19:二人旅
『ユリシス、朝だよ』
糊でくっつけてしまったくらいに別れを惜しむ瞼を開けば、木々に結んだ天幕の隙間から差し込む朝日が目に眩しい。
それを覆い隠すように、ふっと小さな影が降り立った。寝ぼけ眼に霞み、逆光に陰り、ぼんやりとしか浮かばない小さな影は――
「……ユリシス?」
「……おはよう」
肩を揺さぶるようにこちらを覗き込んでいた、銀色の小さな頭が目に映る。涼しげな青い瞳に澄み渡る空を幻視した。
「……大丈夫?」
「……平気」
久しぶりに、夢を見た。
それも、見るべきではなかった夢だ。
じっと、こちらを覗き込んでいる顔を見つめる。不思議そうに首を傾げ、いつもは半分しか開いていないのではないかと思っていた目が少し大きく見えた。
声も、姿も違う。
大丈夫、間違えなんてしない。してはいけない。
――わかってはいる。わかってはいるんだ。
「……ほんとに大丈夫?」
「うん。少し、夢見が悪かっただけだよ」
見るべきではないほどに、〝幸せな夢〟だった。
***
用を果たし水辺を離れ、下りてきた斜面との境界線ともとれる森の際を二人は歩く。
足取りはどこか重い。
積もった雪に足がとられているわけではない。寒さに体が動かないのでもない。飢えて力が入らないのともまた違う。
言葉にはしない、態度には表さない。しかし隠し切れない重苦しさが、目の前を歩く少年の背中から漂っていた。
しんしんと穏やかに積もりゆく雪が、静かな、それでいて押し潰されるような寂しさを表しているようだった。
近頃はずっとこの調子だ。
初めの頃との差異を、ユリシスの雰囲気の変化を敏感に捉えていたシュルヴィは戸惑いを隠すように首に巻いた襟巻を浅く握った。
彼の様子がおかしくなったのはいつからだったか。そう何度も思い返してみても、それらしい切っ掛けは見当たらない。
まだ出会ってからそれほど日数も経っていない。もともとこんな雰囲気なのだと言われても信じてしまうくらいには付き合いが浅いのだから、仕方のないことでもあった。
――そういえば。
切っ掛けは見当たらない。しかしそれが自身の意識外で起こったのならどうだろうか。
見返していた光景を一度手放し、新たに記憶を手繰り寄せると思い当たることが一つだけ。
それはこれまで重く捉えていないもので、頭に浮かんだ後にすぐに隅に追いやってしまったものだった。
しかしそれくらいしかもう理由が見当たらず、シュルヴィは手当たり次第な心持ちで思考へと身を落とした。
彼は夢見が悪かったと言っていた。
数日前の朝のことだ。
水辺での足踏みを終え、寒さと魔物の脅威に備え今できる万全を尽くして、またウィルクマンの街を目指して歩き始めた頃。いつもは自身より先に起きているはずのユリシスが珍しくまだ眠っていた。
起こしてあげようと、役に立とうと、少しだけ舞い上がっていたのを覚えている。
そして、
――涙、だったのかな。
彼の目元が薄っすらと湿っていたのもまた覚えていた。
寝顔は穏やかなもので、魘されているようにも、寝苦しそうにも見えなかった。だから、そのこともすぐに忘れてしまったのだけれど。
後を引くほどに、余程酷い夢だったのだろうか。
――私なら、あの日のことを夢に見たら。
家族と、村の人たちと別れることになったあの日のことを夢に見たら、今の彼と同じように気落ちするのだろう。
何もかもを無くしてしまった、あの底抜けの喪失感を再び味わされてしまったら。前を向いていた足も否応なしに後ろに引きずられてしまう。
なら、彼もそんな夢を見たのだろうか。
そもそもどうして彼が一人こんな山奥を彷徨っているのか、それをシュルヴィは知らない。しかし理由は察することができていた。
死と隣り合わせの雪山にいることも、一人でいることも。
そして、帰ろうとしない理由も。
自分と同じで、一人ぼっちになってしまったのだ。
今までが気丈に振る舞っていただけなのかもしれない。〝私〟というより弱いものがいたから、弱いところを見せなかっただけなのかもしれない。
どんな理由にせよ、彼も辛いことがあるはずなのだ。なら、貰った分だけ返してあげたい。支えてあげたい――支え合いたい。
さらりと自身の欲望が混じったことに浅ましいと思ってしまう。けれども、継ぎ接ぎだらけの心を保つためには大事なことだ。
それがわかっているから、自己への嫌悪も飲み下せる。
一人は嫌だ。二人がいい。
自分と同じ〝一人ぼっち〟の彼にとっても、そのはずだから。
失いたくないから、何かをしたかった。
でも、それだけじゃなくなった。いや、あまり変わっていないかもしれない。
支え合いたいから、何かをしたい。
――でも、私に何ができるんだろう。
狩りもできない。
魔物に立ち向かうこともできない。
外の世界で生き抜く知識もないし、むしろ教えられる一方だった。
できることといえば畑仕事と台所仕事と、裁縫くらい。ちょっと背伸びをして字も覚えた。しかし食材も器具もなければ食事なんて保存食が主だし、裁縫だって針の一本すらない。歩いて回ってるのだから、畑なんて以ての外だし、読むべき書物もどこにもない。
改めて挙げてみると酷いものだった。まるで役立たずじゃないか。そう肩を落としてしまう。
二人の間を漂う重苦しい空気が少し濃くなった気がした。
――なら。
それがすべてではないとわかってはいるが、彼は人恋しいと言ったのだ。
――なら、寄り添ってあげるのがいいのかな。
「――シュルヴィ?」
深く沈み込んでいた思考は、前を歩いていたはずのユリシスの声に引き上げられた。
気付けば目の前に彼の顔があった。
無愛想で、しかしほんのりと優しさを滲ませる顔。そして、暗い何かを秘めた悲しい瞳。
いつもは凪のように穏やかな琥珀が、怪訝そうに静かに揺れていた。
「ど、どうしたの?」
「ここからまた道が変わるから、一応注意しておこうと思って」
若干怪訝そうに。しかし深くは踏み入らず。
地図を広げながらユリシスはそう言った。
少し前まで地図の存在すら知らなかったユリシスであったが、扱いを覚えてしまえば使いこなすのも早かった。
シュルヴィとしては役割が減ってしまったことを内心で嘆いたが、野外での知識も技術も彼には劣る。そのことを理解していたが故、おとなしく彼に任せている。
何から何まで頼りっぱなしだ。
改めて自覚したばかりだからか、いつもの無力感に代わって焦燥感ばかりを含んだ視線で彼を見ていた。
このままだと駄目だとは思っているものの、こんな雪山では自分に出来ることが少なすぎた。そのせいで気持ちばかりが逸ってしまう。
助けてもらった恩を返したい、彼の負担を無くしてあげたいという純粋な気持ち。
面倒を見られるだけの足手まといではないのだと、今度こそ誰かの役に立ちたいという自分本位な気持ち。
そのどちらもが競い合いでもするようにいつも表に出たがっている。
出しゃばって邪魔になるわけにもいかない、そう自制心が働いて何とか今を保っていた。
ため息の一つでも吐きたかった。
それを誤魔化すように、意識を頭の中ではなく外へと向けてみれば、足を向けた先はこれまでのような白と緑の境界線ではなく、踏み外せば転げ落ちてしまいそうな――もはや崖にも等しいほどの急傾斜になっていた。
傾きは以前下りてきた岩棚のものとは比較にもならず、斜面には辛うじて疎らに天を衝く針葉樹が散見される程度。また、ごつごつとした岩が飛び出すことで起伏が多い。
長く続いているせいか底まで見通すことはできず、せりあがってくる風が迷い込んだものを引きずり落とす怪物のように呻いている。
ぶるり、そう身震いをするのも自然なことだ。
「あっちは多分、崩れやすいんだと思う。だからまた元の道――あの崖沿いに戻ろうかと思う」
同じ深みを覗いているというのに、まるで動じることなくユリシスは指をさしながら話を続ける。
「そうなるとここから身を隠せるところも減っちゃうし、途中で休めたりもしなくなる。……森の中にはそんなに魔物はいなかったけど、あっちはニーウェルム――あの白いトカゲも結構見ると思う。それでも、大丈夫?」
正直なところ、怖い。
ニーウェルムという魔物も、そして今自分が首に巻いている尻尾の主も。まだまだいるのだろう、別の魔物も。
それでも頷く。
自分のわがままで迷惑は掛けたくなかったから。
そんな弱々しい覚悟を固める。
それでも。覚悟していても、意識していても、顔が強張るのは避けられない。
「まあ、それも隣の山に着くまでだけどね。あっちについたら、また森の中を歩こう」
それをどう捉えたのか。彼の心情を正確に図ることはできなかったが、間違いなくこちらを案じてのことだろう。口調を緩め、不安を取り払うように小さく笑みすら浮かべて自身に語りかけてくれた。
優しい人だ。
強い人だ。
そう思わずにいられない。
だからこそ、翳りを取り払ってあげたい。
そう、強く思えるのだ。
***
それから何日も歩いた。歩き通した。
山を越え、谷を越え。
夜の寒さに震え。吹雪が起これば雪洞でやり過ごし。霧が深い日にも引きこもり。訪れた朝の陽ざしをありがたがって。
ぬくもりを分け合おうと肩を寄せてもくっつくなと叱られて。けれども凍えそうな寒い日には一緒に毛布に包まって。
遭遇するのも小型の魔物――それでも充分以上に恐ろしいのだが――ばかりで、余裕をもってユリシスが追い払ってくれる。時には仕留め、その日の食料の足しにもした。
食料といえば、保存食が尽きぬようにと時折森に留まり、ついでに自分も狩りを教わった。
相変わらず頼ってばかりではあったけれども、少しずつできることも増えていった。いつまでたっても仕事を任せてくれないユリシスに先立って動くこともできるようになった。
決して楽な道中ではなかった。
それでも、辛いことばかりではなかった。
寂しさも自然と忘れていった。
時には充足感すらも覚えていた。
平穏とは程遠い世界で、しかし優しい時間を過ごせていたと思う。
そしてあと僅かでこの険しい山脈を抜けられる。遠目には外壁に囲まれた大きな街が、しかし小さく見える所まで来た。
あとはこの山を下るだけ。この森を抜けるだけ。広い雪原を駆けるだけ。
そんな、もうあと一歩というところまで来ることができた。
もう二、三日も歩けば辿り着ける。それがわかると喜びを隠せず、思わずユリシスに抱き着いてしまった。
やっと終わる。
やっと彼を休ませてあげることができる。
やっと今以上に彼の役に立てる。
そう胸を期待に弾ませながら、一歩を踏み出した。
このまま順調に行くと思っていた。
行くはずだった。そのはずだった。
それなのに。
どうして世界はこうも残酷なのだろうか。