2:旅立ち
門の前には大勢の村人が集まっていた。総勢二百にも満たない小さな村のほぼ全員がいるかもしれない。
集まった者たちは皆冬の寒さを凌ぐために蓑や毛皮の外套といった似たような姿をしてはいる。しかし、大きな違いがその集団を二種類に分けていた。
それは腰や背に大きな、そして膨らんだ袋をつけていること。鉈や斧、鎌などといった農業でも狩りでも山菜取りでもないのに物騒な刃物をぶら下げていること。
そして何より、瞳に浮かんだ諦めと同情という色の違い。
どちらが不幸に選ばれてしまった対象なのか、見比べるまでもなくわかる。
家族がいるものは今生の別れとでもいうような抱擁を交わし、そうでないものはただ静かに目を伏せている。
選ばれたのは男女、そして年齢問わずの三十人ばかり。偏りがないわけではない。身寄りのないものを中心に選別したのだろう。他は働き盛りを過ぎた老齢の者が多いが、誰かの代わりにでもなったのか、これからの村の運営に必要とされるはずのまだ若く力もありそうな男もいないわけではなかった。
ユリシスもまた、大仰な装備をした一人だった。動きを阻害しない程度の蓑を身にまとい、膨らんだ革袋を背負っている。腰にはベルトを巻き付け、分厚い剣鉈や小さなナイフ、ぱんぱんに膨らんだ水袋などを提げていた。
付き合いの深かった者たちとの別れは既に済ませている。
そっとダヴィドのほうへと視線を向けると、旅立つ者の一人一人と長く話し込んでいた。
その顔は決して普段の穏やかなものではない。優しいだけでは務まらない、上に立つ者の義務が随分と彼を苦しめているようだった。
出発にはまだ時間がかかりそうで、それまで暗い顔をした知人や、長い時を過ごした村をぼんやりと眺めていた。そのうちただ別れの時を待っているだけということに嫌気がさし、ユリシスは村の外へと視線を移した。
まず目につくのは村全体を囲う簡素ながらもしっかりとした防護壁だ。大きな木材を基礎に、切り出した石や粘土で壁を固めている。
外敵から村を守るための頑丈さを重視し、そして容易によじ登れないよう高さもある。
出入口は三か所あり、今はその一つが口を開けている。ここばかりは可動式にしなければいけないので、丸太を連ねたものとなっていた。
門の向こうには寒々しい景色が広がっている。
目の届く範囲は雪に覆われた大地が延々と続くばかりだ。
時折威勢のいい多年草が白いヴェールを貫いているが、それもごくわずか。肉厚の葉や穂先にも雪が積もり、重みに耐え切れずだらんとしな垂れている。
高い壁の上からのぞくのは険峻な山々。デリアラス連峰と呼ばれる山脈で、外の世界との間に立ちはだかる壁だ。
山間の高地に位置するメイル村はどこにいくにもこの山を越えなければならない。
頂は遠く離れた位置からでも見上げるほどに高く、山肌は真っ白に染まっている。
青空と太陽のもと、どこか煌めいて見えた。
圧倒的な生命の気配。
多くの生命が鎮まる季節だというのに、決して衰えることのない力強さが立ち昇っているようだ。
見ているだけだというのに、今から向かうことを考えると思わず気圧されそうになってしまう。
村から見えるのはせいぜいがそれくらいだった。
そこから先は慣れた土地、というほどではないが、わざわざ記憶を辿るほどでもないくらいには歩きなれた場所だ。
白銀の大地の向こうは暫くは森が続くのだが、この森には採集や狩猟で度々足を踏み入れている。
ユリシスにとっては苦い記憶しかない地だ。
自身も何度も命の危険を覚え、帰ってこれなかった者も多い忌々しい土地。
それでも多様な野草や果実、そして鳥獣と、食料の宝庫でもある。飼育していた家畜ももともとは山から連れてきたものだし、食材以外の資源だってある。それゆえ、村のために若い男衆は危険を冒してでも立ち入る必要があった。
その森も半ばあたりからなだらかな勾配になり始め、植生の移ろいとともに徐々に標高を増して、最後は険しい山岳地帯に代わる。
山にまで足を延ばすこともままあった。
しかしそれは目的のものが森で得られなかった場合がほとんどで、誰も積極的に立ち入ろうとはしない。
それほど危険が、未知が溢れているのだ。
ユリシスはかつて経験した山登りのことを思い出そうとして――やめた。これから否が応にも向かわなければならないというのに、気後れするような思考は邪魔でしかない。
苦痛を伴う記憶は頭の奥底へしまい込み、代わりに目指すべき目的地へと思いを馳せる。
この森を、そして山を南にずっと進めば一番近い集落であるパント村があるのだとユリシスは聞き及んでいた。そこが一応の、そしてひとまずの目的地だとも。
パント村もメイル村と同様に山間にある村だ。この山岳地帯には似たような村がいくつかあるのだそうだ。
そしてさらに南。デリアラス連峰を越えた先には商人たちが拠点にするような大きな街があるのだという。おそらく、最終的な目的地はそこになるのだろう。
そこがどれくらいの大きさなのか、どんな人たちが住むどんな街なのかまでは知らない。 しかしそれはユリシスに限ったことではない。
何せ村人の中で実際にその街へ行ったことのある人はいないし、外の世界、他所の集落の存在なんてメイル村に残る古い書物や口伝にも滅多に出てこないのだ。数少ない情報も古すぎてあてになるかどうかわからないようなものばかり。
そのため外の話は異邦人から話を聞くくらいしか情報を取り入れる手段がないのだが、村の外から人が来るなんてそれこそ年に数回、長いときは数年に一回と滅多に機会がない。
メイル村の住人が不勉強というわけではなく、詳しくなろうとすること自体そもそも不可能なのだ。
そんな度々の訪問者が語る貴重な外の話の中でも、ユリシスが興味を示したのはある特定のものだけだった。
何せずっとメイル村で暮らしていくとばかり考えていたのだ。ならば日々の生活に役立つ知識を、と考えるのは何も悪いことではないだろう。
想定していた使われ方とは違うが、実際これから役に立つだろう。
しかし今の陰鬱な時間を潰すこともできないなんて、外に暮らすの人々の話も少しは聞いておくべきだったかと今さらになって後悔していた。
一方で、そんな後悔も別に必要ないのだと暗い思考が這い出で、過去の自分を優しく擁護する。
どうせ、たどり着く前に死ぬのだから、と。
***
「では、行ってまいります」
ぼうっとしているうちに、出稼ぎ組の中の一人、オロフという男が出発を告げた。
見送る人たちの方を振り返ると、誰もかれもが沈痛な面持ちでいる。無事を祈って手を組む者こそいれど、手を振って送り出すような者はいない。
唇を真一文字に結んだオロフが先頭を切って歩き出すと、残った者もぽつりぽつりと、しかし決してはぐれることのないように固まって後に続き始めた。
ユリシスもその中に混じる。
全員が門をくぐり、ある程度離れたところで後方から重たい音が聞こえた。振り返るとちょうど門が閉じられているところだった。
ユリシスと同じように後ろを向いたものがいたのだろう、誰かが小さく声を上げた。悲鳴を無理やり飲み込んだような、呻くようなものだった。
いやに耳に残る。
自身の境遇を、これからの暗い未来をより実感させられそうで、気勢をそがれるどころではない。
門が完全に閉じられると同時に、ひときわ大きな音が鳴った。遠目にも雪煙が巻き上げられるのが見て取れる。
既に冷め切った心情ではあったが、薄情だとも思わなくはない。
まだ顔が見え、声を上げれば耳に届く距離だというのに。
引き返すことを許さない、そんな冷たい拒絶の表れなのだろうか。それとも、もう会えないのだと未練を断ち切るためなのか。
そのどちらなのか、ユリシスにはわからなかった。
***
誰しもが無言で、ただ歩みを進めていた。
ざくりざくりと雪を踏みしめる音だけが真っ白く静まり返った世界に響いている。
周囲は村から見た景色と大差ない。
雪に埋もれた大地と、とこどろころから頭を出した野草。まばらに生える木々は皆葉を落とし、代わりに雪を花としている。
空気の冷たさだけでなく、シンとした音に耳が痛い。
三十人余りの集団は、本当にパント村を目指しているのかと疑いそうになるほどその足取りは頼りなかった。
しっかりと大地を踏みしめているようで、しかしどこかふらついた印象が拭えない。
ある者は半ば放心気味のようだ。
ある者はいつ死が襲い掛かってくるか気が気で無いようだ。
ある者は急にどこかに腰を下ろして、そのまま春まで動かなそうなほどの儚さすらある。
そんな彼らの、ただ機械的に動くだけの足元を眺めているだけの自身もまた、似たような姿を晒しているのだろう。そう、他人事のような考えばかりがユリシスの頭の中を占めていた。
「あの、隣の村までどれくらいかかるんですか?」
唐突に耳朶を打った声に、茫洋とした思考から引き上げられた。遠慮がちな、幼さの残る高い声。
見慣れた森の入り口が見えてきた頃に、ユリシスより三つ下の少女――イェシカが誰にともなく聞いたのだ。
声に反応し視線を上に戻すと、集団の中でやや後方を歩いていたユリシスには彼女のそわそわと動く姿がよく見えた。
帽子の下からのぞく、一房に編んだ黒髪がぷらぷらと揺れ動く。
イェシカもまた、ユリシスと同じく身寄りのない子供だった。
大人に混じって仕事をすることの多かった彼は同年代以下の子達との交流は少なかったが、知らない仲というわけでもない。
中でも彼女は聞き分けのいいほうの子で、小さい子たちのお姉さん役を務めていたと記憶している。
十歳を迎えてからは大人の仕事を本格的に手伝いだしていたはずだが、大体が男女で仕事は別なためどちらにせよユリシスとはあまり接点がない。
「……どうだろうな。二、三日で着くかもしれないし、春までかかるかもしれない」
誰も答えないのに気まずさでも覚えたのだろう、長い沈黙を挟んでオロフが口を開いた。
「もうっ。真面目に答えてくださいよ」
「俺も行ったことがないんだ。仕方がないだろう」
「そうなんですか……」
にべもない返答に、イェシカがしゅんと肩を落とした。
「……道はわかるんですか」
このまままた沈黙が広がるというのも気が滅入りそうなので、間が開きすぎないうちにユリシスも会話に加わることにした。
話し相手が増えたのが嬉しかったのか、イェシカが笑みを浮かべながら寄ってきて、そのままユリシスの手を引いた。振り払うのもどうかと思いなされるがままにしていると、前方へと連れていかれてしまった。
「行商人の通ってくるルートを使うつもりだ。途中までは俺たちが山に入るときと変わりはないそうだ。それより先は、まあ荷馬車が通れそうな道があるらしいから、そこを探す」
子供二人の様子をちらと眺めていたオロフだったが、小さく嘆息をしたのちに話を継いだ。
彼も話がしたくないわけではないのか、それともけん引役を引き受けた義務感ゆえか、聞けば答えてくれるようだ。
剣俊な山が連なるデリアラス連峰だが、何もすべてが過酷な山というわけでもない。中には小高い山もあり、メイル村ではそういったものを選んで採集や狩りに利用することもあった。
ユリシスも経験がある。時期は今と似つかない緑の匂いの濃い頃だったが。
「元々は村同士をつなぐ道を作る試みもあったそうだ。俺はたいして歴史に詳しくはないがな。今よりも、メイル村がもっとでかかった時にはよその集落との交流も少なくなかったらしい」
「それは初耳です」
「なんでやめちゃったんですか?」
イェシカが素朴な疑問を浮かべる。
「俺は詳しくないって言ったろう。そこんところは年寄り連中にでも聞いてくれ」
オロフはそう言うと、ちらりと後ろのほうへと目をやった。
視線の先、ちょうどユリシスらの数歩後ろには、しわくちゃの、それこそダヴィドよりも深く年を重ねてきた老爺がいた。
「ベンノ爺」
水を向けられたベンノはまるで今気づいたとばかりに顔を上げた。
「なんだ」
「なんでメイル村はよその村との交流をやめちゃったの?」
「それはなあ」
イェシカの問いにベンノは考え込むようにして、長い白髭を指でなでる。閉じられた瞼は過去の記憶をよく思い出しているようだ。
「ワシも知らん」
だからこそ、あっけらかんと告げられた言葉に、傍から見ていただけのユリシスも思わず気が抜けてしまった。
「ベンノ爺も知らないの?」
「そうだなあ。なんせワシが生まれたころにはもうメイル村は今の姿だったからなあ」
「そうなんだ」
「なら、昔話とかはないんですか」
納得してしまったイェシカの代わりにユリシスが別の切り口から聞き出そうとする。
知らなければそれまでなのだが、何となく、言い渋っているような、煙に巻こうとしているような雰囲気を感じたのだ。
「……まぁ、よいか」
暫く黙していたベンノが、その重い口を開いた。
「メイル村もパント村も、いや、それこそここらの地域の村全体はな、もともと幾本もの道路でつながっていて、交流も盛んだったそうだ」
随分昔のことらしいがな、とベンノは続けた。
まさか、と思う。
村の誰からもそんな話は聞いたことはなかったし、目を通したことのあるどの蔵書にも載っていなかった。
「ここらはいろいろと資源が豊富なわけだが、いかんせんとれる場所に偏りがある。だから村同士で協力し合って、お互いに融通していたそうだ」
メイル村にもいわゆる〝特産品〟と呼べるものがある。行商人たちがこんな辺境にまで足を運ぶのもそれが理由だそうだ。
ユリシスからすれば『こんなもののために?』と疑問を覚えずにはいられないものではあったが、商売とはそういうものなのだろう。
「しかし山を越えるのは一苦労だ。命だって簡単に落とす。だからこそ、舗装されたような立派なものではなかったが、少なくとも安全に行き来できるような道が作られたらしい。商人どもが通っているのもその道の跡だろうて」
「それじゃあ交流をやめちゃった理由が余計わからないよ」
再び興味を持ったらしいイェシカが困惑の声をあげる。
それに反して、ユリシスはその原因には嫌なくらいに心当たりがある。というより、〝昔は安全だった〟ということのほうが疑問だった。
「そりゃあ、単に道が安全ではなくなったからだ。ここらにも魔物が住み着くようになってな、それからは魔物の脅威を恐れて野山は気軽に歩けるようなものじゃなくなったそうだ。それと一緒に、村もだんだん縮小していったんだろうな。いくつかの村は廃村になったとも聞いとるから、メイル村はまだましなほうさ。まったく。あんなものが生まれなければ、ワシらもこんな苦労をしていなかったろうて」
ため息とともに、ベンノは昔話を締めくくった。
なんとも希望のない昔話だ。だが、それだけではない。どうにも聞き流せない部分があった。
あんなものが、生まれなければ?
「ちょっと待ってください。それじゃあ魔物は、昔はいなかったみたいじゃないですか」
ベンノの口ぶりに、堪え切れなかったとばかりに噛みついてしまう。
気が付けば、周囲で話を聞くだけだった者たちのほとんども、大なり小なり驚きを見せている。
今更そんなことを知ったところで、という話でもある。
しかし、彼の話にはこれまでの常識を打ち壊すほどの秘密が秘められていた。驚くなというほうが無理がある。
驚かないのは、ベンノと歳の近しいものだけ。
もしくはいまいちピンと来ていないのだろう、隣を歩くイェシカのように、まだ幼い者たちだけが首をかしげている。
意味がわからない、という点だけはユリシスも同じだった。
そんな、『どういうことだ』と暗に含むような視線を一手に受けながらも、ベンノはまるで気づいていないのかとでもいう風に自然体だった。おそらく、こんな反応をされることくらい想定済みだったのだろう
「そういうことになるな。考えてもみろ、なんで連中のことをただの獣ではなくて魔物なんて区別をするのか、とな」
「――それは」
「悪いが、おしゃべりはここまでだ」
今まで黙していたオロフの厳しい声が、二人の話を遮った。
気がつけば、深い深い白と緑の世界が目の前に広がっていた。いつしか雪に閉ざされていた地面にも緑や枯れ色が混じっており、見晴らしの良かった雪原は姿を変えていた。
ここからは、森の中を歩くのだ。
人間など餌にしか思っていないような、強大な魔物がうじゃうじゃといる森の中を。