17:強さの在処
木の葉が舞う音すら聞き逃さないほど鋭敏になった神経が、しまり雪を突き崩す僅かな物音を捉えた。
音の主が何であれ、山の生き物すべてが敵だ。そう断じれる程に己ら人間の弱さを自覚していたユリシスは、後ろを歩く少女を片手で制した。視線は音のほうへ向けたまま。手ぶりだけで静かにするようにと伝えると、その場に二人でしゃがみ込む。
山頂付近から幾分高度を落とし、身を切るような冷たい風から身を隠せる程度には木々が林立する地帯に入り込んでいたため、視線を切るのも難しくはない。
鼻をくすぐりそうな位置にある常緑低木の葉をそっと手でよける。青く茂る木々の向こうへと睨みを利かせれば、独特のリズムでもって地を踏みしめる一匹の魔物が目に入った。
「……っ!」
音もない悲鳴は、キュッと袖をつかまれたことで気が付いた。
その感触に思わず『大丈夫』、そう声を掛けたくなってしまう。いつかの小さな手を思い出してしまう。
――違う。彼女じゃない。
そう頭で否定してみても、あまり効果はない。喉から出かかったものは辛うじて抑えられ、代わりにと体に沸々と熱いものがこみ上げてくる。己を鼓舞してくれるだろう、力を与えてくれるだろうものだ。しかし、同時に冷静さと、そして忘れてはいけない大事なものが薄れてしまう、恐ろしいものでもあった。
気を取られるべきではない思考を何とか切り替え、眼前へと、警戒すべき敵へと集中する。
魔物を見て怖がるな、なんてことはそうそう言うことはできないだろう。人間を容易く屠る恐ろしい力を持っている生き物というだけで恐怖を抱くのに値するのだが、それだけではなく魔物というのはどうにも見た目が異形と言って差し支えないものが多いのだ。
草木をかき分け、白い絨毯の上を我が物顔で歩くのは一見すると長毛を靡かせた六足の生き物。ずんぐりとした体つきで、若い熊のようにも見えるそれは長く尖った鼻をふんふんと頻りに鳴らしている。
しかし何より目を引き、そして熊とは決定的に異なるのは、眼窩に収まらずに飛び出したギョロ目、その下あたりから伸びた二本の腕のような何か――触腕だろう。
それらを鞭のようにしならせ地を叩く姿は気が狂ってしまったように見えて仕方ない。
デメンコラと呼ばれる冬の魔物だ。
あの一見狂ってしまったような行為も雪の下に埋もれた生き物を探す、あるいは叩き起こすというれっきとした狩りであり、振るわれた触腕は打ちどころ次第では一撃で獲物を昏倒させられるほどらしい。
頻りに鼻を鳴らし、雪を叩いていたデメンコラは急に立ち止まり、丸みのある小さな耳をピンと逆立てた。
――気づかれたか。
気が触れたかのような怪しさを孕んだ瞳は無作為に周囲をぐるぐると見回すのをやめ、じっと一点へと注がれた。
このまま隠れていてもやり過ごすことはできない。それを、瞬時に悟った。
ぐるりと、体に比してやや長く、そして逞しい首がこちらへと向けられる。だらんとしな垂れた触腕がざりざりと雪を削る。
もはや冬山でしのぎを削る生き物たちと肩を並べられるほどに場数を踏んできたユリシスは、すっと目を細め、いつでも戦闘に移行できるようにと構えを作った。
体のつくりから切り替わるように炉に火が灯され、腰裏に吊り下げられた斧の柄を握る。
「……ここでじっとしてて。ああ、危なくなったら静かに離れるんだよ」
答えは聞かず。
意識を尖らせゆくばかりの心は戸惑いを多分に含んだか細い声にも、震えを隠せない頷きにも割かれない。
そして、アギャウ、アギャウと天へと向かう不気味な吠え声を合図に、ユリシスは茂みをかき分け飛び出した。
雄叫びこそ上げないが、斧を腰だめに構え、真正面からデメンコラへと駆け寄る。
しかしそれを迎え撃つのはリーチに優れた魔物だ。長い触腕を右へ左へと、近寄らせまいと首ごと振り回す。
それに当たるわけにはいかないと、ユリシスは正面突破は諦めて側面から横腹を叩くことにした。
しかし、あれほど頭を振り乱していてもデメンコラは正確にこちらの位置を、動きを把握しているようで、鞭の追跡を振り切れない。
忙しなく動くギョロ目がユリシスを捉えて離さないのだ。
「ちっ」
隠すことなく舌打ちをし、駆け回りながらもギョロ目へと睨みを飛ばす。
眼窩に収まらず、可動域を大きく広げた目は激しい頭の動きに対応しているようだ。これでは死角を狙うのは難しい。
なら。
「突っ込むだけだっ!」
頭ごと振り回す姿を見た限り、平時でもなければ触腕は自在に動かせるというわけではないらしい。首を右に振るえば右方の草木が薙ぎ払われ、左に振るえば左方に積もった雪塊を跳ね上げる。
そして一度避けるか防ぐかに成功すれば無防備な首筋を晒す。
勿論、懐に入り込めば頭突きでも体当たりでも、爪だって振るわれるだろう。しかしそんな見慣れた動きは対処も容易い。
ユリシスは今度こそ雄叫びをあげてデメンコラへと正面から突撃した。
中型と言っていい、ユリシスの倍もありそうな魔物相手にこれほど大胆な動きをするのにもわけがある。
相手の意識を守るべきもの――シュルヴィへと向けさせない為だ。
不意を打てたわけでもないのに飛び出したのも、向こうに先手を打たせれば彼女を危険にさらすため。
目立つ動きをするのもデメンコラの視線を己に釘付けにするため。
意図したものではなかったが、血の臭いをより濃くまとっているのも功を奏した。
初めて見る魔物。
シルワトローやファルレムスとは比べ物にならないほど大きな魔物。
そんな化け物相手に飛び込むことに恐れがないわけはない。
しかし。
ユリシスの胸に広がるのは恐怖よりももっと強い感情だった。後ろ向きで、体を委縮させるような感情はすべてそれに塗り潰される。
ある種危険な高揚感。
これは自分だけが生き残るためではない、誰かを守るための戦いなのだ。
ずっと求めていた、贖罪の術。
獰猛な笑みすら貼り付けて、小さな弱者は己が爪を振るった。
***
「いつっ」
ぱちりぱちりと火の粉を散らす焚火を前に腰を下ろして、ユリシスは痛む腕をさすった。
腕あても何もかもを外して袖をまくると、赤く腫れあがった肌が目に入る。内出血も起こしているようで、見ているだけで痛みがぶり返してきそうだ。
腕だけじゃなく、体中あちこちに生傷がある。治りかけの肩の裂傷をはじめ、噛み痕、浅いひっかき傷、そして今回の打撲痕。
改めて眺めるまでもなく体はボロボロだ。
それでも致命に至るものが一つとしてないのは慣れと、そして毛皮の外套や巻きつけた蛇鱗のおかげだろう。人間のやわな肌を覆い隠し、鋭い一刺しも重い一撃も和らげてくれる。
中身が脆いせいで傷は増える一方ではあったが。
「あいつ、やたらめったらに叩きやがって」
デメンコラを何とか退けたユリシスらは、木々の密集地帯をひとまずの寝床として暖をとっていた。
日もすっかり落ち、昼間にうろつく生き物も鳴りを潜めている。木に引っ掛けて作った天幕から漏れる光だけが生命を醸す。それほど静まり返った夜だった。
ぶつぶつと文句を零しながらユリシスは背嚢から薬瓶を取り出した。幸い割れずに残っており、洞窟を抜けてからもずっとお世話になっている。
蓋を開けるとツンと辛苦いような臭いが鼻をつく。この臭いはいまだに苦手だが、子供の頃から慣れ親しんだ臭いでもあった。
切り傷にも打撲にもよく効くそれを指で掬おうとして、
「わ、私がやる」
横から伸びた白い手が半ば奪い取るようにして瓶をひっつかんだ。
「そ、そう?」
いつの間にか隣に腰を下ろしていたシュルヴィへと問いかける。どことなく鬼気迫るような雰囲気を醸し出した彼女に気圧され、思わず薬瓶を渡してしまった。
「傷はほら、清潔な手で触らないといけないって言うから……」
言い訳じみた口調に気付くことなく、ユリシスは自らの手へと目を落とした。手袋をしていたはずなのに、変色した血や諸々がこびり付いた肌は彼女の手と比べると随分汚らしい。
――そういえば、ニーウェルムの口にも突っ込んだっけ。
思い返せば、血を浴びたり、肉を裂いたり、毛皮を剥いだりと散々汚していた。
水場もなければ、洗い流すほどに水袋に余裕があるわけでもない。
「じゃあ、頼もうかな」
素直に任せることにすると、初めて彼女が笑みを浮かべた気がした。
***
「……あの、何をしてるの?」
慎ましい食事も終え、今日はもう寝るばかり、そんな夜闇がより深さを増した頃のことだ。
毛皮を下に敷き、薄い毛布に身を包んだシュルヴィが疑問を口にする。
訝しげに見つめた先はユリシスの手元、ナイフと、そしてニーウェルムの皮があった。
「ん、ああ。皮に残った肉を剥いでるんだ。そうでもしないとすぐ腐っちゃうから」
ニーウェルムの皮は動物のそれとは違って出血も少なく、きれいに剥ぎ取れていた。それでもどうしても血肉はこびりついているため裏すきをする必要がある。
いくら気温が低いとはいえ放っておけばそのうちカビも生えるだろう。そうなれば鱗はともかく皮のほうの強度が下がってしまう。
「本当は水洗いとかもしたいんだけど」
そう小さく続けても、彼女の関心はそこには向かず、いつの間にか視線も手元から離れていた。
「それ、魔物の皮……ですよね」
「……そうだよ」
ナイフを動かしていた手がピクリと小さく跳ねた。
軽率だったか。そう気まずさを覚えて言葉がつっかえる。そういえば、この子はファルレムスの群れだけでなくニーウェルムにも襲われたんだったか、と。
「……手伝います」
しかしその心配は杞憂だったようで、シュルヴィは大量に残った皮へと手を伸ばした。
魔物の死骸なんて普通に見れば気味が悪いはずだ。それなのに何の躊躇もない。その行動力に少し面食らうも、ユリシスは畳むように積み上げられた皮をさっとよける。
「いいから、休んでなよ」
「でも……私だって、教えて貰えさえすればそれくらい」
「そういうことじゃなくてさ」
確かに色々と――それこそ一人でも生きていけるよう最低限のことは教えていくつもりではあった。しかしそこに魔物が絡んだものは含まれていない。教えるならば逃げ方や、そもそも遭遇しないような方法を教えるつもりだ。
それに何より、今日は彼女にとって『辛い』という一言では到底言い表せないほどの一日だったはずだ。それを考えるなら少しでも早く、少しでも長く休むべきだとユリシスは考えていた。
「明日も、明後日も。これからずっと歩き続けるんだから体は休めておきな。途中でばてられるほうが困る」
場所によっては安易に休憩も取れないし、おぶって歩くのも装備的に難しい。
そう考えてのことだったのだが、彼女の顔が目に見えて曇る。
「その、ごめんなさい……」
「あ、いや……」
伸ばされた小さな手は空を甘く握って、力なく引っ込んだ。
言い方が悪かったかとまたしても罪悪感が沸き上がる。
どうにも接し方がわからない。そのことがユリシスの悩みの種になりつつあった。
気まずさの中、逃げるようにユリシスはまた作業に戻る。そこから暫く、無言の時間が続いた。
「……ユリシスはさ」
ふっと、顔だけを上げる。
毛布にくるまるように膝を抱えた少女が、またしても静かにこちらを見つめていた。しかし澄んでいるはずの瞳には先ほどより憂いの色が濃い。
「……ユリシスは、魔物のことが怖くないの?」
どうなんだろうか。
多分、怖くないわけではない。
しかし恐怖に精神が縛り付けられ、体が竦んでしまう。そういうことはなくなった。慣れたのだ。
怯えてなんていられない。
いちいち相手を怖がっていたらその隙に鋭い牙が、爪が、自分の喉を食い破ってしまうだろう、切り裂いてしまうだろう。それがわかっているから。そんな状態に幾度も陥ってしまったから。
そして、どう足掻いても絶対に届かない、そんな圧倒的な強者を目の当たりにしてしまったから。
感覚が麻痺してしまったのだと、そうユリシスは自己解釈していた。
「怖いよ、そりゃ」
それに、倒せると知ってしまったから。
「恐ろしい連中だって大人から聞いてたし、相手にしてはいけないとも教えられてた。でもあいつらもさ、不死身の化け物なんかじゃない。血を流せば死ぬ。喉とか、心臓とかを潰せば死ぬ。同じ生き物なんだって知ったから、殺せない相手じゃないって知ったからさ」
それがどれだけ難しいことか、どれだけ自分の命を危険に晒すか。それがわからないほど馬鹿ではない。
それでも。
「こっちが死なないために、生きるために、逃げるだけじゃなくて勝ってやろう、倒してやろうって思えるようになっただけだよ」
愚かではあるのかもしれない。
「……強いんだね」
「強くなんかないさ」
それを否定するように、彼女は小さく首を振った。
「だって、私は、私は……」
きゅっと、毛布を口元まで引き上げた。
「もう、寝な」
きっと、頭の中では様々なことが渦巻いているのだろう。言葉にまとめることすらできない感情が沸き上がるのを止められないのだろう。
こういう時は際限なく沈んでいく。そのことは身をもって知っている。
――没頭できる何かがあればいいんだろうけど。
手に持ったものへ目を落とす。そこにあるのは彼女をどん底へと落とした元凶だ。これを任せるのは、どうなのだろうか。
――いや、今は休むべきだ。
寝ても忘れることなんて到底できない。それでも、頭の中は整理される。疲れた頭よりよっぽど気持にも余裕ができる。
そのはずだから。
***
それにしても。
――強い、か。
自分が強くなったら。
恐怖を忘れるくらいに強くなったら。
魔物の脅威からもっと多くの人を救えるのだろうか。
――いや。
頭の中に浮かび上がった夢想は即座に打ち消された。
もし、完全に恐怖を忘れてしまったら。
その時もまた、自分が死ぬ時なのだとも思う。恐怖を忘れたら、傷つくことを恐れなくなったら。きっと無謀に挑み、無残に屍を晒すことになる。
恐怖を忘れたら自身より強大な相手にも一矢報いることもできるかもしれない。手負いの獣と似たようなものだ。
しかし、それは〝最期〟と決めた時だけでいい。
――でも、ちょっと危ないかな。
体一つか二つ分隣に座る少女をちらりと盗み見る。眠ったのか、それとも眠ろうとしているのか。強く目を瞑り、体を掻き抱くように小さく縮こまった姿が目に入る。
彼女の存在が、守るべきものの存在が、生きることよりも強い感情を齎してしまう。
恐怖が薄れてしまう。恐怖よりも強い感情が心を占めてしまう。
そのことに危機感を持つべきなのだろう。
一度改める必要があるのだろう。
それでも。
それを理解していても。
自分の命一つで彼女を守れるのなら――
――きっと、〝そっち〟を選んじゃうんだろうな。