13:予兆
「寒っ」
山の上から吹き付けた風に思わず体を縮こませる。風を遮ってくれるものなどまるでない、見渡す限りの雪原の中、ユリシスは身にまとった毛皮の中でぶるりと震えた。
洞窟を抜ける際に蓑の大部分を失ってからは、こうして魔物の毛皮を外套代わりに着込んでいる。
毛皮の一部に穴をあけ、紐を通して首元で留める。ただそれだけ。
処理が不十分なためか徐々に脂が染み出てくる上に獣臭いのは不満だが、それなりに寒さを防いでくれる。しかしやはりただの一枚布。寒さ対策のされた防寒着とは性能が比べるまでもなく低い。
「ないよりましだけど……」
ずびっと鼻をすすりながらユリシスは呟く。
くるまるように握りしめていた毛皮から手を放し、止まった足も再び進める。
あれだけ柔らかかった新雪はすっかりと固くなり、薄っすらと重ねられた雪以外はもう土の地面と大して変わりない。
あれから――洞窟を抜けてからというものもうかなり日数が経っていた。初めは尾根伝いに歩き、しかし吹き付ける風の厳しさに山頂を歩くのもと考え直し、やや下ってからまたまっすぐ歩き始めた。
その結果がこの雪原だった。
一見すると木も草もまるで生えない、不毛の白い大地。
地を舐めるような風一つ防げず、隠れる場所もない。行軍するには相応しい環境とはまるで思えないが、標高ゆえかどこまで行ってもこの調子なのだ、潔く受け入れるしかなかった。
しかしいくら山頂付近とはいえ、生命が絶えてしまったわけではない。
ふと、踏み込んだ足に硬く、弾力のあるものが触れる。足を上げると、目に入るのは灰色の枝。
そう、全部雪に埋もれているのだ。
雪に埋もれた木々は当然葉も花も、蕾も実もつけていない。
しかししっかりと息づき、また春が来て雪が解けるのをじっと待ち続けている。そんなたくましい灌木が広がっている。
ここら一帯は死んだわけではなく、休眠しているだけの地帯なのだ。
上げていた足を戻すと、パキリと乾いた音を立てて何かが折れる。先の洞窟のように、骨の欠片ではない。当然枝だ。折る気はなかったが、折れたならと拾い上げる。細い枝だが、その材は瑞々しく、確かに生きていることを示している。
しかし、折れてしまえば話は別。その行先は焚火にくべられる一本だ。
「……ん」
足元に、地表に注意を向けていると、遠く斜面の下のほうから延びる条線が目に入った。
それは風がいたずらに撫でた痕ではなく、ドジな石ころが転がった跡でもない。
何せ、今尚延び続けている。
〝こちらに向かって〟。
少しばかり緩んでいた思考も帯を締めたように引き締まる。
考えるよりその先に、すぐさま手は腰へと伸びる。そして、指先が触れたそれを引き抜いた。
抜いたのはナイフではなく、鉈だ。
鋭い切っ先の剣鉈。
重量のある、分厚い大鉈。
腕の傷ももはや違和感が残る程度で、肩はまだ痛むが無視できる範囲にまで治っている。
ようやくナイフなんて弱々しい刃物に頼らずに済むようになり、心持ちも随分と楽になっていた。
延びる条線は四本。
等速でも等間隔でもない。
ユリシスは一番突き出た一本を注視しながらも、気付いていないふりをするように歩を進める。多少気になることもあるが、走り出すことも立ち止まることもなく、ただ平然を装った。
潜っていては、地上の様子なんてわからない。
それは一切疑いというものを持たずユリシスの元まで線を伸ばし、そして硬い雪を巻き上げながら勢いよく顔を出した。
しかし飛び出た頭、獲物を捕らえる筈だった特徴的な顎は空を噛む。
そこにあるのは間抜けをさらした真っ白な顔だけだ。
「こっちだよっと」
獲物がいないことに驚いた様子の相手に向かって、ユリシスは鼻っ柱に剣鉈を叩きつけた。
何てことはない。ただ飛び出る瞬間に後ろに飛びのいただけ。雪の中から音や温度を頼りに敵を探るらしいこの魔物だが、飛び出す瞬間だけはさすがに意識を回す余裕がないらしい。もしくは、気付いていても間に合わないのか。
そして、彼らが晒す最大の隙をユリシスは既に把握していた。
何度も見れば見切るのも容易い。
〝小さい〟やつも、〝大きい〟やつも皆同じ動きをするのだからなんと楽なことか。
飛び出してきたのはニーウェルムだ。
かつて雪洞の中で何度も開きにされた白いトカゲ。その成体。
雪に潜るためか無駄をそぎ落とされた体は限りなく蛇に近いトカゲ。手足は短く、そのため地上では這いずるような形になる。ぐねぐねと蛇行する動きは奇抜で捉えにくいが、四足の獣よりは機敏さに欠ける。
唯一特徴的なのはどこか鋭角的で、しかしぶよっとした顔つきだ。
先細るように凹凸のある頭ばかりは鋭さを感じさせる体と正反対で、ところどころ撓んですらいる。
こうして目の当たりにしても幼体と大した違いはなく、精々体格が大きくなったことくらいか。大人一人くらいなら軽く呑み込めそうなほどの体長を誇る。
爬虫類然とした見た目のくせに冬にのみ活動する珍しい魔物だ。
歩くのより雪を泳ぐことに特化した体なためか普段は雪の中に潜み、獲物を見つけた時だけ飛び出て、足元から獲物を食らう。そんな油断ならない狩りを行うのだが、しかし厄介なはずのその習性も知ってしまえば逆に攻撃を与えるチャンスでしかない。
叩きつけた鉈は硬い鱗を砕き、しかし肉を割くまでには至らない。それでも怯み、仰け反らせるには十分だった。
ユリシスは追撃に移りたくなるのをぐっと堪える。
本来なら怯んだ隙に致命の一撃でも与えられれば最善なのだが、忘れてはいけない。
相手は群れだ。
振るった鉈を引っ込めて、横から飛び出てくる二匹、三匹を一番槍の体を陰にしてやり過ごす。
仕留められていない、それどころか反撃を食らっているなんて考えもしていなかったのか、馬鹿正直に飛び込んできたトカゲ達は互いにぶつかり、長いからだを絡まり合わせるような無様を晒した。
今こそチャンスだ。
それを見過ごすようなことはせず、ユリシスは手近な一匹に素早く駆け寄り、頭をむんずと抑え――
何度も解体したのだ、こいつらの弱点は知っている。頭でも心臓でも、喉でもない。
「おっ、らっ!」
顎の裏に、鋭い切っ先を差し込んだ。
肉厚の刃は先とは比べ物にならないほど薄い鱗を容易く突き破り、血肉を犯す。
ニーウェルムの顎部構造はかなり特殊だ。
主に下顎に複雑な関節を持ち、自分の口より大きな獲物を丸呑みする際に収納された顎が前に突き出て、そして横に大きく、それこそ花のように開くのだ。
しかしそのため顎部周辺の皮膚は伸縮性を持たせる必要があり、鱗で固めてしまうわけにもいかない。結果、今のように刃物が簡単に通ってしまう。
捕食のために進化したはずの機構。それが弱点になるなんて彼らも思いもしなかっただろう。
口内に侵入した鋭い異物を追い出そうと、血が零れるのも構わずにニーウェルムはじたばたと暴れる。しかし体長に比して極端に短い手足は碌に相手に届かず、稀に掠った爪もユリシスがまとった魔物の毛皮に阻まれる。
痛みの原因を追い払おうと必死に暴れるニーウェルムをそのままに、ユリシスは顎から喉へと更に縦に裂くように刃を這わせた。
がちり、がちりと、口内に満遍なく生える棘のような牙とぶつかりながら、そしてそれを避けながら、容赦など知らない刃は深々と進んでいく。
しかし喉に近づくにつれて硬くなる鱗と、そして多くの動物には見られない、独特な顎の骨に阻まれる。
だがその程度ではまだまだ止まらない。
表皮ごと断ち切るのは早々に諦め、より深くへと鉈を侵入させるため、ユリシスは自身の腕すら血肉に突っ込んだ。
ぬたつく口内の感触を前腕いっぱいに感じながらも、腕はずぶずぶと沈んでいく。
ここまで喉に近いとさすがに牙も少ない。
長大な刃は舌の付け根を切り落とし、切っ先がとうとう上顎に到達した。
そしてそのまま口内を蹂躙すると、夥しい量の血が肩までを濡らした。
ニーウェルムは悲鳴も上げない。
いや、彼なりの悲鳴なのだろうか、こするような鳴き声を上げて、その長大な体をのたうち回らせることでとうとうユリシスを突き飛ばした。
「っと」
ユリシスは雪の上を転がることになるも、しっかりと受け身をとって立ち上がる。
それは相手も同じで、絡まりあっていたトカゲ達も、深手を負ったはずの一匹すらも威嚇をしながら態勢を立て直す。
シルワトローやファルレムス、そしてインカーヴィスとはまったく異なる静かな威嚇。
突き出した口が縦に割れ、撓んだ皮膚が引き延ばされる。
一瞬にしてぬめるピンク色の花が咲き、返しの付いた無数の鋭い雄蕊と、紫色の長い雌蕊がちらちらと蠢く。
何度も開閉する肉の花。
それに不気味さを覚えないわけでもないが、竦みもしない。
ユリシスは無言で鉈を向けることで応じた。
引き抜かれた腕は真っ赤に濡れている。腕から伝わる感触に、気持ち悪さを感じるほど既に無垢ではない。
相手にとっては同胞の血肉。それを次はお前だとばかりに見せつける。
相手もさすがにその程度に怖気づかないようだ。四匹のニーウェルム達は先を競うように向かってきた。
四連続の突進。しかしそれらをユリシスは危なげなく躱し、手傷にもならないだろう、軽く振るった鉈をぶつけていく。
頑強な鱗は刃を通さない。それでも衝撃ばかりは伝わるようで、ニーウェルム達は何度も怯む。
飛びかかり、爪を振るう。這いより、噛みつきを繰り出す。
そのどれもが躱され、躱されては頭を叩かれる。そんなことを繰り返していては、次第に襲い掛かる頻度も下がっていった。
ほどなくして、ニーウェルム達はじりじりとユリシスを取り囲むだけで手も出さない、にらみ合う状態へと移行していた。
そこには一匹の獲物もしとめられないことへの困惑と、ユリシスを――人間に対する認識の混乱とが入り混じった顔が並んでいた。
「知らないもんな、お前たちは」
ユリシスがこれだけ優位に立ちまわれているのには当然理由があった。
至極単純な理由だ。
全部知った動き、見慣れた動きなのだ。
幼体でその存在を、体の構造を、そしてその習性を知った。
雪洞での時は捕まえるためだったが、雪から飛び出るタイミングなども彼らで覚えた。
更に、洞窟から出てからというもの遭遇する魔物はもっぱらこのニーウェルムだったのだ。何度も相手をすればさすがに慣れる。
ユリシスにとってニーウェルムはもはや面倒なだけで、負ける相手ではなくなっていた。
対して相手はどうだ。
雪山を歩く人間なんて滅多にいないだろう。
少なくともメイル村ではそうだった。もしかしたら彼らが相手をする人間は、ユリシスが初めてなのかもしれない。
だからこそ、彼らは人間の脅威を図りかねているのだろう。獲物を取り囲んでいるというのに攻めあぐね、内一匹は致命に近しい傷すら負っている。
勘違いしてはいけないのは、〝複数を相手取っても勝てる〟わけではないということ。
確かに、〝単体〟相手ならば彼らに後れを取ることはもうないだろう。そう確かな自信があった。
だが、相手は群れ。
数はそれだけで脅威だ。
そして耐久力。
頑丈な鱗は手元の刃程度では破れない。先のように弱点を突けばまた話は変わってくるが、隙をつかなければ目や顎の裏なんて到底狙えない。一匹ずつならばともかく、二匹以上いるのならそうそうその隙もつけなやしない。
つまりユリシスが生き残るには、このまま人間が対等以上の存在だと連中に勘違いさせなければいけない。
相手のほうから退かせなければいけない。
――なかなか厄介な条件だ。
ちろりと唇を舐めると、少し鉄の味がした。
努めて余裕であることを演じ続けなければいけない。強者であることを見せつけなければいけない。
その手段の一つとして、周囲をぐるぐると這いずるニーウェルムに対し、ユリシスは纏っていた毛皮をわざと開く。
ちらと胸元が覗く。そこにあるのは革の胸当てや衣服ではなく。
巻き付けられた〝白い鱗〟が露わになった。
連中に、目に見えた動きはない。しかし、こするような音が激しくなった。明らかに警戒心を上げたことは、感じ取れる。
それはニーウェルムの皮。ニーウェルムの鱗だ。死骸から剥ぎ取って、服の上から巻いただけのもの。ただそれだけであったが、噛みつかれても爪を立てられても防いでくれる優れた鎧になってくれる。そう期待して身に着け始めた。
しかし今においてその役割は身を守ることではない。
それは勝者の証だ。
お前たちの仲間を殺したのだぞ、お前たちをも殺せるのだぞという、無言の威嚇。
その有用性に気づいたのはまったくの偶然だった。
以前ニーウェルムと相対している際、突風でも吹いたのだったか。目に飛び込む雪飛沫につい顔をかばってしまったことがあった。
足を止めるどころか目を離すなど襲ってくださいと言っているようなもの。
しかしその時ユリシスの脳裏に過った結末は訪れるようなことはなく、風も止み取り戻した視界に映ったのは何かに怯んだような様子のニーウェルムだった。
突風に外套が捲れ、下に纏ったものが見えでもしたのだろう。
それから同じように純白の鱗を見せつけてみれば、何度かはそれだけで逃げ出したものもいた。
逃げ出すまではいかずとも、動きが鈍ったり、こちらから離れても追ってこなかったりと、それなりの効果を上げていた。
連中に同族の死を悼むような協調性があるとは――これは偏見かもしれないが――あまり思えなかった。動物は死に――いや、自分の命を危険にさらすかもしれない〝何か〟に対してとても敏感だ。
同族の死骸を見せつけるという一見間抜けに見えるような行為も、相手にとっては彼我の強さを測る指標として十分だったのだろう。
今回もまた、ユリシスの目論見は今のところ成功している。
現に、ユリシスの周囲を取り巻くばかりで襲い掛かってくるニーウェルムは一匹もいない。
いや――一匹だけいた。
逆上したように大口を開け、這いずるように、地を滑るように、一匹が飛び出した。
真っ白な地面に赤色をまき散らす不届きもの。
先ほど手傷を負わせた一匹だった。
深手の筈なのだがまだ体力に余裕があるのか、それとも最後の悪足掻きか。
動きに衰えた様子もなく、ユリシスは内心舌打ちをした。
手負いの獣は恐ろしいとはよく言ったものだ。
幸い残りの三匹は様子見を選んだらしい。
しかしそれもユリシスの立ち回り次第だ。
へまをすればたちまち静観は破られるだろう。そうなればもう目も当てられない。
ごまかせ。
対等以上に渡り合え。
決して弱みを見せるな。
迫るニーウェルムがまとうのは、爬虫類然とした、無機質さすら覚える冷たい気迫。白い肌に垂らされた血化粧が悍ましさを演出する。
恐ろしい。
どれだけ慣れても恐怖ばかりは消えてくれない。
しかし今更恐怖がどうした。手も、足も、震えなんて起きやしない。
生命の頂点たる竜や、地中に潜む圧倒的な捕食者。彼らに比べたらトカゲの一匹程度に感じる恐怖など微々たるものだ。
侮りではない。どこか壊れた価値観でもって、立ち向かえない相手ではないとはじき出しただけだ。
すぐ目の前にまで迫ったニーウェルムを、ユリシスは余裕をもって回避する。
すっかり固くなった雪は体重を掛けても崩れもしない。
一拍遅れて、先ほどまでユリシスの顔があった位置に〝二段階〟に顎が突き出された。
この口の構造のせいで間合いが図りづらいのだ。だからこそ噛みつきは大きく避けて、当たらないことを重視する。
ばらりと風穴の空いた口が開き、血飛沫を飛ばしながら牙をむく。
しかしそこには獲物はいない。大口は空を掴むばかりだ。
それに怒りでも覚えたのか、体のどこかから鳴らすこすれるような威嚇音が勢いを増す。
ぐるりと真ん丸の瞳孔が蠢き、獲物を再び補足する。その間どれだけの空白があっただろうか。
ユリシスを補足するや否や、ニーウェルムはすぐさま噛みつきを繰り返す。しなやかな首を地を歩く鳥のように振り、まるで小突くように何度も突き出す。
そのたびに喉元から血が噴き出るが、まるで構う様子はない。
本格的に、死を覚悟しているようだった。
それを理解したユリシスは厄介だと眉を顰めた。このまま避けているだけで相手は死ぬだろう。しかしそれで回りの連中が諦めるだろうか。
最悪、反撃もできずに逃げ回っていただけと受け取られるかもしれない。
やはりこちらからも打って出る必要があった。
――しかしどうやって?
手に持つ鉈では鱗という鎧を断てない。純粋な力も劣るため、押さえつけて弱点を、なんてことも不可能だ。
ああも素早く動かれては隙も何も無い。スタミナ切れは恐らく時間切れ。つまり相手が死ぬ時だ。
打つ手がない。
そう思われたとき、ユリシスの頭にふとある光景が浮かんできた。
それは自身より強大で、力も圧倒的な存在に挑む勇気ある者の姿。
緑の巨躯に駆け上る、獣の姿。
懲りずに突き出される口を、ユリシスは今度はすり抜けるようにして躱した。
その行動の変化にニーウェルムは戸惑ったのか一瞬だけ動きが止まる。それを、ユリシスは見逃さなかった。
白く滑らかな体。
触ってみるとてらてらと油が塗られたかのように手が滑り、そして意外なことに細毛が目立つ。
細いが、力強く波打つ筋肉の塊は〝乗り心地〟がすこぶる悪い。
そう、ユリシスはニーウェルムの背に跨った。
「大人しく、しろっ!」
そして、振り乱れる頭を掴み――ぎょろぎょろと動く目玉に向かって――鉈を突き刺した。
ずぷり、と何の抵抗もなく滑りこんでいく感触。肉をかき分けるのとはまるで違う、悍ましい感覚に薄っすらと寒気を感じた。それでも手は緩めない。どれだけニーウェルムが暴れまわろうと、手は離さない。
やたらめったらにのたうつ体の上で、振り落とされないようにしがみつきながらもぐっと刃を押し込む。柔らかな水晶などすぐに貫き、次いで硬い何かすらを貫通する。
そのまま悍ましさを堪えながらも中身を探るように掻き分け、そして反対側の目から刃が飛び出そうという段階になって、ようやく鉈を引き抜いた。
ニーウェルムはいまだ止まらない。
しかしそれは考えての行動とも、本能によるものとも違う。
生理的な反応。
ぴくぴくと痙攣し、先ほどまでの動作を続けているだけ。
用は済んだとユリシスはのたうつトカゲの背から飛び降りた。
周囲で様子見していた連中は――どうやら既に逃げ出した後のようだ。
条線を新たに刻みながら遠ざかるのを眺めながら、ユリシスは高ぶった心臓を落ち着かせようと深呼吸を繰り返す。
かえって、血生臭ささにむせ返りそうになった。
「……っはぁ」
達成感などまるでない。
どちらかというと不快感ばかりが残った。
いまだに気味の悪い感触が手を覆っている。
視線を自らの手へと落とせば、真っ赤な手が今更ながらに気味悪く見えた。
思考を振り払うように、ようやく止まった肉塊を背に。
ユリシスは遥かに広がる雪原だけに意識を向ける。
真っ白な大地に延びる唯一の模様をぼうっと目で追うと、雪の深くなっているところでもあったのか、這い跡も残さずすっかりと潜ってしまった。
これからもニーウェルムと遭遇することはあるのだろう。
それでも、あの三匹とはやり合わないだろうな、とぼんやりと考えていた。
先の悍ましい生存競争を見て、彼らもユリシスが自分に抗しうる生き物だと認識したはずだ。
ならば、わざわざ襲っては来まい。
何せ、彼らは狩りのために命の危険を冒す必要がないからだ。
活動する者の少ないこの季節、冬眠しない者たちはきっと餌を探すのに苦労しているのだろう。
しかし、ニーウェルムたちは別だ。彼らは冬の魔物なのだから、それにふさわしい狩りの仕方がある。
獲物をうまく探す手段だってきっとあるのだろう。これまで出会った小型の魔物と比べて、あれはほとんど飢えた様子を見せなかったのだから。
なら、単に弱い獲物を狙えばいいし、無防備な冬眠中の獲物を狙ったっていい。
彼らにはそれができる能力がある。そう進化している。
「あいつらも、ただの生き物なんだよな」
呟きに込められた意図は、吹き付けた寒風に攫われていった。