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15:救いの手のひら



 渾身の力を込めて斧を振るう。鉈とは違った重量のある得物に若干振り回されながらも、ユリシスは器用に体を動かして最大の威力を発揮する形へと持っていく。


「うっ」


 しかしそれすらもあっさりと尾で受け止められ、強引に払われることでバランスを崩した。

 大振りだったからこそ、ユリシスは隙を晒した。

 降って湧いた仕留めるチャンス。しかし老獪な狩人はニタリとも笑わず、どこまでも冷静にその隙をついて、一息に近づくと爪を振るった。



 もともと爪よりも牙を用いるためか、彼の竜の剛爪とは比べものにならないほどに華奢な爪。しかしそれは比較対象がおかしいのだ。


 居並ぶ鋭爪はナイフのようにギラつき、人間の肌に薄く触れればそれだけでぱっくりと裂けそうな凶悪な刃物だ。


 そんなものをまともに受けてはたまらないと、ユリシスは後ろに転ぶようにして飛びのいた。


 間一髪、体すれすれに爪を避ける。


 否、僅かに届いたのか、胴に巻きつけた蛇鱗ががりがりと火花でもあげそうな勢いで削れていく。

 胸に衝撃こそ伝わるも、怪我を負うようなことはない。ニーウェルムへの威嚇にと身に着けていたものだが、これほど役立つものだとは。

 身をもって経験するのは不幸そのものだが、ユリシスは過去の自分に、そして打ち負かしたニーウェルムへと感謝した。



 尻の代わりに手をついて、勢い任せに立ち直す。危なっかしい着地を決めると、同時にどさり、と何かが地に落ちた。


 身は切らなかった。しかし、肩にかけていた背嚢の紐が千切れたようだ。

 重心の変化に一瞬戸惑うも、相手も攻撃の後だ。追撃には一拍を要するようで、その間に何とか体勢を立て直した。


「……軽くなった。ありがとよっ!」


 革袋の代わりに背に走った冷たいものを、軽口を叩くことでごまかした。


 それに苛ついたわけではないだろう、ウェトル・ファルレムスは小癪な獲物を追い立てるように吠え、連続で噛みつきを繰り出す。


 一歩、二歩、三歩と地に刻むように踏み込み、そのたびにガチリ、ガチリ、ガチリと金属でも打ち付けているかのように歯を鳴らす。


 あまりの機敏さにユリシスは避けるのも精一杯で、時には自ら吹き飛ばされるような形――斧を相手の胴にぶつけて、断ち切るのではなく押し出すように力を込めて――でなんとか凌ぎ切った。



――どうしたものか。


 一進一退の攻防。いや、こちらだけが一撃でも貰えば負けな分の悪すぎる勝負。


 逃げるというのが最善だ。今ならば囮を買って出てくれる人すらいる。

 しかし、そんな案は頭に浮かぶことすらなく、ユリシスはひたすらこの老獪な魔物を追い払うことだけを考えていた。


 どこか、弱点をつけるのならば一番だ。逆上して襲い掛かってくることさえなければ、これ以上は益を生まないと理解し退いていくだろう。

 しかしそれだけの痛手を与えられるといえば、目か、喉か、腹あたりか。喉は既に試したし、駄目だった。他と比べて毛皮が薄そうなものだが、それでも分厚い斧の刃すら通らないほどには頑丈なようだ。同様の理由で、おそらく腹部も駄目だろう。


 ならば目ならどうかと考えるも、こうも機敏に動かれては頭を捉えるのも難しい。


――また、〝乗る〟か?


――いや、尾で払われてお終いだ。


 浮かぶ案はどれもこれもが否定される。

 収めた知識の中にも、どう戦えばいいかなんて載っていない。『出くわさないようにしろ』、『見つけたら逃げろ』と。腕利きの冒険者や護衛すらも匙を投げていたくらいだ。



 最悪ナイフ一本で戦えたファルレムスが、年経ただけでこれだけ恐ろしい相手になるとは。

 ここまで生きながらえる個体も多くはないと言うが、それでも魔物という存在の理不尽さに嫌気が差して仕方がない。


 厄介なのは耐久力だ。

 いくら素早く、そして一つ一つの攻撃の殺傷力が高いとはいえ、その習性はただのファルレムスと大差ない。一度相対したからこそ、予備動作から何とか行動を読むことができていた。

 しかしこちらの攻撃が通らないのであればどうしようもない。折角の斧も分厚く硬い毛皮に阻まれて半ば打撃武器と化している。


 せめて毛皮の鎧を貫けるような、そんな得物があればいいのだが。



 ウェトル・ファルレムスとの死闘に極限まで集中していたのだろう、そこまで考えて初めて〝向こう〟の様子へと意識が向いた。


 横目で捉えた視線の先では、名も知らない男がファルレムスを近寄らせないようツルハシを振り回している。

 やはり怪我が響いているのか、動きは鈍くたった二匹相手でも厳しそうだ。二匹はどちらも手傷すら負っておらず、反撃を受けるのも時間の問題と思われた。


 ツルハシならもしや。そう考えたのだが、彼の助力は望めそうにない。それどころか早いところケリをつけなければ彼も危うい。


「突き刺すなら、いけるか?」


 斧を片手で持ち、空いた手が腰に提げなおした鉈へと伸びる。しかし剣鉈ではウェトル・ファルレムスの攻撃を凌ぐには力不足だと思いとどまった。先のように尾の薙ぎ払いを防いだり、反動を生かして距離を取るなどの荒業ができない。いざという時のために武器を持ち替えるのは躊躇われた。


 頑丈さとリーチ、そして鋭さを兼ね備えた武器。そんなものがあればと思わず無い物ねだりをしてしまう。



 そう思考を回すユリシスに対して、老獪な狩人はその場に踏ん張るように四つ足に力を籠める。


「休む暇なんてくれないって?」


 こちらから手を出さなければ、相手のほうから勝手にやってくる。

 見た通りに踏ん張るわけでは当然ない。雪に紛れるかのような灰色の巨体が一瞬深く沈み込んだかと思うと、それは巨大な鏃と錯覚しそうなほど鋭く、そして速度をもって飛び出した。


 鉄も岩も噛み砕けそうなほど鋭利な牙がユリシスに猛然と迫る。


「くっ」


 それを真横に思い切り飛ぶことで何とか回避するも、おまけとばかりに振るわれていた長い尾の先がユリシスの体を軽く撫でた。

 咄嗟に斧を盾に、そして体を守るように丸めたためダメージはそれほど負わなかった。

 しかし無様に雪の上を転がることになり、立ち上がろうと言う頃には再び飛びかかる体勢を整えつつある巨体が目に入る。


「クソッ!」


 攻勢に出ることすらままならない。

 手傷すら与えられない、一撃すらも貰うわけにはいかない、そして時間を掛けていられない。

 焦れったさばかりが胸中を占め始め、それを何とか誤魔化すようにユリシスは強大な狩人を睨み付けた。



 ***



 悪戯にもならない一撃を見舞っては、嵐のような怒涛の連撃が返される。

 肩で息をするのも辛くなるほどにそんなことを繰り返し、時間と体力だけが無為に削られていく。


「くっそ! 離れろっ――」


 そんな毒に満ちた泥沼の様相を呈し始めた中、不意に男の叫びを耳にし、ユリシスははっと顔を向ける。

 何もいいことばかりが事態を変化させるとは限らない。そこには二匹のファルレムスにのし掛かられ、抜け出そうと必死に足掻く男の姿があった。


 何の迷いもなく、男を助けるためにユリシスは動き出す。しかし、ユリシスが駆け寄るより早く、二匹の小さな狩人はようやくと言わんばかりに喜色を浮かべて獲物の肉へと食らいついた。


「がっ――」


 短い悲鳴が耳朶を打つ。

 群がるファルレムスの体が邪魔で、彼が無事かどうかもわからない。鼓膜が捉えた音が嫌な想像ばかりを掻き立て、胸に芽生えた焦りを加速させる。


「くそぉっ!」


 幾つもの悲劇の光景が頭の中に蘇った。

 繰り返してなるものかと心の奥底ががなり立てる。

 しかし。


――間に合わない。


 そう一瞬のうちに理解してしまった。


 だからこそ、ユリシスは直接払いのけるのは諦めて代わりに腰に下げた小袋に手を突っ込んだ。

 鋭い刃物を詰め込んだ、針山の裏側のような小袋だ。それを勢い任せに掻き混ぜてしまっては、手袋もろとも指を浅く切り裂くという結果を齎した。

 しかしそんなことは気にも留めず、血の滴る数本の魔物の牙を掴むと、引っ張り出した勢いそのままに投げつけた。


 風切り音をあげて大気を突き進む天然の刃。

 それは見事ファルレムスの横っ腹に命中した。


 弓矢ほどの速さは出ないが、そこは牙の鋭さがカバーしてくれる。

 親玉とは比較にならないほど薄い毛皮は容易く突き破られ、ファルレムスの腹部に小さな穴が開く。遠目にも血が零れるのを間違いなく見た。

 致命傷には程遠い。

 しかし意識外からの攻撃に、ファルレムスは思わずといった具合に悲鳴を上げて仰け反った。


 体にのし掛かる体重が一つ分減り、それを最後のチャンスとばかりに渾身の力を込めて男は二匹まとめてファルレムスを払いのけた。

 ぜいぜいと今にも血反吐でも吐きそうな有様でもあった。それでも、まだ生きている。


 それを目にし、手遅れではなかったとユリシスは胸を撫で下ろさずにはいられなかった。


「よかった……」




 そしてそれは今度はユリシスが隙を晒すことへと繋がる。


 一瞬の気の緩み。

 そして何より、ユリシスは相対していたものから目を離してしまった。意識を逸らしてまった。


 ゾワリ。

 そう悪寒が走ったことを理解するより先に、ユリシスは半ば反射的に斧を背中へと回した。


 ダンッ、ダンッ、と地を踏み込む音を、死を孕む足音を鼓膜が捉える。

 雪煙を巻き上げ、雪の大地に亀裂を走らせるほどの光景も、背を向けていてはわからない。


 サッと血の気が引くのを頭の片隅で感じ、しかしその音の正体を導き出すまでの時間的余裕すら与えてくれず。


「――かはっ!」


 衝撃波すら伴いそうに、硬い何かと何かがぶつかり合う鈍い音が雪原に広く響いた。

 それはちょうどユリシスの背の辺りから響き渡った。しかし、一番近くでそれを聞いていたはずの彼の耳がそれを捉えることはない。


 ほんの一瞬、何かがひしゃげるのを感じた後、意識が飛びそうなほどの衝撃が背に走った。


 瞬く間に衝撃は体を食い荒らす痛みへと変換され、その身全てを焼き焦がすような熱とともに駆け巡る。頭の中はキィンと鐘を叩いたような音に塗れ、燃えているかのように目の奥が熱い。


 決して目を離してはいけなかった。

 老獪な狩人が無防備な背を狙わないなんてあり得ない。


 ぐるる、ぐるると、ようやく狩人はしてやったりと喉を鳴らした。



 辛うじて斧を盾にしたのが功を奏したのか、ウェトル・ファルレムスは噛み付きではなく、体重の乗った頭突きでユリシスの小さな体を跳ね飛ばした。


 結果蹴られた小石のようにユリシスは雪の上を転がりまわり、崖にぶつかろうかというところでようやく止まった。



 体中が痛い。

 意識が飛びそうだ。

 目の奥はチカチカするし、手足なんてくっついているかわからないほどに感覚が希薄だ。


 本当に自分が起きているのかも怪しいほどに世界が、己が霞んでいる。


 そんなぼやけた頭でも、向こうで名も知らぬ男が叫んでいるのは理解できた。何を言っているのかはわからない。どういう意味を伴っているのかはわからない。しかし悲鳴ではないのなら、まだ無事だということだ。


――なら、いいじゃないか。


 それに安心し、軽くなった意識が闇に飛び込んでいく。

 誰かを救えたのだと満足し、甘い毒に沈んでいった――



 ***



 ――だが。


 けたたましい喚き声と、威圧感の伴った強者の唸り。そのどちらもがいまだ消えていない。脳内に満ち行く甘い毒を貪り食らうように、外から入ってくる煩わしいそれらが頭の中を占めていく。


 それと同じくして、静かに、しかしうるさいほどに口々に何かが騒ぐ。


 死ぬわけにはいかない、生き延びろと。

 まだ倒れるな、命を捨てでも誰かを救えと。


 いつもは相反するはずの罪への叱咤も、逃避への囁きも、そのどちらもが無粋にも安らかな眠りに落ちるのを妨げる。


――折角満足に終われるのに。


 成し遂げたはずなのに、救ったはずなのに。

 どうしてと思わずにいられない。


 結局のところこれまでユリシスを責め立てていたのは一人だけ生き残ってしまった罪の意識だ。誰も助けられなかった無力への罰だ。

 今回でそれは果たされたはず。

 名も知らぬ男を死の淵から救い上げたはず。


 ならばもう終わっていいはずなのだ。


 それなのにまだだ、まだだと沈みゆく意識を引き上げようとする。


 まだ倒れるわけにはいかない。

 今だけは倒れるわけにはいかない。

 〝まだ誰も助けていない〟。

 今倒れたら全員〝共倒れ〟だ。


 そう、都合のいい虚構を突き崩し、非情な現実ばかりを突き付けてくる。


――それだけは、それだけはだめだ。


 誰かを助けたなんて幻想だった。無責任に死ぬための身勝手な思い込みだった。

 たった一度の危機を救っただけ。根本たる魔物を追い払えていない。ならば今自分が倒れたら、結局男も死ぬじゃないか。そうしたら生き残った二人もそこらに転がる人々と同じ末路を辿るじゃないか。


 そう思い至るや否や、夢から醒めるのも早かった。


 時間にして一秒も経っていただろうか。覚醒しつつある意識で捉えた世界は、先ほどと何一つ変わっていないように見えた。


 頭を突き出す形で止まっていたウェトル・ファルレムスが、徐に首を持ち上げているくらいだ。


 その目は今しがた痛打を与えた獲物へと注がれている。とどめを刺しに来るのも時間の問題だろう。


 思い至った結末を迎えないために、ユリシスは力の入らない体を気力でもって無理やり起こす。


 老獪な狩人が怪訝な声を上げた気がした。


 手も足も、首も背中も腹も頭も。全身のどこもかしこもが雷にでも打たれたかのようにびりびりと痺れ、力を込める度それだけで皮膚が破けるのではないかと思えるほどに激痛が走る。

 それも意地で抑え込み、ふらつき再び地に沈みそうになる体も斧を支えに立ち上がる。


 こんな痛みだってもう二度目だ。あの時だって耐えられたのだ。体に力が戻るのだって早い。ならば今回も大丈夫に決まってる。


 違うのは、逃げるのではなく迎え撃たなければならないこと。



 ユリシスは見事立ち上がって見せた。だらんと下がった首もしかし目だけは宿敵を睨む。

 意地でもって地に足を踏ん張り、気力でもって斧を握る手に力が籠る。


 思った結果にならなかった。小癪な獲物がしぶとく立ち上がった。

 そのことに初めて巨躯の獣は憤慨し、喉を鳴らすだけの唸り声は悍ましい咆哮へと様変わりする。


 高ぶった殺意を纏って。逞しい四足でもって駆け出し、死に損ないへと引導を渡すべく牙をむく。


 避けるか、防ぐか。獣と相対するユリシスは、そのどちらかをしなければならない。

 しかし立ち上がるのに精いっぱいで、何らかの動作を行えるほど回復は間に合っていない。

 徐々に徐々に体に力が戻り行くも、とどめを刺そうと迫る灰色の獣のほうが明らかに早い。


 飛び込む巨躯に、カッと目を見開く。

 否、その傍らに。


「――さぁせるかあああっ!」


 咆哮すらも貫く、燃えるような怒号が煌めいた。

 目を見開いたのはユリシスだけでなく、今まさに獲物を食い破らんとしていたウェトル・ファルレムスも同じだった。


 嚇怒を湛えた鋼鉄の一撃。岩をも砕く鋭い鉄の杭が、大きく弧を描いて灰の巨躯、その脳天へと叩きつけられた。


 ぐしゃり。

 鈍い破砕音がユリシスの元まで聞こえてきそうな光景が広がった。

 男はどれだけ力を込めていたのか、体を止めることすらかなわずに雪の上を滑るように転がり、一方でウェトル・ファルレムスは初めて負った痛手に悲鳴を上げて飛び上がった。



 後ろ向きに尖った三角耳、その根元付近に穴が開き、しかしそれでも頭蓋を貫くには至らなかったのか、四足はしっかりと地を鷲掴み、揺さぶられた頭を正すように頭を振っている。


 このままでは、間も置かずに狩人はまた動き出すだろう。それも、先より更に激しく、激情を湛えて。


 そうなれば万に一つの生きる道も残らない。

 ならば今しかない。

 痛手を負って、満足に動けない今しかない。



 万全でないのはこちらも同じだ。しかし繋いでくれた活路を断つわけにはいかないと、今度は自分の番だと、口の端から血をまき散らしながらもユリシスは立ち竦む敵へと向かう。


 一歩、二歩、三歩と、踏み込むたびに体に力が込められていく。白い大地を蹴り、足を伝い、痛む胴を経て、弦のように引き絞られた腕へと向かう。


 柄を握る手がきつく絞られる。握り潰されるのではないかという程にぎしりと軋む。


「――おぉおおおぉおおあああぁっ!!!」


 腰だめに構えた斧を。

 頭突きの衝撃でひしゃげた斧を。


 己が宿敵めがけて全力で――



 岩にでもぶつけたのかと思う程に硬い感触。

 金属でも殴りつけたのかと思う程に甲高い衝撃音。

 叩きつけた斧は勢いを残しながらも食い止められる。

 しかし拮抗は一瞬だった。


 ミシリ、ミシリと。

 バキリ、バキリと。


 不快な、しかし今は何よりもその成果を示す音と感触が前兆のように静かに響く。



 ――振り抜いた。


「うらぁぁぁぁあああああっ!!」


 雄叫びに被さるような悲鳴を撒き散らし、ウェトル・ファルレムスの頭は大きく跳ね上げられた。


 鉈なんぞと比べ物にもならない、遠心力の乗った重い一撃。それは硬直したままのウェトル・ファルレムスの顔面を、居並ぶ牙を捉え――打ち砕いた。




 再びの痛打にウェトル・ファルレムスはその巨体を悶えるようにくねらせ、やたらめったらに吠え散らかす口からは血が噴き出る。

 凄惨さを極めたかのような鋭い牙は無残に折れ、舌か、それとも口内にも刃が届いたのか赤色が舐めている。


 しかし、それだけだ。

 頭蓋と口に痛手を負った。それでも生命力に溢れた強大な魔物にとって、命を落とすような傷ではない。


 一頻り暴れまわると、ウェトル・ファルレムスは荒々しい吐息と共にぐるる、ぐるると唸りながらユリシスを睨む。

 射殺さんばかりにその双眸には殺意が籠り、今にも大口を開け、あるいは鋭い爪を振りかざし飛び出しそうな有様だ。


 それでも激情して襲い掛かってこないのは、相手が賢いからだ。このまま続けて勝てるかを――手傷を負わないで腹を満たせるのかを考えているからだ。


 牙は彼らにとって最大と言っていい狩りの道具。そうでなくとも当然食事にも用いる。

 致命の怪我にはならずとも、これ以上の損害は生きることにすら支障が出るだろう。



 ようやく、ようやくユリシスが目指していた形にまで場は向かいつつあった。


 大型の魔物。それは人間が相手にしていいものではないとユリシスは身に染みてわかっていた。

 それでも立ち向かったのは譲れない理由があり、そして何より勝つ気でいたからだ。


 その勝利は相手を殺すことじゃない。

 相手を退かせることだ。

 手傷を与え、戦うことが無益どころか損だと思わせる。

 だから、まだ倒れるわけにはいかない。


 震えそうになる足を誤魔化し、手から滑る落ちそうになる斧を握りなおす。


 まだだ、まだ倒れるな。

 誤魔化せ。

 平気だと虚勢を張れ。


 ここから相手を討ち取るなんてできやしない。

 まだまだ戦えるのだぞと演じることしかできない。


 人間一人にできるのは、やはりそれくらいなのだろうか。




 構えを解かないユリシスに向けて、怒声をあげながら唐突に狩人が飛び掛かる。


「っ!」


 それを横に飛ぶことで辛うじて避け、弱々しく、しかし手元の狂いだけは見せずに顔面目掛けて横薙ぎに斧をぶつける。


 硬い手ごたえ。先と違い僅かにしか頭を揺さぶれず、ダメージも入っていないだろう。

 しかしまた牙を折られることを危惧してか、ウェトル・ファルレムスは追撃もせずに過剰に飛びのいた。


 またしても、睨み合い。


 背にとめどなく冷や汗が流れていく。

 こちらの虚勢を見破られたか。そう考えだすと思考の端から黒いものがすべてを覆い隠しそうになる。




 しかし、ユリシスの懸念は杞憂に終わった。

 ウェトル・ファルレムスは警戒はそのままに、足に込めていた力だけを解いた。


 先のは様子見だったらしい。

 食い殺さんばかりに剥き出しだった殺意も徐々に鳴りを潜めていく。


 そして、一番食いでのありそうな、転がったニーウェルムの死骸の一つをひょいと咥えると、こちらへの興味もまるで失ったように背を向けて去っていった。



 ***



「っはぁ!」


 詰まりそうになっていた息を吐きだすと、そのまま盛大にせき込んだ。

 力はあっさりと抜け、膝から崩れ落ち、大地には赤色の混じった吐物が撒き散らされる。


――終わった。


――生き延びた。


――守り切った!


 体中の痛みも、それを思えば何でもない。

 おそらく初めて味わっただろう、これまでにないほどの達成感。それが痛みの代わりに胸中に広がり高笑いでもしそうになった。


 しかし体ばかりはそううまくもいかず、立ち上がるのも難しい。仕方なくそのまま膝をついて辺りを見回せば、親玉だけでなくファルレムスも姿を消していた。


 更にぐるりと見回して、喜びを分かち合うべき一人を探す――しかし。


 目に入ったのはいまだ倒れこんだままの男の姿だ。


 ユリシスのように疲れや痛みからくるものならばそれでいい。時間が経てばまた立ち上がれるだろう。

 しかし、どうにもその姿が小さなものに見え、喜びに浸っていた胸中もすぐにざわざわと陰り始めた。


「おいっ! 大丈夫かっ!」


 そういえば、年上だというのに敬語すらも使えてないなと、場違いなことが頭に浮かぶ。

 それくらいしか思考も回せず、何をどうすればいいのかもわからないくらいにパニックになった頭は熱でもあげそうだった。


 立ち上がることもかなわず、這うようにして男の元までユリシスは向かった。


 たどり着いた先。

 地に伏せるように横たわった男の呼吸はひどく浅く、改めて見た彼の体は至る所に裂傷を負っているようだった。

 傷口付近の衣類はどす黒く染まり、幾つかの新しい傷からは零れ落ちるように赤色が抜けていく。


 横顔から覗く目は力なく閉じられ、口はだらしなく半開きになっていた。


「おいっ! 寝るなっ!」


 体を揺さぶって、そう大声で叫べば。


「ああ……終わったか?」


 ゆっくりと瞼が持ち上がり――しかしそれも半分もいかないところで止まってしまう。


「終わったよ! だからしっかりしろっ」

「ははは……夢でも、見てる気分だよ……」

「現実だ、あんたも生き残ったんだ。だから、ほら。さっさと起きろよっ」


 そんなユリシスの呼びかけに、彼は僅かに口角をあげるくらいしかしてくれない。


 ここまできて。

 ここまできてこんな終わりはないだろう。

 請うように、願うように男の肩を揺さぶるも、彼の体は一向に力が戻らない。


 はっと止血をしなければと思い至り、革袋から包帯を取り出す。すぐさま巻きつけていくが、遅い。傷が、多い。

 それに、太い血管を食い破られたのか、縛ったところでどんどんと命の源が零れ落ちていく。命の証が弱まっていく。


「……くそっ! やっぱりあんたたちだけでも逃がすべきだった!」

「……いいんだよ。どうせ俺は、遅かれ早かれ……死んでたさ」


 初めから死期を悟っていた。それを感じていたからこそ、ユリシスはそれを覆したかったのだ。


 そんなこと言うなよ、そう口をつくこともなく、ユリシスは必死に包帯を重ねて縛り付けていく。


「俺より……あの二人を……あの子を……それでいい……」

「おいっ、死ぬなよ、そんな簡単に諦めんなよっ。しっかりしろよ! せっかく、せっかく生き残ったんだからっ……」


 生き残ったんだから。


「……くそう……くそう……」


 包帯を縛っていた手が、ぱたりと膝の上に落ちる。無力感が体をこれ以上動かしてくれない。


「……何満足した顔してんだよ」


 男の胸は、もう動いてもいない。

 浅かった呼吸は既に聞こえず、目も、再び瞼がくっついていた。

 それでも、彼の顔は穏やかだった。


 痛かっただろうに。

 苦しかっただろうに。

 怖かっただろうに。


――それでも、あんたは守って逝けたんだもんな。


 名も知らぬ男の元を、ユリシスは後にした。



 ***



「っ」


 もう二人、ここには生き残った者がいた。

 蹲り、声も発しなかった二人。

 崖沿いに身を伏せ、狩人たちの目に入らないよう、小さく縮こまっていた二人だ。


 その二人の元へ、無力感に満ちながら、しかしようやく立ち上がる程度には力の戻ったユリシスは足を向けた。


 そして、息をのんだ。


 なんで逃げなかったのか、なんで動かなかったのか。それを理解せざるを得なかった。

 ただ恐怖に怯えていたのだと思っていたが、違った。


 逃げ出すことすらできなかったのだと理解した。


 足がない。


 誰かを抱え込むように蹲っていた人は女性のようだった。しかしその顔は真っ白を通り越して透き通ってしまいそうなほどに生気が希薄だった。


 もう一度足を見やれば、止血こそされてはいるが、片足が膝より下がずたずたに裂けている。切断面は止血も何も意味がない、そんな有様だった。


 あの蜥蜴どもに、齧られたのだろうか。


 呆然と見下ろしていると、今にも消えそうだった命から声がかかる。

 ユリシスもそれに意識を取り戻し、怯えるような、しかしどこか喜色を得た芯のある目と向かい合った。


「……魔物は?」


 消え入るような、か細い声だ。


 喉に力が入らないのか、吐き出すための息すら碌に吸えないのか。掠れ、耳を澄ませるか、死んだように静かな世界でしか聞き取れないような声。

 その理由を当然ながらも理解し、叫びだしそうになるのをぐっと堪えて、せめて安心させるためにとユリシスは喉を震わせた。


「……全部追っ払っいました。だから、あとは逃げるだけです」


 だから。


『さあ』


 そう、手を伸ばしたかった。

 しかし、頭とは裏腹に、体は動いてくれない。認めたくない頭と違って、それが無駄だと理解しているから。


「……ああ、よかった……」


 それを聞いて、女性はひどく安心したように、救いを見つけたように微笑んだ。穏やかで、満足したような。そんな笑みだ。


「……この子を、お願いします……どうか」


 そして、庇っていた、抱え込んでいた腕をそっと緩ませる。そしてそのまま、その腕すらも動かなくなった。


「そんな簡単に、死なないでくれよ……」


 膝をつくことすらもかなわない。

 棒立ちのまま、ただひたすらに地を見つめることしかできない。ぴくりとも動かなくなった指先が甘く雪に埋もれていた。


 何が救う、だ。

 何が守る、だ。


 また、零れ落ちていったじゃないか。





 何かが動く気配に、伏せていた目が僅かに上がる。


 そこにいたのは、彼女が、そして彼が最後まで守り抜いた一人の命。一人の少女だった。


 雪のように銀色の髪で、雪のように白い肌で、雪のように冷たく、そして淡い青色の瞳の少女だった。


 澄み渡るような綺麗な瞳はしかし、恐怖と、無気力と、悲しみと。そしてユリシスの持つそれに似た、形容しがたい、深く根付き、洗い流せない何かに満ちていた。


「生き残っちまったやつの気持ちも、考えろよ……」


 今度こそ。

 そっと、血に汚れた手を差し出せば、彼女もそっと握ってくれる。手袋越しでも、じんわりと、柔らかな温かさが伝わってくる。


 生きている。

 ああ、生きている。


 力なく手繰り寄せれば、少し跳ねのある、短く柔らかな髪がさわりと揺れた。


 年の頃は十四、五だろうか。ユリシスとあまり変わらないように見えた。あまり食べてこれなかったのか、線は細く、防寒着で着膨れしているはずの体も簡単に折れてしまいそうなほどに力ない。



 立ち上がった彼女は、抱きしめていた女性の血こそ付いてしまっているようだが、目立った傷はなかった。


――家族だったのかな。


 思わずそんなことを考えてしまうほどに、彼女は大事に守られていたようだ。命を賭して守られていたようだ。



 もっと早く気づいていれば。

 もっと早く駆けつけていれば。

 そうすれば、この子の家族も助けられたのだろうか。

 彼女に、こんな悲しい瞳をさせずに済んだのだろうか。


 いや、彼女だけじゃない。もっと多くの人を、助けられたのだろうか。


 そう、上塗りするように無力感が沸いてくる。ふわふわとふらつくようで、しかし重く泥沼に沈み込んでいくように抗いがたい感情が胸の中に渦巻いていく。



 もし、誰かを助けることができるなら――――命を落とすことになったっていい。


 そう考えていたはずなのに。



 暗く沈んでいく思考に引きずりこまれないように、そっと天を見上げた。

 少女の瞳のように、冷たい色の空がどこまでも広がっていた。



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