14:悪夢を払え
「それにしても、なんで群れてたんだろう」
仕留めたニーウェルムの解体をしながら、ユリシスは思い出したかのように疑問を零した。
捕食方法が丸呑みということもあって、基本的にニーウェルム――幼体は違ったが――は単体で行動する。そうでなければ獲物の取り合いになるからだ。
これまで相対してきたのも一匹ずつで、だからこそ楽に退けられてきた。
だが今回は四匹も集まっていた。
もしかしたらニーウェルムには自分の知らない生態があるだけかもしれない。何せ魔物は未知の部分のほうが多いのだから。
しかし、そのことが妙に頭に引っ掛かりどうにも頭をひねらせてしまう。
狩りの練習中、とも違うだろう。あれは明らかに成熟した個体だった。
「繁殖のために群れていたのか?」
いや、そうだとしたら巣穴かどこかに引っ込んでいそうなものだ。それにこれまでは単体で現れていたし、色々とちぐはぐだ。
ならば考えつく原因は、単独で行動するニーウェルムが複数集まるほどに餌があったからに他ならない。
「ああ、なんでだろうな。嫌な気分だ」
胸に湧き上がる、ユリシスにとってトラウマといえる想像を振り払いながら、トカゲの皮をつるりと剥いだ。
***
「……まただ」
解体を終え、再び歩み始めてしばらくのこと。
遠くの雪原に、幾本もの条線が刻み込まれているのを目にした。
全部が全部ひとどころにまとまっているわけではない。しかし縞模様の並び方から、すべて一方向を目指していたか、あるいは途中で別れたかのどちらかは確かなようで、不自然な行動をとっていたことに変わりない。
もっとも、這い跡は動く様子もなく遥か彼方まで続いていることからもう遠くまで行った後だろう。ここらを歩いていても痕跡の主と遭遇することはないはずだ。
しかしそんなことは関係ないのだとばかりに、胸のざわつきは再び酷くなる。
無視をして進むのが一番だ。
どうせ、動物の群れか何かでも見つけたのだろう。もしくは、繁殖でも済ませて一斉に分かれていったか。
そうでなくても、何が起こってるかわからない。わからないなら、近づかないほうがいい。
だが、ユリシスの足はどうしてか、線の集まる方向へと向いていた。
線を辿れば辿るほど、その数は増していく。
それに、
「……ひどい臭いだ」
鼻をつくのは、むせ返るほどの鉄臭さ。
気持ち歩みも早くなる。
――でも、血の匂い? ニーウェルムに襲われたなら、血すら流れなさそうなものだけど。
ニーウェルムの口内には夥しいほどの牙が生えているとはいえ、あれは捕らえた獲物を逃がさないためのものだ。
ならば、何の血だ? 何に、何が襲われた?
答えは出ぬまま、ユリシスは惨劇の場に辿り着いた。
辿り着いてしまった。
「……」
地震か何かで大地でもずれたか、崖の足元のような位置に当たる、やや平坦な地。広い岩棚と言ってもいいだろう。斜面方向に進めばまた急な坂道になっているからこそ、まさに崖沿いに長く続く足場のようだ。
山頂方向から下ってきたからだろうか、ここらには疎らにだが雪に背丈を強引に縮められた木々がなんとか頭を出している。
一面が雪に埋もれていることだけはどことも変わらず、しかしそこにあるべきではない、似つかわしくない、様々なものが散乱していた。
布切れ。
木片。
壊れた荷車。
積まれていただろう、荷物。
腹に穴の開いたロバ。
必死にあらがったのだろう、乾いた血のこびり付いた諸々の道具。
そして、ただの血溜まり。
散らばったそれらの一つを、ユリシスはそっと〝手に取った〟。
そこには荷車を牽いていただろう痩せたロバ以外、死体の一つもなかった。明らかに致死量だろう血を流しているのにも関わらず、だ。
全部、死体も残らない方法で――餌になったんだろう。
「別の魔物に襲われて……血の臭いでも嗅ぎ付けられたのか」
ならば、獲物の取り合いでも起こっていたかもしれない。雪の地面には人間のそれとは別に、獣の足跡と蛇のような這い跡が混在している。
きっと、その場は混乱の極みにあっただろう。隙を見て逃げ出せた者もいたのかもしれない。
地面に視線を這わせれば、順当にいけば雪の轍が更に伸びていただろう方向に、足跡がまだ続いていた。それを追いかけるように縞模様らも浮かんでいるが。
そして今、追いかける足跡が、また一つ増える。
胸のざわつきはこれ以上ないほどに高まっている。もはや歩いてなんていられない。
ユリシスはわかりやすい道しるべを頼りに足早に駆け出した。
こんな雪の中だ、ロバの死体もすっかり冷たくなっていたし、雪に染み込んだ血も鮮やかさを欠いていた。あの惨状を見ただけでは、いつ襲われたかなんてわからない。
いや、血の臭いに集まっただろうニーウェルムと先ほど遭遇したくらいなのだ、もし逃げ出せたのだとしても、もうすべてが終わった後の可能性のほうが高い。
それでも、それでもユリシスは僅かな可能性にでも賭けたかった。
見捨てたくない。
今度こそは誰かを助けたい。
そうすれば、少しは許されるような気がしたから。
――身勝手な理由だ。
どこまで行っても、自分本位な、そんな自分が嫌になる。
――でも、もし誰かを助けることができるなら、
浮かびかけた思考を、ユリシスは頭を振って追い払った。
***
――ああ、獣臭い。
獣臭い、獣臭い、獣臭い。
惨劇の場は幾つもあった。
全てが終わった後の静寂に包まれ、死体は残らず、血溜まりだけが残っていた。
――血生臭い。
だが今度は別だ。
恐ろしい唸り声が聞こえる。吠え声が聞こえる。その度にそっちに行くなと頭の中で誰かが訴えかける。
そんなものは却下だ。
踏み込む足は力強く。駆け寄る足は風すら切って。
「おおぉぉおおおおぉぉおっ!!」
ギョッとしたように、獣たちが振り返る。
――小物は無視だ。一番の脅威を落とせ!
剣鉈を引き抜き、ユリシスの雄叫びなど歯牙にもかけなかった一匹に、獣たちの親玉に駆け寄って、そしてその無防備な首元向けて勢いよく振り下ろした。
だが――
「っ!!」
切るのではなく、叩いたかのような鈍い感触。
渾身の一撃もしかし、刃は一切通らない。
厚い毛皮に阻まれ、薄皮すらも断てなかった。
ならばもう一度と、振り下ろした鉈を今度は下から切り上げるように叩きつける。それでも何も変わらない。
「ちぃっ!」
なんの効果も与えられないことに苛立ち、しかし僅かに残った冷静さでもってユリシスは一旦退いた。
そして、首筋に衝撃を受けて初めてそいつは動き出す。
つややかな灰色の巨躯が揺らされる。
短かった四足は年経たことで逞しくなり、体も大の大人すら優に超える程に成長した。
太く長い尾はそのままに、しかしもはや隠れる必要も無いのか、雪をまとうような小賢しい手は使わない。
ぐるり。
そんな音でも伴いそうなほどゆったりと、しかし相手を射竦めるほどの眼光を伴って、狩りの邪魔をする愚か者に向けて振り返る。
ウェトル・ファルレムス。
狡猾な狩人たちの親玉。
体長は二倍にも三倍にもなり、強者の風格を得た老齢の個体。
遠く取り巻きながら喚き立てる部下たちとは裏腹に、ぐるる、ぐるるとそいつは静かに喉を鳴らす。
そして、鋭く伸びた牙をむき――
――ギォオオオオオオオオオオオオッ!
天に向かって、吼えた。
びりびりと空気が揺れる。
味方であるファルレムスたちすら身を竦め、僅かながらに雪を巻き上げ宙を舞う。
脳を揺さぶる、悍ましい咆哮。
生存本能を刺激する、恐ろしい雄叫び。
しかしユリシスは怯まない。
もっと大きな相手を、もっと恐ろしい存在を知っているのだから。もっと優先されるべき感情があるのだから。
今一度腰に手を伸ばし、そして新たな得物を引き抜いて。
「うらぁぁあぁぁああっ!」
そしていまだ空を睨んだままの巨躯の獣目掛けて、思い切り〝斧〟を振るった。
片刃で広く、重量のある伐採斧。大木すらも切り倒すであろう鉄器をもってもしかし、またしても手に伝わるのは鈍い感触。
鉈とは比べ物にならないほど重い一撃ではあったのだが、それでも毛皮を浅く裂く程度の傷しか与えられない。
それでも思いもよらぬ一撃だったからか、それとも喉という急所の一つに衝撃を受けたからか、巨躯の獣は低い悲鳴を上げて後ろへと下がった。
「お前っ……どこのっ」
それを見て、いや、そもそも乱入者の登場に驚いた様子の一人の男がユリシスに向けて誰何する。
だが、
「いや、そんなことはいい! おい、そこの二人連れてこっから逃げてくれっ!」
切羽詰まった様子の彼は途中で言い淀み、ユリシスに『逃げろ』と叫んだ。
ちらと横目で周囲の様子を伺うと、地に転がって動かなくなった者の他に、蹲る人影もあった。
まだ生きている。
何かを、いや、誰かを抱え込むように身を丸め、静かに、しかし確実に動いている。
「あんたはどうするのさ」
「……俺はこいつらを引き受ける」
「っ……」
その言葉は、その姿は、その顔は。
何かに希望を託したかのような、何かに救いを求めるような。覚悟を決めたかのようなそんな顔は、かつての誰かの姿を思い起こさせた。
「……無理だ。死ぬよ」
だからこそ、受け入れられなかった。
その姿は、ユリシスがずっと後悔していた光景と重なって仕方がない。
あそこで一人逃げるべきではなかったと、なんで一人生き残ってしまったのかと。
ずっと苛まされていた己の罪に。
「……覚悟はしてる」
「勝手に死のうとしないでくれ」
そう言いながら、ユリシスは一歩下がり、地面に向けて斧を振るう。
振るわれた斧は、丁度飛び出してきた白い頭を砕いた。
悲鳴も上げられず、それは半身だけを地上に晒した状態でのたうち回る。追い打ちとばかりにもう一度、今度はその喉元に振るえば、引き千切れた喉から鮮血を噴き出して、そいつは大地に潜っていった。
「全部倒せばいい。それか、あいつだけを退かせればいい。そうすれば取り巻きどもも勝手に逃げる」
そう、のそりのそりとユリシスの出方を伺い旋回する獣の親玉を睨みつけながら、ユリシスは告げる。
「……無茶だ」
低い唸り声に紛れ、ぼそりと呟くのが耳に届いた。確かに、人間が魔物に立ち向かうこと自体常識はずれのことだ。かつてのユリシスだって、そう思っていた。
それでもユリシスは本気で成し遂げるつもりだった。
見捨てることなんて、できるはずがなかった。
魔物だって、生き物なんだ。
いくら大きくたって。
いくら硬くたって。
いくらしぶとくたって。
血を流せば死ぬ。頭を潰されれば死ぬ。
死なない化け物じゃない。
それを知っているから。
「なんなら、あんたたちが逃げてくれたっていいんだ」
一瞬目にしただけだが、男は随分と血まみれだった。立ち方も危うく、酷い怪我をしていることは想像に難くない。
「馬鹿言うな」
男はへっと鼻で笑う。随分弱々しい。それでも秘めた意志だけは固く、手に持つ得物――つるはしだろうか、それを強く握りしめていた。
それに、酷く寂しい気持ちを覚えながらもユリシスはウェトル・ファルレムスに向けて駆けだした。
――なら。
「さっさと追っ払わないとなっ!」
迎え撃つ用意はできている。
そう言わんばかりに相手も猛り、長い尾を振るう。
「ちぃっ!」
それを斧を盾にして受け流そうとする。突風でも受け止めているのではないかと錯覚しそうなほどに重い衝撃。
更に、荒々しい剛毛が柄を握る手をざりざりと削る。走る摩擦に拳が熱い。
手甲のように巻きつけたニーウェルムの鱗がなければ骨まで削られていたのではないかと思えるほどだ。
「くらえっ!」
ユリシスが堪えている隙に、男もまた死闘に加わる。振り上げたツルハシを、ウェトル・ファルレムスの脳天目掛けて勢いよく落とす。
もともと硬い岩を砕くためにある道具だ、まともにあたればひとたまりもないだろう。
しかし、
「クソッ」
それは即座に体を翻し、お返しとばかりに爪を振るった。
「あんたはいいっ! 取り巻きどもをっ!」
浅く傷を受け、雪の上を転がる男に向かって叫ぶ。親玉が動き出したからか、取り巻きのファルレムスたちも威嚇するだけでなく隙あらばと身を構えていた。
そして、今にも男に向けて飛びかからんとしている。
身に迫っていた危機に気づき、男はそちらへと注意を向けた。
ニーウェルムとのいざこざで数が減ったのか、立っているのはたったの二匹。ニーウェルムも生きてるものはさっきので全部逃げたのか、もう残っていない。それでも怪我を負った状態では満足に対処できるかどうか。
一握りの不安を覚えながらも、ユリシスは目の前の強者へと向き直った。
相手も、男のほうは既に意識外らしい。
僅かとはいえ己に手傷を与えた邪魔者に射殺さんばかりの眼光を向けている。
「やっぱり、敵だもんな」
ファルレムスとは、何かと因縁のある相手になってしまった。命を狙われ、意図したことではないだろうが一度は命すら救われた。
それでも連中は敵だ。
命を脅かす捕食者だ。
「食われてなんかやらない。食わせてなんかやらない」
その宣言には雄叫びでもって返される。
立ちはだかる巨体に向かって、真っ赤に染まった斧を振り上げた。