18:本当の強さ
「ユリシス、私はどうしたらいい?」
「そうだなあ。焚火に使えそうな小枝を集めていて貰えるか? ああ、危ないから遠くまではいかなくていいから」
「わかった」
えらく張り切った様子のシュルヴィを見送って、ユリシスは毛皮やら蛇皮やらを並べていく。
未処理のものに限らず、肉を削いで乾かしただけのものを含めると結構な量になる。これらすべてを使える形に仕上げるとなると、また時間がかかりそうだ。
日はまだ天頂にも届いていない。昨日とは違い空には薄く雲が掛かっていることがやや気がかりではあったが、時間的にはまだまだ余裕がある。
朝早くに出発してから暫く。求めていた水場をあっさりと見つけ、早々に野営の準備も終えた。数日はここに滞在することになるだろうと踏み、少々手の込んだ寝床は雪にも風にもある程度耐えるはずだ。
木立の中で隣に凭れ掛かるように倒れた木とそれを受け止める三又の巨木。強度にも信頼がおけると判断し、倒木を棟木代わりに三角状に天幕を張っていた。
いつかの沢辺のように岩陰でもあればよかったのだが、今回は池だ。そう都合よく岩壁などなく、布の屋根で凌がなければならないのだけは少々心許ない。
先日丈も幅もある布を回収できていたのはありがたかったが、それでも布は布だ。強風でも吹かなければ吹き飛ぼされるようなことはないだろうが、雪の重みや染み込みに耐えるだろうか。
布の天幕の上にも緑の天井があるためそこまでの負担にはならないだろうが、やはり日には翳ってほしくない。
「まずは、こっちからかな」
不確定要素を過度に恐れても仕方ないと、頭を振って不安を散らす。いざとなれば雪洞でも掘って籠るしかない。場所の目星もつけているし問題ないだろう。
心配ならば一日でも早く用事を済ませるべきだと、しゃがみこんだ池の前でいよいよ作業に取り掛かる。
洗えばいいだけのものを優先的に。前処理ができていないものは後回しだ。肉削ぎは日が落ちてからでもできる。
「冷たっ……」
水洗いのために池の中に手を突っ込めば、冷たさが刺すように肌に沁みる。寝床の心配だけでなく体の心配も必要そうだ。
薪の無駄遣いはあまりしたくないのだが、火でも熾こさなければ指が駄目になってしまうかもしれない。
「……仕方ないか」
幸い周囲は林だ。枯れ枝や枯れ葉が足りなくなっても少々木々から拝借すればいいだけである。
「……これでよし」
火を熾してからはあとは黙々と皮の裏側を手洗いしていく。水ではやはり限界があり、ある程度ぬめりの落ちたくらいのものから順に手近な木の枝に引っ掛けて風に曝す。
地面に届きそうなほどに長いものは半ばで断ち切って。
一段落つく頃には日も天辺を幾分過ぎていた。
「先にやっておくか?」
前処理の済んでいたものはすべて片付け、残りは肉を削ぐ裏すきの必要があるものだけだ。
その中でユリシスが手に取ったのは大量のトカゲ皮の中に紛れる異色の毛皮。
空気を溜め込んだかのように膨れ、艶やかに陽光を映す柔らかな毛並み。手触りもよく、耐寒性にも防護性にも優れるであろう豊かな毛量。
腰に届きそうなほどに長さのある毛の塊はファルレムスの尻尾だった。
この尻尾はシュルヴィに襟巻として使ってもらうつもりだった。ファルレムスの尾ならば寒さだけでなく急所である首も守ってくれるだろう。そう考えてのことだ。
魔物と遭遇した際に矢面に立つ自身だけでなく、万が一のためにと彼女にも守りは固めさせるつもりでいた。
しかし胴や腕は自身同様ニーウェルムの蛇鱗でも巻いておけばいいのだが、首ばかりはそうもいかない。急所であるため対策は必須ではあるが、まさか首にトカゲ皮を巻けとは中々に言いづらいものがある。
それを考えれば、尻尾だけでも剥いできたのは我ながら名案だったとユリシスは僅かに相好を崩した。
ある程度水は弾くだろうが、それでもトカゲ皮よりはよっぽど水気を飛ばすまで時間がかかるだろう。この長さを考えれば尚更だ。
ならばやはり早いほうがいいと、ナイフを取り出し慎重に刃を通す。
尻尾の処理は中々に面倒だ。骨を抜き取り、胴の毛皮同様に肉を削ぐのだがここでも長さが問題になる。刃が奥まで届かないのだ。
さすがに尻尾の形を保つのは難しく、皮部分を縦に裂く必要がありそうだった。
「……薪、これだけあればいい?」
尻尾の処理に悪戦苦闘していると、抱きかかえるほどの量の枝を持ってシュルヴィが顔を見せた。
抱えた細枝は樹皮がえらく濡れている。わざわざ雪の下から引っ張り出してまで集めただろうことが容易に想像できた。
「……ああ。ありがとう」
「……ううん。これくらいなら」
「ちょうど火を焚いてるから、当たりな。ついでにその枝も乾かそう」
そう言えば、シュルヴィはユリシスの隣にそっと腰を下ろす。
そして――
「こういうのは、しなくていいって」
積み上げられたニーウェルムの皮の一枚を恐る恐るといった具合でつまみ上げた。
どうも手伝うつもりらしい。
ユリシスとしては彼女にはあまり魔物と関わってほしくなかった。たとえそれが死骸であったとしても。
思い込みよりもひどい、〝穢れが溜まる〟とでも言おうか、〝死に近づく〟とでも言おうか。そんなトラウマ染みた理由からなのだが。
それに魔物の死骸だからなのか、それとも単純に気味が悪いのか、ニーウェルムの皮を掴む彼女はどう見ても及び腰だ。
「……でも、終わらないよ?」
そんな有様で言われても、そう口にも出したくなるが、早く済ませたいのも本当だ。
それに枝拾いが終わってしまえば彼女にできることもない。木の実も野草もない時期なのだ。いつかのように山兎でも捕まえるために罠を仕掛けるのも知識と技術がいる。
「……解体とかなめしとか、したことある?」
できることならじっとしていて欲しい。ただ待っているだけでいてほしい。そんな懇願、しかし傲慢な考えをぐっと堪え、渋々といった口調でユリシスが問えば彼女はふるふると首を横に振る。
「……台所仕事はしてたから、その、それくらい」
自信なさげに、それこそ恥じるように言葉は尻すぼみになるがユリシスとしては妥当なところだろうと考えていた。
この年頃ならば他には農作業や牧畜、裁縫、珍しいところで粉挽きといったところか。
「やっぱり……駄目かな」
「いや、駄目ってわけじゃないけど……」
「なら、手伝う」
一晩休んだからだろうか。昨夜と違っていやに押しが強い。おとなしく、そして儚げな少女という印象が強かったのだが、案外強かなのかもしれない。ユリシスはそう思い始めていた。
「……なら、皮に残った肉とか脂とかを落としていって。あんまり深く削ると皮も痛むから、そこは慎重に」
「わかった」
「洗うのは後でいいから、とりあえずそれだけお願い」
手本くらいは見せるべきだろう、そう考えて毛皮を一旦わきに置き、適当にトカゲ皮を引っ張ってくる。
「こう、木とか滑らかな石なんかに押しつけて――――あまり削ぎすぎないように、鱗が透けてこないくらいに――――」
注意を交えながら実演してみせると、シュルヴィはユリシスの持つ知識も技術も全部飲み込もうと食い入るように見つめ、時折ふんふんと頷いている。
真剣さの中に愛嬌があって、それがどうにも嬉しかった。これまで悲しそうな顔ばかり見ていたからだろか。
乗り気ではなかったというのについ指導にも熱が入ってしまう。初めての経験でもあったが、ユリシスがかつて教えられたように、そして自身が苦労した部分も取り上げて、できる限りには手ほどきしたつもりだ。
指導を終えると、ユリシスは彼女の掴んでいたトカゲ皮を小さく切り分けた。初めから人の背丈もありそうな大きさに挑むのは無茶だろうとの考えからだ。勿論、失敗した時のためでもある。そう簡単に入手できるものでもない。言っては何だが、練習台として無駄にはしたくないのだ。
切り分けた一つを与え、実際に彼女一人で試させて見る。すると案の定厚さが不均一で、一部は皮が破け鱗もプラプラとぶら下がっただけのものが出来上がった。
「……ごめんなさい」
「最初はそんなもんさ」
はははと笑いながら、本心からそう告げる。
自分も昔はこんな感じだったと思い出しながら。
生きるか死ぬかの環境であることに何も変わりないはずなのに、ユリシスは場違いにも楽しさと――そしてどこか懐かしさを覚えていた。
***
「今日はこのくらいにしよう」
日が落ち始め、空気も随分と冷え込んできた。
裏すきと水洗い、その両方を切り上げて立ち上がる。随分と長いこと座り込んでいたためか、体が凝り固まっていて仕方ない。
伸びをすればぱきりぱきりと小気味よく骨が鳴った。
「残りは?」
「持ってく。明日でもいいけど、まあ暇なら夕食の後に続けてもいいし」
「わかった」
トカゲ皮を抱えて背を向けた彼女を見送って、ユリシスは干していた皮を痛まないように、しかし風で飛ばないように改めて縛り付ける。
手触りは、あまりよくない。
「まあ、凍るよな」
こればかりはどうしようもない。
「そういえば」
まとった毛皮の外套を捲る。そこにあるのは鋭い爪痕が刻まれ、ところどころ鱗も剥げ落ちた白いトカゲ皮があった。
身に着けている分を、忘れていた。
「……後でいいか」
もし夜中に魔物の襲撃があったとして。その時にこれを身に着けているかいないかは大きな差となる。
ここにいるのはたったの二人。それもシュルヴィに見張りを任せるわけにもいかないし、自分も休まなければならない。
それらを考えると、生臭さの残ったそれを脱ぐ気にはならなかった。
最悪捨てて行ってもいい。
随分痛んでいるようだし、それに新しく大量に手に入った。この機に取り換えてもいいだろう。
***
天幕の中焚火を囲めば、外で火を焚くよりよっぽど体が温まる。隙間風こそ冷たいが、熱が留まって芯にまで火が届く。
昨夜よりもよっぽど上等で、先ほどまでの野晒とも違う。久方ぶりに感じる温かさがそこにはあった。
だからだろうか。昨日から何度目かの彼女の問いかけも随分険が取れ、柔らかなものになっていた。心の内を、曝け出すかのように。
「ユリシスはさ、どうして私に優しくしてくれるの?」
穏やかな心持だったのは、ユリシスとて同じだった。しかし耳に届き、頭の中で咀嚼した言葉は彼の心に再び寒風を吹かせるのに充分以上の力があった。
緩み始めていた瞼をしばたかせ、そして力なく閉じられた。
「……人恋しいだけだよ」
「……そっか。私と同じだね」
絞りだされた言葉は本心には違いなかった。
だが、それがすべてではないことを心の奥底では理解していた。
別の理由があることを、その比重が無視できないほどに大きいことを、理解していた。
「……私さ、一人になっちゃったんだ」
ユリシスが瞑目していると、シュルヴィはぽつりぽつりと心中を吐露し始めた。
静かに、ゆっくりと――噛み締めるように。
「だから、すごく寂しい。これからずっと、寂しいままなんだ」
母と、おそらく父も。そして帰るべき家も無くなった。悲惨と言って相違ない。どこかの誰かと似たような境遇だ。
「……でもさ、それも仕方ないって、思ってる。私は何もできなかったから……お母さんの腕の中で、震えてることしかできなかったから」
耳に届く声は、いつの間にか悲しみだけでなく震えを伴っていた。涙ぐむように、一言一言を噛みしめるように。
「……怪我をしていたのだってお母さんのほうだったのに。守ってあげることも、励ましてあげることもできなかったんだ」
シュルヴィの独白は、深い後悔を滲ませたものだった。
何か、言葉を投げかけたい。励ましをしなければならない。そう胸の奥は落ち着きをなくし、逸る気持ちだけが催促するように言葉を探す。
「……そんなの、仕方ないさ。魔物を見たのだって初めてだったんだろ?」
口をついてから、これはきっと彼女には何の意味もない言葉なんだろう、そう漠然とした意識が自分を苛んだ。
何せ、自分がそうだからだ。自分はそんな慰めは求めていないからだ。
しかし、「うん」と小さく頷くのを、暗闇を見つめたままのユリシスは衣擦れの音で感じとった。
「――だからさ、嬉しかったんだ。まだ私に優しくしてくれる人がいる。手を差し伸べてくれた人がいる。そのことがどうしても嬉しかったんだ」
暫くの沈黙を挟んで再び言葉は紡がれる。
後悔は決して消えていないだろう。
言葉にすることで、誰かに打ち明けることで、より深く刻み込まれてすらいるかもしれない。
それなのに、震えは収まり、消え入りそうなほどかぼそかった声には強い芯が見え始めていた。
彼女は、前を向いていた。
――ああ、やめてくれ。
それは喜ばしいことだ。諸手を挙げて受け入れるべきことだ。
それでも聞きたくない。耳を塞ぎたい。
何一つ前に進めていない自分をより浮き彫りにさせられてしまう。
過去に囚われたままの自分を思い知らされれてしまう。
「でも、怖くもあった。頼ってばかりだったら、また失っちゃう気がして。また私だけが取り残されちゃう気がして」
青い瞳が。澄んだ瞳が。意思のこもった瞳が。
自分を捉えている気がした。
「だから、私にも、私にできることがあったら、何でも言ってね……?」
何が、強いだ。
強いのは、彼女のほうだ。
「……うん。わかった」
その日はもう、目を開けることもできなかった。