21:分かれ道
息が整い、体の震えもようやく収まった。
体を締め付けるような恐ろしい威圧感が遠くへといった証だ。
足に力を込めればひどく弱々しくも立ち上がれる。
そして、途方もない焦燥感に再び体に震えが戻る。
「助けないと……何とかしないとっ……!!」
それは自分を逃がすため、その命を犠牲にしようとしている人を思ってのことだ。
再び失うことを恐れた、自分勝手な理由からだ。
どちらにせよ、今なお彼は――ユリシスは命の危機に晒されている。人間では到底かないっこない脅威に挑んでいる。放っておけば、間違いなく死んでしまう。
でも、自分にいったい何ができるというのだ?
そう暗い思考が湧き出てくる。
酷く真っ当な疑問だった。彼よりよっぽどひ弱な自分が行ったところで何ができるというのか。助けるどころか、邪魔なだけかもしれない。
――ああ、またこの無力感だ。
また何もできないからと諦めるのか。逃げるのか。
――違うっ!
もう失わないと決めたのだ。逃げるだけでなく、自分にできる何かをするのだと決めたのだ。
役に立たないかもしれない。
折角拾った命をむざむざ捨てることになるのかもしれない。
「それでもっ……!」
諦めることだけはしたくなかった。
森中に響き渡る轟音は彼が今どこにいるかを教えてくれる。
しかし、どんどん離れていく。
ぐずぐずしていたら、手が届かなくなってしまう。もう一生、手を握ることもできなくなってしまう。
「そんなの嫌だっ!!」
役立ちそうなものを適当に引っ掴み、シュルヴィは音を頼りに駆け出す。音は不定期にとはいえ、着実に移動していた。そのまま追いかけるように走っても追いつけないかもしれない。
――なら、先回りするんだ。
幸いなことに森の主の癇癪に巻き込まれるのを恐れてか、邪魔になるだろう他の魔物も一切姿を現さない。
途中何度も足を止める彼らと相反して、シュルヴィはただの一度も休むことなく、速度を緩めることなく森の中を駆け抜けた。
雪に足を取られ、埋もれた木の根に何度も転びそうになりながらも必死に走った。
「……この、辺り」
そしてようやく辿り着いたのは鳴り響く音よりも先。大樹が並び、木々の間隔が他よりやや広い、幅の広い通り道。
肩で息をしながら、シュルヴィは特別大きな樹木の一本へと歩み寄る。
走りながら、自分に何ができるのかをずっと考えていた。
そして、何もできないのだと嘆いてしまった。だが、嘆くだけでは終わらない。どれだけ役に立つかわからない。それでもやるだけやるのだと己を叱咤した。
ユリシスと共に生活する中で、教えられたことは幾つもあった。その中には魔物から逃げるための知恵も含まれていた。
『火を嫌うものには松明を、水を嫌うなら池に飛び込め、しつこい相手は罠に掛けてしまえ』
思い起こされる中のたった一部。しかし今の状況に対処できるのは。今の自分にできるのはここにしかない。
幾つもの選択肢を彼は教えてくれた。しかし大自然の脅威相手に、用意もなしに人にできることなんて実のところほとんどない。それに通用しないことが殆どだとも教えられた。
それでも全くないわけではない。
だから思いつく限りの全てを試すのだと彼は言っていた。
あの魔物は火なんて恐れなさそうだ。
池なんて見当たらないし、もし泳げるのなら簡単に捕まってしまう。
シュルヴィはナイフをそっと引き抜く。
共に村を出た、誰かの形見。
魔物に突き立てるためではない。
罠を作るためだ。
歩み寄った大樹――その寄生者である蔦へと手をかける。
大樹に巻き付いた蔦は寄生相手に見合うほどのものだった。自身の腕よりも太く、おかしな枝か樹皮が変化したものにすら見えた。
それを、ナイフで一か所だけ切り落とす。
粘つき、目に染みるような臭いのきつい汁がびちゃびちゃと噴出した。
「何これっ……」
明らかに毒がある。
きっと、触らないほうがいいのだろう。
しかしシュルヴィは驚きこそすれ躊躇うことはしない。樹皮に張り付く吸盤をぶちりぶちりと引きちぎりながら、樹幹に幾重にも巻き付いた蔦を引き剥がしていく。
「つぅ……」
引き剥がすには力がいる。
力を込めるには強く握らなければいけない。
そうすると蔦の表面に生えていたらしい鋭い棘が手袋を突き破って肌を刺す。
そして、染み出した粘液がひりひりと傷口を焼いた。
痛い。
でもきっと、彼はもっと苦しい思いをしている。痛い思いだってしてるかもしれない。
だったら、この程度がなんだというのだ。
「これを……」
通路状の向こうへと引っ張り、やはり一際幹の太い木に縛り付けていく。ちょうどあの魔物の足元に引っかかるようにと。
しかし、ここで意図せずしてシュルヴィの手は止まった。
握った蔦は、縛り付けるまでもなかった。
見開いた目が捉えたのは、千切った蔦のほうから幹を強く締め付けていく悍ましい光景。
ミシリミシリと樹皮に亀裂が走るほどに深く食い込んでいく光景。
「……動いてる」
予想外の光景に思わず体が止まる。樹皮を捉えるや否や蔦はひとりでに動き、ぐるりぐるりと幹に巻き付いていった。そして飛び出した棘を深く、深く樹皮に突き刺していく。
ユリシスと行動を共にしてからというもの、魔物なら何度も見てきた。しかしそれらはすべて獣と近しい、そんな生き物たちだった。
だからこそたった今己が手にしていたものに気味の悪さを覚えずにはいられない。こんな植物は知らない。間違いなく普通の植物ではない。
これは蔦の魔物だった。
それにもしかしたらこれは自分に巻き付こうとすらしたかもしれないのだ。
背筋に冷たいものが走り、想像した最悪の末路にぶるりと身を震わせた。
それでも、知らず口の中に溜まっていた粘ついた唾液と共に、恐怖は胸の奥底へと飲み込んだ。
不気味な生態も、今は都合がよかった。結ぶ手間が省けるのだから。そう都合よく捉えてでも固まる体に動け動けと指令を下す。
これだけで満足するわけにはいかないのだ。
いくら頑丈そうな蔦とはいえ、それこそ木の幹ほどもありそうな足に蹴飛ばされれば簡単にちぎれてしまうかもしれない。
――もっと、もっと作れば。
もっと数を用意すれば変わるかもしれない。
もっといろんな罠を用意すれば変わるかもしれない。
音はゆっくり、しかしどんどん近づいてくる。悠長になんかしていられない。
無力な少女の戦いが、ここに始まった。
***
一向に捉えられない獲物に苛立ちが募っている。鼻息がこれ以上ないほどに激しくなり、絞られるように皺の寄った鼻は傷口から血が噴き出す。
嘲りも消え去り、怒り一色に染まった巨人が吼えた。
大気が震え、木々が騒めく。
それだけで身が竦む。それだけで決着がつく、そんな恐ろしい咆哮だ。しかし目の前の相手にそれは当てはまらない。
咆哮と共に繰り出される突進も、拳の振り下ろしも、大地をひっくり返すような振り上げも当たらない。
恐れをどこかに落としてきた、獲物のはずの小さな生き物はそのどれもこれもを躱し、時に傷つきながらも歯向かってくる。
獲物ごときに攻撃を食らってなるものかと、懐に入り込まれた時のために迂闊な行動もとれない。
腕を潜り抜けられれば蹴りを繰り出し、体すらも使って叩き潰そうとする。しかし僅かな隙間をすり抜けるようにそれは逃げていく。おまけとばかりに小突いていく。
傷にもならないささやかな反抗だ。
毛が削れ、皮膚にも浅い痕が残るだけのような小さな反撃だ。当たり所が悪くない限りは血が出ることなんて滅多にない。晒してしまった隙を突かれさえなければ怪我など滅多に負わない。
それでも、苛立ちばかりは募る一方だった。
もともと気が長くない巨人の頭に熱く滾ったものが着々と溜まっていく。
目が血走り、ギシリギシリと歯が折れんばかりに食いしばられる。
見境というものが失われていき、大地を割り、木々をなぎ倒し、そして岩すら砕いていた拳に、腕の皮膚に徐々に、徐々に傷が付いていく。
しかしちょこまかと動く獲物を叩き潰すことしか頭になく、己が体の限界を超えた力の行使に気付くことはない。
爛々と、ギラギラと、ギョロギョロと蠢く目玉は小さな反逆者しか目に入らない。
初めよりよっぽど勢いを強めた嵐がそこにはあった。
***
侮りから慎重に、そして再び荒々しい動きへと戻ってきたウェトル・シルワトローとは対照的に、小さな反逆者であるユリシスの動きはより繊細なものになっていった。
時間が経つほどに相手の動きを覚え、そしてより単調になっていくそれを見切るのは難しいことではない。
当たれば簡単に致命に至る、広すぎて重すぎる一撃であることにさえ目を瞑れば眼前の巨人はひ弱な人間でも立ち向かえる相手だった。
そして。
――相手から動かせてはダメだ。先手を取れ。こちらの動きに対処させろ。
相手の行動パターンはそれほど多くない。
位置取りによっては自分に優位な動きを誘うことも不可能ではなかった。
それを理解してからはユリシスが相手の動きを支配してすらいた。
特にユリシスが嫌うのは振り下ろしではなく薙ぎ払い。
ウェトル・シルワトローはどうにも相手を叩き潰すことを重視しているようで、真横や背後といった死角に入り込まなければ狙いをつけない大雑把な攻撃はあまり用いない。
行動パターンを把握し、避けやすい行動を誘発する。回避と共にちょっかいをかけ、相手にさらに苛立ちを募らせる。
それの繰り返し。
それが最も安全な方法。
しかし最も危うい均衡でもあった。
いつ爆発するかもわからない極大な爆弾を着々と作り上げているようなものだ。
爆発を――死を恐れないからこそできる所業。
長く、できるだけ長く自分へと注意を引き付ける。〝全て〟が終わった後も自分以外の全てへの興味を失うほどに視野を狭めさせる。
その結末を作り上げるべくユリシスは体を動かしている。その未来へと導く手段だけが思考を支配している。
気が逸ることもなく、いっそ異常なほどに心は凪ぎ、無心に近いほど機械的に体は動いていた。
一方で相手は怒りが最高潮に達したのか、これまで控えられていた大振りの鉄槌がとうとう下された。
――チャンスがきた。
それを理解すると、反射的に足を前へと踏み込ませた。
初めは警戒していた鉄槌も今となってはただの隙だ。地の揺れにももはや慣れ、大地を駆ける足にも淀みはない。
拳が大地を割る。長い腕が大地に亀裂を走らせる。
撒き散らされた飛礫に露出した肌が切り裂かれるも、ユリシスは気にも掛けない。
愚直に体は動き、再び伸びきった腕の関節を狙う。皮が裂け、薄っすらと筋肉がのぞく部位を抉ろうと幅広の刃が振るわれた。
硬い感触。
痺れる手ごたえ。
腕の一本でも封じられればと、毛皮と筋肉の守りのない肘関節の破壊を狙っているのだが成果はまだ得られない。
鉈なんぞと比べ物にならない頑丈な刃でもってしても刃毀れが起きそうだ。
巨人は怒りと僅かな痛みに呻き、しかし己の失敗を悟ると先とはまた違った動きを見せた。
「ちっ」
地に伸ばした腕をそのまま内側にずらすように滑らせる。
体の構造上やや無理のある動きはぎこちない。それでも巨体がすべてをカバーする。
ユリシスは狭まる腕に押し流されそうになるも、己の胸ほどもある巨腕をよじ登った。
そしてそのまま体へ向けて駆け上がる。
ウェトル・シルワトローは慌てて振り払おうとするも、ユリシスは既に上腕を越え、肩先にまで辿り着いていた。
そして、迫る噛みつきよりも先にうなじへと回り。
「らああああぁぁっ!」
うねる大地の上で斧を振りかぶる。そのまま首筋へと刃を叩き付けた。
初めての鈍い感触。
薄っすらとしか毛が生えず、瘡のようにでこぼことした剥き出しの皮膚。刃は初めて深く食い込み、より力を込めて刃を押し込めば確かに繊維を切り裂く手ごたえが腕に伝わった。
絶叫が響き渡る。
咆哮とも唸りとも呻きとも嘲りとも違う。
初めての痛みによる――ぞっとするほど悍ましい叫び声が森中に木霊した。
巨人は狂ったように暴れだし、長い腕を滅茶苦茶に振り回してでも張り付いた虫を払い落とそうとする。
「ぐっ……!」
支えなど何もない不安定な足場からユリシスはすぐに振り落とされ、転がるようにして着地した。
斧はべっとりと血で汚れ、大地に突き立てれば白い表層に赤色が広がった。
憤怒をより濃く刻んだ顔が背後へと振り返る。怒りに己が牙を砕きながらも口を深く裂き、口角泡を飛ばして猛り狂う。
咆哮。
咆哮。
そして咆哮。
耳鳴りがするほどにやかましく、湯気がたちそうなほどに鼻息が荒い。
目の前にあるのは巨人ではなく爆発寸前の爆弾だ。
ここから先はどんな動きをするのか、まるでわからない。
「……追いかけっこでもするか?」
時間を稼ぐだけなら、それでもいい。
既にかなりの距離を移動していたはずだが、離れるなら離れただけ安心だ。
そうと決まれば逃げ一択。
ミチミチと引き絞られる腕を背後にユリシスは駆けだした。
***
背後からは轟音。時折飛来する木々や岩を運だけで回避して見せ、ユリシスは森の中をひたすら走っていた。
終わりのない鬼ごっこだ。
いや、終わりはユリシスの体力が尽きたとき。
なら、勝ちの見えない鬼ごっこか。
なんにせよ決して勝利の得られない、孤独な闘い。
そのはずだったのだが。
「ユリシスっ! こっち! 罠っ!!」
思いもよらぬ声を耳が捉えた。
そして、冷静を取り繕っていた思考は停止し、完成目前までに組み立てていた未来への筋道は一気に水泡に帰した。
――なんでっ!!!
再起動した頭が初めに発した思考はその三文字だ。
ここにはいないはずの声だ。いてはいけないはずの声。
何故森を抜けなかった、何故森に残っている、何でここにいる。
そうにわかに心に波が立ち始める。瞬く間にそれは荒れ狂い、動揺に乱れた呼吸が体に負荷をかける。
極限状態が招いた幻聴かもしれない。そんな淡い期待は目が捉えた銀色の髪を捉えて霞と消えた。
――どうするっ!! 引き返すかっ!?
想定外の事態。
さすがにこのアクシデントへのカバーは用意しておらず、都合よく天啓を得るようなこともない。
背後には怒り狂う巨人。
足を止めようものなら何もできずに地面に赤い花を咲かせることになりそうだ。
――こんな近くで、それはダメだ。
ならば通り抜けてしまうか? 巨人は自分にご執心だ。このまま駆け抜けてしまえば彼女に気付くこともなくついてくるだろう。
「ユリシスっ、そこに罠っ!」
黙っていてくれ。目立たないでくれ。
そんな気持ちも通じるはずもなく、木の陰から彼女は必死に地面を指差す。そこには太い蔦が幾重にも張り巡らされていた。
「わかった! わかったからもっと下がって! いやっ、早く逃げてっ!」
息を切らせながらもユリシスは叫んだ。
必死の願いは無事聞き届けられ、飛び出た銀色は奥へと引っ込んだ。
ユリシスは足元の罠を一つ、また一つと器用に飛び越えていく。
単純な罠であるが、それだけ信頼も置ける代物。
もっとも、通用すればの話だが。
確かに頑丈そうな太い蔦だ。しかし果たしてあの巨体に通じるだろうか。
もし有効であったなら。
利用するという選択肢も追加される。
罠を利用するかしないか、そのメリットとデメリットを考慮し天秤にかける。
メリットはここでウェトル・シルワトローに痛手を与えられるかもしれないということ。
うまくいけば退けることすら可能かもしれない。
デメリットは相手が罠にかかっている間に稼げたはずの距離を得られないことと、この場で戦わなければいけないということ。
本来ならデメリットではなく収支トントン、いや、メリットしかないのだが、ユリシスにとっての最優先目標である少女を巻き込む可能性がある以上ひどいデメリットにまで落ち込んでしまう。
ならば罠を利用しないなら。引っかかった巨人など見向きもせずに、そのまま走り去ったなら。
その場合のメリットは単純に余裕が持てること。デメリットは巨人の怒りが増すくらいだろうか。
これなら利用しないほうがよさそうに見える。シンプルな結果しか得られないが、より信頼のおける結果でもある。
しかし、しかしだ。
ユリシスが罠にかかったウェエトル・シルワトローを無視したなら。そのまま走り去ったなら奴はどうするのだろうか。
本当に、素直に追いかけてくるだろうか。
それとも――この場に残った人間に危害を加えるのだろうか。
――あれの関心は自分にあるはず。自分だけにあるはず。
そうは思っていてもだ。
一時の鬱憤を晴らすためだけに彼女の命が消費される可能性だって、かなりの高確率であり得る。
そうなればすべてが台無しだ。
メリットすらも、デメリットへとひっくり返る。
ここで奴を潰さないと彼女の命が助からないことになる。
少なくとも、彼女を再び逃がすまで奴の注意を引き付け直す必要がある。
――ああ、クソっ!
背後から聞こえるのは激昂に混じった驚愕の悲鳴。
首を回し後ろを伺えば、足に蔦が引っ掛かり体勢を崩す巨人の姿があった。
蔦は容易く千切れてしまう。しかし無視できるというほどではないらしく、その上何本も仕掛けられている。
今まさに倒れようという瞬間。
バランスを崩し、重心の偏った体は重力に逆らえずに地に引かれていく。やはり体が重いのか、抗うことすら許されない。不意を突かれて受け身をとることすら許されない。
そして、走る勢いそのままに盛大に地面を滑った。
巨体が地に沈む振動と、巻き上げられた雪飛沫。
雪に覆われていては土煙も立たず、無防備に晒された背が目に入る。
ちらと横を覗けば逃げるどころか何かを覚悟した彼女の顔が遠くに見える。
それに歯痒さを覚えながらも、ユリシスは何をすべきかを決めざるを得なかった。
やるしかない。
ここでこいつを、倒すしかない。
決まってしまえば、あとは早い。
落ち着け。慌てるな。一瞬たりとも無駄にするな。
最高のチャンスであり最後のチャンス。
ここで決めなければいけない。
ユリシスはいまだ倒れ伏したままの巨人の背に飛び乗った。打ち所が悪かったのか頭を抱えたそれを一瞥し、こちらに意識を割く余裕もないことを悟る。
ならば、急くことなく。
不安定な背という足場をしっかりと踏みしめ、これ以上ないほどに高く斧を掲げた。
「あああぁぁぁぁぁっ!!」
薪でも割るように。
大樹を叩き切るように。
大地すらも両断するように。
背骨の突起と突起の間、椎間を分断するように全力でもって刃を叩き込んだ。
ビクリと大地が揺れる。衝撃すらも伴う音波が耳を苛んだ。
それでも手は止めない。
二撃目を、三撃目を叩き込んでいく。
何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も刃を叩き込んでいく。
悲鳴すらも届かないほどに雄叫びを上げて、肉という大地に、骨という地殻に強靭な鉄の刃をめり込ませていく。
喉や頭、心臓のようなわかりやすい急所を狙わなかった理由といえば、巨人が無防備でいる僅かな時間でとどめを刺せるとはどうにも思えなかったからだ。
ウェトル・ファルレムスのように常に沈着冷静な相手ならば、ある程度の怪我を負えば損得を考えて引くという選択肢を選ぶこともあるだろう。
しかし目の前に這いつくばるのは怒り狂った巨人だ。それも元から相手を甚振ることに心血を注ぐような根っからの外道。これが多少の手傷を負ったからとその下手人を見逃すとは到底思えない。
むしろ、よりその怒りを高ぶらせるだけだろう。
ならばとユリシスは、この外道を行動不能、あるいはそれに準ずる状態に追い込むことを選んだのだ。
背骨がいかれてしまえば立つことすらもままならなくなる。特に異様に重い肉の鎧をまとっていた場合は尚更だろう。
もし立てるのだとしても、追いかけられるほどに機敏には動けないはず。
「折っれっろおぉぉっ!!」
鉄の刃を叩き込むたびに肉の大地が高く波打つ。
そして一際揺れたかと思えば、ユリシスは思わず手を止め膝をついた。
痛みと衝撃に悶える巨人もいつまでもやられたままではない。立ち上がるより先に、背中に張り付いた邪魔者を追い払うことを選び、長い長い腕をいよいよ伸ばした。
背の毛皮はとうに裂け、血肉に汚れた白い骨が剥き出しになっている。
しかしまだ痛手には届かない。
まだ叩き折れていない。
「ックソ!」
今退くわけにはいかない。
幸い伸ばされた腕は振り回されるのとはまた違うややゆっくりな動きだ。考える時間が残されている。
応戦し、背に留まることを優先するか。
無視をして背に一撃でも多く入れることを選ぶか。
二つに一つの選択肢。
逃げ出すという道は浮かびもしなかった。
コンマの世界でユリシスはその片方を選ぶ。
選ぼうとして――
一瞬の逡巡はしかし無用なものとなった。
予想外のアクシデントというものは一度起こってしまえばなぜか続くものだ。
今まさに次の行動をとろうとしていたところで、いくつもの岩が頭上から降り注いだ。
「何がっ」
思わず天を見上げる。
一見すると分厚い枝葉の層がある以外何もおかしなところはなさそうだった。山頂からの落石を警戒しなければいけない位置でもなければ、まさか雪の代わりに岩が降るなんてこともない。
疲れが見せた幻覚ではない。落石は現実でしかなく、それを証明するように頭や腕、肩、足などを打たれた巨人の呻きが耳に届く。
実に都合のいい現実だ。都合のいい展開だ。なにせ巨人の動きを止めただけでなく、ユリシスの周囲だけをきれいに避けているようですらあったのだから。
混乱に陥りながらも、落石が自身に当たらないことを悟るとユリシスはそれをうまく利用する方向へと頭を切り替えた。
不意の衝撃に何度も怯む巨人の背に改めて立つ。この機を逃すわけにはいかない。
「終わりにするぞ……!」
もう一度高く振りかぶる。
天に逆らう狼煙のように、大地を嘲笑う塔のように。
高く、高く振りかぶる。
そして。
渾身の一撃が。
最後の一撃が。
固い背骨を打ち砕いた。
***
空が弾ける。
耳が裂ける。
頭が割れそうだ。
悍ましい絶叫に頭を抱え、シュルヴィは地に蹲った。冷たい大地が体を冷やしても頭までは冷やしてくれず、連続して殴られているような痛みは続き、まとまらない思考もぐるぐると渦巻くばかりだ。
幾ばくかの時間が過ぎ、頭を苛んでいた絶叫が鳴りやんだところで、怒りと恨みの濃い呻き声と大地が軋むほどの揺れがいまだ体を襲う。傍の大樹に体を預けなければ膝立ちになることすらできない。
「ダメだったの……?」
絞りだした声は怒声に掻き消されるほどの弱々しく震えていた。
しかしそもそも答える者もいない独り言。
触れる樹木が応えてくれるわけでもない。
ただ、ほんのちょっと弱音が顔をのぞかせただけ。
弱音を振り払うように、指に力を籠める。荒い樹皮に指の皮が裂けた。
それがどうした。
「……まだ、まだ残ってる!」
衰えを知らない絶望的な気勢。かつての自分ならばとっくに心が折れてもおかしくないそれを前に、しかしシュルヴィは改めて奮起した。
――助けるんだ! 一緒に逃げるんだ!
湧きあがったどうしようもない恐怖。それに立ち向かえるだけの理由が、今の自分にはあるのだと。
シュルヴィは再び己にできることを為すために立ち上がる。
苦労して仕掛けた罠を使うため、体を預けていた大樹に目を走らせる。
――ここに残ってるのは、三つ。
樹幹に結びつけられた細い蔦。先ほど魔物を転ばせたものとは別の、ただの蔦だ。蔦は天へと伸び、先端には岩が縛り付けられていた。
先の落石の正体がこれだった。
岩の縛り付けられた蔦の先端を高い枝にひっかけ、もう片方を低い位置で結んだだけの簡単な仕掛け。あれみたいな魔物がよく暴れるからか、幸いなことに手頃なサイズの岩には困らない。
シュルヴィは落石がユリシスに当たらない位置を慎重に選び、幹に結んだ蔦をナイフで断ち切っていたのだ。
大した罠は用意できなかった。
落とし穴を掘る時間も力もなかったし、木組みの檻や木を削りだした仕掛け槍なんて作れもしない。
僅かな時間と利用できる資材、そしてシュルヴィ自身のつたない技術ではこの程度の罠が限界だった。
せめてと用意した落石トラップもそれだけでは瘤もできないかもしれない。しかし少しでも相手を怯ませることができるなら。少しでも彼の助けになるならと慣れない木登りに挑んででも作り上げた。
シュルヴィの体もボロボロだ。
棘と毒液で傷んだ手と、ごつごつした樹皮に削られた衣服と傷んだ純白の蛇鱗。何度も木から落ち、体だって打撲だらけだ。
滑車もついていない枝に岩を吊るすのは、井戸で水を汲むのと比べ物にならないほどの力仕事だった。
今の彼女を動かしているのは、ただの意地のようなものだ。
諦めてなるものか。失ってなるものか。
その一心で。
きっと彼も諦めない。今も尚戦っているはず。そう半ば直感に近い思考でもって、再び彼の位置を把握しようとして。
「――えっ?」
しかしそこにあったのは彼女が想像し得なかったものだった。
木々に囲まれた白く冷たい大地。
辺りに転がる場違いなような岩の弾丸。
それはいい、まだわかる。
後者に至っては自身が作り出した光景なのだ。
おかしいのはそれらに囲まれたもの。
そうであって欲しい、そうなって欲しいと思ってはいても、心の中ではどこか諦めていたのだろう。無理なことだと達観していたのだろう。
しかしそれらは今覆された。
倒れ伏したままの巨人。
そして巨人の背から離れ、悠々と立つユリシスの姿。
最も欲していた光景が、そこにはあった。