かせたことなどただの一度もなかった。


 それが今になって覆されたのは何も心変わりからではない。


 ユリシスは静かに、ただ無言で歩を進める。

 半死半生の体を重そうに引きずり、重心も定まらない体はふらふらと揺れている。

 周囲の警戒どころか歩くこともままならない、そんな状態なのだ。



 蠢く蔦の追跡を振り切り、どこか見慣れた木々が並ぶ地にまで逃げおおせて暫くしてのこと。


 周囲には魔物どころか、時折の寒風に揺れる草木以外に生き物の気配一つしない。

 だからだろうか。

 絶体絶命のピンチを乗り越えたこと、そして静穏を取り戻したことから、体を無理やり動かしていた気力がとうとう切れてしまった。

 力の抜けた体は重力に抗えず、ユリシスは固くしまった雪の地面へと倒れこんだのだ。


 それに気付き、彼女が肩を貸そうとしたのは、言うまでもない。

 しかしそれを頑なに断って今の状況があった。


 意地がないといえば嘘になる。それくらいにはユリシスも男の子だった。


 しかし第一に考えることは『見捨てやすいこと』。そして『離れやすいこと』。この二つだった。


 もし肩なんぞ借りてしまったら、彼女はもう自分のことを離さない。たとえ魔物に襲われようと、たとえ死の際に陥ろうと。そんな確信が胸中に芽生えてしまっていた。


 足手まといになってしまう。

 彼女を危険にさらしてしまう。

 自分のせいで、彼女を死なせてしまう。

 そんな半ば強迫じみた恐怖が、差し伸べられた手を握ることを拒んだのだ。



 時折心配そうに、不安そうに彼女が振り返るのを視界に捉えながらも、しかしユリシスはそれを敢えて見ないふりをしていた。


「もうすぐだから」


 こっちのはず……そう小さく呟く背中を、複雑な目で見守っていた。



 ***



「今、薬塗るから」


 深々と緑が茂る森の中。そこにぽっかりと穴のあいた小さな広場のような空間。見覚えのある岩に背を預けたユリシスは、自分が置いて行った背嚢を漁るシュルヴィの背を眺めていた。


「いいよ、そんな怪我はしてないから。ちょっと、疲れただけだよ」

「……傷だらけに見えるけど」


 肩越しに向けられたじとっとした眼差しに居心地の悪さを覚え、ユリシスはそっと目を逸らした。


 甚大なのは蹴られた腹部や、無理をさせた腕の関節。そして落下した際の打撲。表に見えているのはほとんどが小さな傷だ。顔や、破けた衣服から切り傷が覗く程度。

 それでも彼女にとっては放っておけないらしい。

 シュルヴィは自身の手を――傷だらけの手を水で洗い流したのち、有無を言わさず傷の手当てをしていく。傷口の血が落とされ、薬が塗られ、包帯が巻かれる。てきぱきと進められる処置に淀みはまるでない。いつも任せていたからか、随分と手慣れている。


 傷の手当もそうだが、初めと比べ随分と逞しくなった。


「なあ」

「何?」


 包帯を巻く手を止めて、シュルヴィは顔を上げた。


「なんで戻ってきたんだ」


 もう、初めて会った時のようにただ縮こまって事が過ぎるのを待つしかできない彼女とは違う。

 だから、彼女一人でも逃げられるはずだったのだ。

 だから、彼女一人を逃がすことに何の躊躇いもなかったのだ。


 彼女がそれを受け入れなかったから、追いかけてきたからこそ、ユリシスは今も生きている。しかし、ユリシスにとってそれは何も喜ばしいことではない。


 自らの命は、もう捨て場を探していたのだから。


「……迷惑だった?」


 力なく、しかしどこか糾弾するような含みに気づいたのか、シュルヴィは明らかに顔を曇らせた。それに心苦しさを覚える。そんな顔をして欲しくはない。しかし弱っていた体は、精神は、それ以上に強く胸に秘めていたものを抑える力を持たなかった。


「あのまま逃げてれば、無事に街に辿り着けてたはずだ」


 森の出口はもうすぐだ。山の上から見下ろした感じだと、あと半日と掛からずに抜けられそうだった。

 一人で行けと言った。

 逃げろと言った。

 それでも彼女は二度もユリシスの言葉を無視した。


「――でもそれじゃ、ユリシスはどうなるの?」

「俺?」


 彼女が自身を気に掛ける理由。

 その理由は感付いていた。知っていた。


 彼女は強いのだから。

 弱いのに、強いのだから。


 かつての、彼女の独白はしっかりと覚えている。自分の情けなさと弱さを見せつけられた夜を覚えている。

 彼女は何の力も持たないというのに、魔物を恐れ、足すら震わせるというのに、恐怖に立ち向かう強さを手にしたのだ。


 しかし、心の強さは体の強さと必ずしも繋がらない。それも、ひ弱な人間が強大な魔物と相対せねばならないこの無法の世界ではそれが如実に表れる。


「俺のことは、よかったんだ。ああでもしないと二人揃ってあれに――殺されていたよ」


 あの魔物を下せたのだって、本当に偶然のようなものだ。彼女の仕掛けた罠がたまたま上手くいったに過ぎない。

 知恵を持たない短絡的な生き物ならともかく。長きを生きた、ずる賢い巨人の魔物があんな見え見えの罠に引っかかったのは単にそれほど頭に血が上っていたからに過ぎない。

 たまたまあれの足を止めさせるほどの強度を持った蔦があったからに過ぎない。

 たまたま、その蔦が巨人すらも殺し得る戒めであったに過ぎない。


 偶然の積み重ねによって、自分も、そして彼女も今生きていられるのだ。



「でも、だからって……犠牲になろうとなんてしないでよっ……」


 それがわかっていたから、ユリシスは己を犠牲にした。それを受け入れられなかったから、シュルヴィはそれを拒絶した。


 悲痛な思いを乗せた言葉を皮切りに、シュルヴィの顔に濃い影が落ちる。それを隠すように、彼女は顔を伏せた。

 声は震え、消え入りそうにか細い。


 しかし決して折れない芯に火が付き、それが次第に語調にも表れ始めていた。


「それが一番だった」


 短く、簡潔な、突き放すような言葉。

 彼女の言葉を、彼女の思いを簡単に否定する、情の籠もらない言葉。

 それが――


「――一番なんかじゃない!」


 それが彼女の感情の発露へと繋がった。

 溜め込んでいた全てが一息に爆発したかのように、彼女は喉を震わせた。それはユリシスが初めて見た彼女の怒りだった。


 思わぬ変化に戸惑ってるうちに、ユリシスはぐいと岩に押し付けられた。

 力ない体ではそれに抗うことなど出来ず、背を凭れたユリシスの体に覆いかぶさるようにして、シュルヴィは肩を掴んだ。


 吐息も交わるような、密接した距離。

 奇しくも、配役を変えて少し前の光景を再現したかのように。

 狭まった視界。

 どこへ逃げようと彼女がいる。

 無理やり目を合わさせられ、潤む瞳と向き合わざるを得なかった。


「全然良くなんかないっ! そんな簡単に、死のうとなんてしないでよ! 一緒に生き残ろうよ! 私を一人にしないでよ!」


 怒涛に綴られる言葉の奔流。あまりの剣幕に押し流され、感情の激流に溺れるようだ。

 息をしているのかすらわからず、逃げ場を求めてもがくことしかできない。しかし、無情にも新たな波が覆いかぶさる。


「残された人の気持ちも、考えてよ!」


 発せられた言葉に、ヒュッと小さく息を呑んだ。

 錯覚ではなく。本当に息が詰まり、くらりと頭が揺れるような感覚に襲われた。目の前にさっと暗幕が垂らされる。深く冷めた沼に落とされたかのように足場が崩れ、暗さと冷たさが心を蝕んだ。


 それは、かつてユリシスが漏らした言葉だった。


 どうしようもなく己の内を曝け出した、許されぬ身と断じておきながら、救いを求めた自分の愚かな本音だった。


 冷たく粘つく水に足がとられ、深く深く落ちていく。空を求めてもがいても、重りでも詰まっているかのような体は――心は決して浮き上がってこない。


 そして、仄暗い泥の中から、代わりのものが顔を出す。



「一緒にいたいよ……」


 ユリシスの肩を掴んでいた白く小さな手から力が抜ける。

 傷だらけで、きれいな肌に痛々しい痕が残っている。冷水に指を赤くしている。

 弱々しく、儚く、そして強く。

 消え行くはずだったユリシスの命を掴み取った手。


「一人でなんでもしようとしないでよ……私にももっと頼ってよ……私だって、私だって何かがしたいよ……」


 ずり落ちた手は力なくユリシスの胸を叩いた。ぽすんと乾いた音を立てて、そよ風よりも儚い衝撃が、楔のように強い願いが胸の奥へと送られた。


 表情は、またしても伏せてしまっていて見ることはできない。

 しかし、ぽたりぽたりとユリシスの服を濡らす雫が全てを暗示していた。


――ああ。


 撃ち込まれた楔に、ユリシスの中で決定的な何かが分かたれ、貼り付けていた全てが捲れていく。沈むそれと相反し、昏い沼からせりあがってくる。


――違うんだ。違うんだよ。


「……俺なんかを助けたって、いいことはないよ。きっと、あの街に行けば俺なんかよりいい人がいっぱいいる。助けてくれる人がいっぱいいる。優しい人がいっぱいいる」

「そんなことない。ううん、そうだったとしても、私はユリシスがいいの。私を助けてくれたあなたを助けたいの」


 助けた、ね。

 ユリシスは自分の口角が皮肉気に吊り上がったのを、どこか他人事のようにだが感じていた。


「お前を助けたのは俺じゃない。あの人だ。トピアスだ。俺じゃないんだよ」


 虚飾を持たない、偽らざる本音。

 それがどれだけ鋭く尖っているか。

 それがどれだけ重く沈んだ色をしているか。

 それは心の奥底に仕舞い込んでいた本人にすらわからない。


「それに――」


 言ってはいけない。

 それは、最後まで胸に秘めておくべきものだ。そう理性が必死に抑えるが、沼底から浮き上がったものは制止など振り切って、一気に水面へと飛び出した。



「――それに、お前を助けようとしたのだって、ただの罪滅ぼしさ」



 一人生き残ったことへの罰。


 そして、ずっと抱えていた罪悪感。

 罪から解放される手段のはずだったのに、新たに背負うことになった、ほろ苦い罪。


 それらすべてを清算するたった一つの方法が、誰かを救って死ぬことだった。



 後者なんて、直接言葉にしなければ、まだ誤魔化すことができた。

 彼女にも、そして――自分にも。


「俺はずっと、お前を別人と重ねて見ていたんだよ。守れなかった人と重ねて見ていただけなんだよ。お前を助けたかったんじゃない……あの子を――イェシカを助けたかったんだっ!」


 こんな自分に優しくしてくれた。

 寂しさを埋めてくれた。

 最後の最期で、自分を幸せにしてくれた。

 いや、幸せにしてくれたはずだった少女。


 だが、自身の不手際が彼女の死を招いてしまった。


「ずっと後悔してた! どうして守れなかったんだって。どうして俺のほうが生き残ってしまったんだって! 命に代えても守るはずだったのに、何を犠牲にしても助けたかったのに!」


 今度は彼女が口をつぐむ番だった。

 ユリシスの口から吐き出される激情に、彼女は伏せた顔からわずかに見える口元をきゅっと引き結んでいた。

 目に映るそれを意識するたびにチクリと胸が痛む。

 それでも、一度口をついた言葉はもう止まらない。


「だから、だから、俺は優しい人間でも何でもないんだ。いい人でもなんでもない。誰かに、お前に生きていてほしいなんて言ってもらっていい人間なんかじゃないんだよ」


 積もったすべてを吐き出した後はもう、萎むだけだ。一瞬にして噴き上がった激情も勢いを失い、いまや沼の底を再び揺蕩うだけ。


「失望してくれたって構わない。それが本当の俺だから」


 何かが狂った。タガが外れた。

 何もかもを投げ捨てたくなり、乾いた笑いすら浮かべてしまう。



「……それでもいいよ。私にとって、ユリシスに助けられたのは変わりようのない事実なんだから」


 平坦で、声を震わせて、しかし意地になったかのようにシュルヴィはユリシスの独白を否定する。罪を受け入れてしまう。


「だからそれは――」

「そんなに自分を責めないでよ……。全部自分のせいにしないでよ」


 どれだけ否定されても、拒絶されても、彼女はこんな醜い自分を受け入れようとしている。

 涙ぐんだ声が次々と胸に刺さっていく。深い泥の奥底まで追いかけてくる。


「私だってそうだった。お母さんが死んじゃったのだって、トピアスさんが死んじゃったのだって、私はずっと自分のせいだって思ってた。でも、それも違うんだ。誰も悪くない。どうしようもないことだったって、今は思える」

「っ……」

「ユリシスだって、きっと同じ。守りたかった子だって、ユリシスのせいで死んじゃったんじゃないんだよ。だって、私たちはこんなにも弱いんだから」


 それは違う。

 シュルヴィは強い。肉体ではない。心が強い。自分なんかと比べて、ずっと、ずっと。


「だから、仕方ない。ユリシスがその子のことで後悔してたって、私にその子の姿を重ねてたからって、仕方ない。……ううん、本当は少し悲しい。私のことも見てほしい。私のことも受け入れてほしい。私も一人ぼっちになっちゃったから、大事な人が欲しい。大事に思ってくれる人が欲しい」

「……そんなもの、俺なんかに求めないでくれよ。俺には無理だ」



 独りよがりで、薄情で、本当の意味で人を見ることができない。そんな欠陥まみれの自分には、罪で塗り固められたユリシスという人間には、無理だ。

 しかし彼女は首を横に振る。

 頑なに、それこそユリシスの思いを踏みにじってすら首を振る。お互い様なのだと自分を押し付ける。



「ダメ。私はそれをユリシスに求めてしまった。もう変わらない。変える気もない」


 どちらもがどこか壊れている。

 それをお互いに自覚できるほどの、狂った感情の押し付け合いだ。

 片や自分を殺して、相手を生かすため。

 片や自分が生きるため、相手も生かすため。

 どちらもが狂っていても、どちらが健全な願いかは一目でわかる。それでもなかなか納得できないのが心情というものだ。


 崩れ去り、不安定極まりない足元がまたしても動揺に突き崩されていったとしても、嵌められた枷が逃げることを許さない。



「ユリシスの本音がどんなものだっていい。私は、私はユリシスが生きていてくれるなら、一緒にいてくれるなら、それだけでいい」


 その鍵を、ユリシスは持たない。

 ユリシスでない誰かにしか持てない。

 それを握っているのは、いまだ大人になり切れないユリシスよりも小さな手だ。



 力なく投げ出されていた手を、傷だらけの小さな手がそっと掴んだ。手袋を外していた手はひどく冷たい。それでも逃げることは許さないと指が絡められていくと、じんわりと温かさが伝わってくる。


 冷たい手。

 しかし、命の灯った温かい手。


 どこかで落としてきてしまった大事だった何か――人としての温もりを求めて、ユリシスは思わず握り返してしまった。


 握ってくれる。

 握り返してくれる。

 温かい。

 命の通った、今を生きていてくれる手が、枷を、戒めを一つ一つ外していく。



「――生きてる……ああ、生きてるんだよなあ……」

「そうだよ……私たちは、生きてるんだから」


 だから、前を向こうよ。震える瞳が、ユリシスにそう告げていた。


「そんなこと、許されても――」

「私が許すよ」


 悔恨の言葉を最後まで言わせぬように。

 最後に残った、罪に心を繋ぎ止める鎖を断ち切るように。


「ううん、私だけじゃない。皆が許すよ。あなたが生きていたっていいんだって。許してくれる。応援してくれる。生きててくれてありがとうって、言ってくれる」


 本当に、許されていいんだろうか。無様に生き延びて、その命をもって誰かを救うことだけが、誰かの代わりに死ぬことだけが罪を償う唯一の手段、そのはずなのに。


 そのはずだったのに。

 いや――


 そういえば、少し前までは自分は生きることに躍起になっていたんだったか。

 どうしてだったったっけ。

 本当に贖罪のためだけだったっけ。


 重石が外れ、ふわふわとした思考は忘れたい記憶を、忘れることが許されない記憶をゆっくりと辿っていく。その身の軽さに反し、深く深く記憶の底へと潜り込んでいく。沼の底、泥の水底よりも深く。

 柔らかい泥はしかしそれ以上進むなとばかりに粘り気を増す。それを平然と掻き分けて潜り込んでいく。



 いつの間にか水底から暗い森へと場所は変わっていた。見上げるほどの巨木が立ち並ぶ、寒々しい冬の森。命の落ちる昏い夜。

 その中で自分は土にまみれ、血にまみれ、雪の上に立ち尽くしている。


 暗い影に隠され、顔を見ることのかなわない少女の傍らに立っている。

 その視線が見つめる先は、一人の男の背中だ。何かを告げる、男の背中だった。声を聴くことは叶わない。何を言っていたか覚えていないから、それを思い出すことを無意識に封じていたから、聞こえない。


 そのはずだったのに。


『だから……頼む――お前だけでも、生きてくれ』


――ああ。


『生きてくれることこそが俺の、俺たちの望みさ』


――あの人も、同じ気持ちだったのかな。


 自分は、それに対して何を思ったんだっけ。



 それを皮切りに、様々なものが蘇る。村の人たちとの別れの時を。皆と共に励ましあった夕暮れを。自分のこれからを導いてくれた老爺の言葉を。


 誰もかれもが、誰かを思っていた。互いに生きてくれと願っていた。

 自分も変わらない。

 だからこそあの人に対して、あの言葉に対して浮かんだのは憤りではなかったか。

 一人で死ぬなという懇願ではなかったか。



――そうだよな。死んでほしくなんかないよな。



 どんよりと空に掛かった雲を破って、月が顔をのぞかせた。

 真っ暗な世界を照らし出す、大きくて、丸くて、明るい月だ。

 淡い月光は世界にかかった影を、傍らに倒れていた少女にかかった影を打ち消していく。


 光が満ちた中。


 そこにあったのは、冷たい体ではなかった。生気の失せた土色の顔ではなかった。


 傷もなく、血に汚れることもなく、倒れることもなく。


 しっかりと立って、彼女は自分を見つめていた。

 何を言うでもなく。ただ柔らかく微笑んで、ユリシスを見つめていた。

 出来の悪い子供を見るような、愚図る幼子をあやすような優しい目で、ユリシスを見つめていた。



「――俺は、生きてていいのかな」


「いいんだよ」


 耳に届いた簡潔な肯定。

 それは、どうしてか重なって聞こえた。


 月光に満ちた世界を。

 暗い、冷たい、しかし温かさに満ちた過去を背に歩いていく。ふらふらと、あてどもなく――否、声を頼りに歩いていく。

 森を抜け、泥を抜け、再び水面に顔を出す。

 そこには柔らかく微笑んだ少女がいた。

 儚げで、悲しげな表情がお決まりな顔も、今だけは慈愛に満ち溢れている。



 思えば、彼女とももう長い時間を共にしていた。朝から夜までずっと一緒だったのだ、日数よりも濃い時間を共にしていた気がする。


 辛い時も、楽しい時も、心穏やかに過ごせた時もあった。

 寂しさは埋まっていた。

 胸に空いた穴も埋まっていた。

 自覚していなかっただけで、自分はきっと満たされていた。


 ずっと、心の奥底から暗いものがこちらを覗いていたから、そちらに気を取られて気づかなかっただけ。


 それも――暗い影も、ようやく晴れた。



 プラチナブロンドの、柔らかそうな髪。

 雪のように透き通った白い肌に、はにかんだ唇。初めての時とは違う、悲しみが失せ、慈愛と、そして強い意志を秘めた淡い青色の瞳。


――こんな顔、してたんだな。


 知っていたはずなのに。

 今さらになってそんなことが思い浮かんだ。

 まるで初めて見たかのように思えた。


 やっと彼女のことを、本当の意味で受け入れることができた。


 そんな気がした。



 ***



「もうすぐだね」


 浮ついた声に、無言で頷く。


 不意に片手が掴まれ、軽く揺らされた。

 そこで初めて声すら出していなかったということに思い至り、繋がれた手の先へと視線を伸ばした。むくれた顔を想像していたが、予想に反してそこにあったのは笑顔だった。

 別に、無視をされたと怒ったわけではなかったらしい。そのことにほっと胸をなで下ろし、そして何がおかしいのか、堪えきれないといった具合に彼女と同じく破顔した。



 何もかもが雪に埋もれた広大な雪原を、手を繋いだまま駆け出した。



 ***



 巨人の魔の手から逃げおおせ、蔦の蛇の追撃を切り抜けた後のこと。傷を癒すために二日ほど足止めを食らったが、その後は何事もなく森を抜けることができていた。


 果てが無いように茫漠とした雪原も、遠くに見える尖塔が進む先を示してくれる。


 軽快に駆け出した足はこれまでの疲れなど一切感じさせない。それほどまでに心が軽く、胸の内に広がる安堵と達成感に身を任せていた。


 そこには少し前までのように張り詰めた緊迫感など微塵も残っておらず、集落という安住の地で無邪気にはしゃぐ子供とさして変わりはない。


 気が抜けていても、浮かれていても構わない。そのことを咎めることもしない。


 周囲には木々もなければ物陰もない。

 魔物が隠れているようなところなどどこにもない。

 命の気配も森を抜けてからというものまるきり感じず、静止した世界だけが続いているのだ。


 そのまま駆け足で歩を進めれば、いつのまにか白銀の平原も終端に差し掛かっていた。

 その先も見晴らしのいい平地であることには変わりなく、逸る気持ちが増すばかりだ。

 目的地はどんどんと近づく。

 それにつれて周囲もただの平地から農閑期の畑に変わる。

 簡素な柵で囲われ、それが人の営みというものをより実感させる。


 やっと。

 やっとたどり着いたのだ。


 たった一人……いや、たった二人しか生き残れなかった過酷な旅が、ようやく終わる。


 繋いだ手を包み込むように、確かめるようにふわりと握った。


「――どうしたの?」


 先導するように駆けていた足を止め、不思議そうに彼女は振り返った。


「何でもないよ」


 青い瞳が、ユリシスを映す。


 それがどうしてか嬉しくて、ユリシスなもう一度、柔らかく微笑んだ。



章終わり

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