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12/22

12:力の化身



 ゴオオォォォッ――と、およそ形容しがたい咆哮をあげながら、緑の巨体が力を示す。

 岩をも砕く剛腕が振るわれ、大地を割った。


「うわっ!」


 衝撃だけでユリシスはまたしても大地の上を転がされた。転がるたびに地に散らばった石ころが衣服を破らずとも体に突き刺さり、苦痛にもだえる。


 だが、その程度ならばどれだけましか。


 体勢を立て直したユリシスはすぐに視線を上げる。インカーヴィスの次の動作に対応できなければ高い確率で死に至るかもしれないのだから。

 しかしユリシスの目に映ったのはわざわざ恐怖を演出するかの如き光景だった。


 もうもうと立ち上った土煙が晴れ行く中、大地を叩いた覇者の拳がゆっくりと持ち上がる。硬い大地に向けてあれだけの威力を発揮した一撃だというのに、その拳、その爪は折れるどころか傷一ついていない。

 爪からはどろりと血液が伝い、粘つくような不快な水音がユリシスの鼓膜を舐めた。


 何を潰したのかを、瞬時に理解させてくれた。


 残り、三匹になった。



 体が強張るばかりのユリシスとは正反対に、ファルレムスの喚き声は一層激しくなる。

 灰色の毛を逆立てて、息を荒げさせて。犬歯をむき出しに、知性すらも振り切ったのではないかと思わせるほどに狂気的な眼光を揺らして。

 仲間を悼んでのことではない。生きるためのささやかな、されどこれ以上ない抵抗だ。


 しかしそれも、無慈悲な強者は喉を鳴らして軽く吠えるだけで黙らせた。



 まさしく、災害のような理不尽さ。

 先ほどまで命のやり取りをしていたはずのファルレムスの脅威など、今となっては霞んで見える。

 決して挑んでいい相手じゃない。それも、ナイフ一本なんかで。対等なんておこがましい考えは露にも浮かばない。だからこそ、ただの弱者でしかないユリシスがとるべき行動は逃げの一択しかなかった。

 だが、


――逃げるって、どこからさ!


 横穴の入り口は右前方。

 そして〝新たにできた〟出口は真正面。


 そのどちらもがインカーヴィスの傍を通り過ぎなければたどり着けない位置にあった。


 頭を抱えたくなるほどに状況は最悪。この場の一匹も逃がさないつもりなのか、立ち塞がるように出口付近に居座るインカーヴィスはやけに余裕そうだ。


 同じく逃げようと考えていたのだろう、一匹のファルレムスが横穴の手前の出口めがけて駆け出した。しかし、そんな彼の前に刃物のように鋭く、そして鞭のようにしなやかな長い尾がゆらりと立ち塞がる。

 今にも周囲のすべてを薙ぎ払いでもしそうなそれを前に、ファルレムスは尻込みしたようだった。悔しそうに唸りながら、また元の位置にまで後ずさるしかない。



 グルグルと喉を鳴らす竜を前に、さしもの狩人どもも手詰まりらしい。ギャアギャアと、やけに弱々しくなった威嚇をしながらじりじりと後退った。


 奇しくもそれはさっきまでのユリシスと同じ状況だ。


「くそっ、こっちに来るなよ……!」


 そして追いつめられる場所も同じ。


 一か所に固まってしまえばインカーヴィスもわざわざ狙いを絞る必要もない。その剛腕でも大顎でも長い尾でも、その巨体から繰り出される攻撃は容易く追い詰められた弱者たちを一網打尽にできるだろう。


 巻き込まれてしまうのはごめんだ。だが、既に背には壁。これでは逃げる場所もない。

 せめてと逆立てられたファルレムスの大きな尾に身を隠し、一番の標的に選ばれないようにするしかできない。


 どうすれば生き延びられる?


 焦りも一周回って落ち着いた思考が活路を探る。これ以上ないほどの危機的状況を前にユリシスも最大限己の知恵を絞り出すも、碌な道筋を見いだせない。

 綺麗にくり抜かれた広場には隠れる場所もなければ抜け道もない。

 出口は巨体が通せんぼしている。


 こちらの出方をうかがい、首をもたげる姿には隙がない。


 いや、


――なんで攻めてこないんだ?



 もしや本調子ではないのか?

 これまでじっと成り行きを見守っていたユリシスはふとそんな疑問が頭に浮かんだ。

 悠然としているように見えたインカーヴィスは実は動けないだけなのではないか、そう考えてしまったのだ。


 パニックになった思考が生み出した都合のいい解釈なのではないか、そう冷静なつもりの自分が精査するも、これといった反論も出てこない。

 それ以上に、降って湧いた希望を補強するかのように進言する始末だ。


「……そうか、目覚めるには早いもんな」


 春はまだ先だ。

 インカーヴィスが冬眠していたというのなら、中途半端な時期に起こされてしまったわけだ。きっと侵入者どもが騒ぐから起きてしまったのだろう。何せ、洞窟はよく音が響くのだから。


 そう、正しいかどうかもわからない推測を述べる。


 今はインカーヴィスにとって本来活動する気候でもない上に、長い眠りから目覚めたばかり。

 冬眠明けの蛇やカエルは動きが鈍い。それが魔物にまで――竜にまで当てはまるとは考え難いが……。



 根拠もなければ自身もない。裏付けるための知識もない。

 万に一つしかない可能性に賭けるような、そんな無謀な博打に思えて仕方ない。


「……まだ、まだチャンスはあるか」


 しかし、ゼロが一になったのだ。なら何を躊躇う必要がある。


 本気を出していないのではなく、本気を出せていないのなら。

 ゆっくりとしか動けないというのなら。

 ならば、たった一撃さえ避けてしまえば、少なくともこの横穴くらいからは脱出できるかもしれない。


 ただの博打だ。それもとびきりハイリスクの。

 それでも、縋る希望ができてしまえば自然と体には力が戻る。

 自身の狙いを悟られないように体は縮め、足には力を込めていく。


 まだだ。まだ先だ。機を待て。

 そう焦る心を宥めすかし、じっと待つ。


 最善は、先のように大振りな動作。地を割るほどに力の込められた一撃。

 その場合問題は撒き散らされる衝撃だが、それはもう耐えるしかない。



 気配すら絶とうとユリシスが励む中、一際大きく吠え、唐突に一匹のファルレムスがインカーヴィスへと挑みかかった。


 無謀だ、無茶だ。その選択はするべきではない。


 他人事なのに、命の取り合いをしていた魔物相手だというのに、心の中では思わずその行動を諫めてしまう。妙な親近感さえ芽生えているというのはあながち間違いではない。

 しかし、さすがに魔物に絆されることはない。それは偏に、この極限状態の中での勇気ある姿は、それが最善だと錯覚させうるものだったからだ。

 たとえ、蛮勇であったとしても。

 その表れか、続くように残り二匹も動き出す。


――まだだ。


 飛び出しそうになる体をぐっと抑える。


 勇気ある挑戦者たちを迎え撃つように、インカーヴィスは咆哮でもって応えた。

 空に穴が開きそうなほどの大音声が大気を揺さぶり、どれだけ構えていたとしても体が委縮するのを避けられない。それでも、込めた力だけはそのままだ。


 一番に飛び出したファルレムスに対して、インカーヴィスは頑強で、攻撃的な鎧をまとった長い首を差し向けた。粘つく空気を引き裂くように、咆哮を伴った噛みつきが一匹を弾き飛ばす。


 ガチリ、と金属すらも捩じ切る牙が、肉を裂く音も、骨を砕く音をも咀嚼する。


 蛮勇の行く末はひどく呆気ない。


 結果出来上がったのは物言わぬ骸。

 首をもがれたファルレムスは血をまき散らしながら無残にも壁に叩きつけられた。


 しかしそれを見ても残った二匹は止まらない。止まれない。むしろ冷静さを取り戻したかのように器用にインカーヴィスの巨躯を駆け上がり、硬い鱗に爪を、牙を立てる。

 痛手にもならないだろう攻撃。それでも鬱陶しいのか、インカーヴィスは背に乗る二匹を振り払うように重たい体を勢いよく捩じった。

 巨体が持ち上げられ、勢いのついた回転にはそれに見合った反動が――硬直が生まれるだろう。


「――今っ!」


 ユリシスは小さく、しかし力強く吠えると、足に込めていた力を爆発させる。硬い大地を勢いよく蹴り、弾けるようにして飛び出した。


 そんなユリシスに迫るのは回転する体に合わせてしなる尾。勢いの乗ったそれに当たれば怪我では済まない。だが、今のユリシスはインカーヴィスの視界外。背を向けた彼の竜にとって察知不可能な行動のはず。


 そうして、攻撃ではなくただの動作を、無作為に振るわれたそれをユリシスは紙一重で飛び越え――




「――がっ!!」


 そして、波打つようにうねり、巻き戻った尾の先が痛烈に背を打った。


 それは人間の小さな体では到底耐えきれるようなものではなく、ユリシスは払われた虫のようにゴロゴロと地面を転がった。

 受け身も何も取れやしない。

 横殴りの衝撃に骨が軋み、ぐわんぐわんと頭が揺れる。目の奥で激しく火花が散った。


 幸い勢いが殺されていたおかげでくの字に真っ二つ、ということにはならなかった。それでも余りある威力にユリシスは立ち上がることができず、咳き込む口からは粘っこい血の塊が吐き出される。

 喉の奥にへばり付いた血が絡んで息苦しい。

 息を吸い、吐き出す。たったそれだけの動作で胸が焼けるように痛む。



 狙った攻撃ではなかった。


 現に、インカーヴィスはいまだに纏わりつくファルレムスを引きはがそうと暴れまわっている。

 動くたび、腕が、脚が地を叩くたびに大地が揺れる。大気が軋む。そこに無様に転がる人間一人に対する意識なんて微塵もない。


 それを目で直接見ずとも理解し、這いつくばっていたユリシスは立ち上がることも諦めて這うように、転がるように出口を目指す。


――もう少し、あと少し……


 奇しくも弾き飛ばされたおかげで随分と距離が稼げた。

 チカチカと歪む視界はぽっかりと開いた暗闇を、手を伸ばせば届きそうなほどに近くなった出口だけを映す。

 無防備に背を晒していることに気付くこともできない。

 ひたすらに前へ進むことだけしか頭にない。

 飛びそうな意識も、死ぬわけにはいかないという強迫観念が握って離さない。


 とうとうたどり着いた出口の壁に手をつくのと同時に、インカーヴィスの咆哮が洞窟内に木霊する。

 ビリビリと肌を揺さぶり、背に疼く。

 急げ、急げと掻き立てる本能に任せてユリシスは壁を頼りに立ち上がる。ズキリと背に走る痛みは失神を許さず、静止しそうな体をかえって動かしてくれる。


 ようやく立ち上がったユリシスが肩越しに振り返って見たものは、こちらに背を向けた巨躯と、いつの間にか地に降り立ち、ちょこまかと動くファルレムスたちの姿だった。


 必死に噛みつきを避け、薙ぎ払われる尾を飛び越える姿。


 自分を追い詰めた相手。

 憎い魔物。

 それでも、


――ありがとよ。


 彼らのおかげで一人横穴から生還できた。

 ユリシスは初めて魔物に感謝した。



 ***



 どれだけの間歩き続けていただろうか。


 背に受けていた騒音は今や鳴りを潜め、洞窟内は初めの静けさを取り戻していた。それはケリがついたからなのか、それとも音も届かぬほど遠くまで来たからなのか。どちらかはわからないし、確かめる術はない。


 暗闇の世界では時間間隔など曖昧で、疲労具合で測ろうにも体はずっとぼろぼろだ。

 体感だけを頼りにすると、半ば壁に寄りかかるようにして歩いているためか碌に距離も稼げた気がしない。


 おまけに辿った道筋も一歩歩けば闇に飲まれるのだ。振り返ったところでそこは底なしの闇。

 進んでいるように見えて、何も変わっていない、歩く力が残っておらず自身の願望が見せる光景なのではないか。そう疑念を抱いてもおかしくはない。


 進むべき道も、戻るべき道もない。そう錯覚しそうな世界を、ユリシスはひたすら壁伝いに歩いていた。


 道など選ばず、行き止まりに当たらないよう、愚直に進む。ただそれだけの作業がひどく苦しい。

 一歩踏み出すたびに体が軋む。

 ドクンドクンと脈が跳ねるたびに体中の節々に鈍痛が走る。

 いくらか楽になったとはいえ、背中の激痛はいまだ消えない。

 しかしこうして歩けている以上、骨が折れるようなことにはなっていないはずだ。


 無事だったのは、あれが意図したものではなかったことと、そして背負っている革袋が緩衝材の役割を果たしたからだろう。

 動物のなめし皮で作られた頑丈な、そして大きな革袋には食料やもろもろの道具に加え、丸めた毛皮が詰め込まれている。


 いくらかダメになっていそうなものもありそうだ。ぼんやりとそう考えてみるも、残念という気持ちは一切わいてこない。あの場を切り抜けられたというのなら安いものだ。


 そう、生き延びたのだ。

 二重に襲い掛かった絶望を切り抜けて見せた。そして、今も生きている。

 ユリシスが痛みに屈さずにいられるのも生への執着からだ。命をつなげた達成感からだ。


――二度目はないだろうな。


 そして無情な考えが水を差す。

 事実、インカーヴィスから逃げられたのはファルレムスの存在が強く影響している。そしてインカーヴィスが〝寝起き〟だったことも。

 幸運が幾つか重なっての生還だ。

 もっとも、吹雪に見舞われ、狡猾な狩人に襲われ、圧倒的な強者に目をつけられた時点で不幸と言って差し支えないだろうが。


「そういえば、やけにあいつらに固執していたな」


 粗ばかりをつつこうとする思考を断ち切るように、ユリシスは敢えて疑問を声に出した。

 たったそれだけでひきつるように体が反応するが努めて無視をする。


 幸運といえば、ユリシスが標的にならなかったこともそうなのだ。静まり返った洞窟内を振り返る必要もない。今も、取り逃がした人間一人を追ってきている気配はなかった。

 先ほどまでを思い起こすと、終始インカーヴィスは自身を視界に入れていなかったような気すらしてくる。


 ユリシスよりよっぽど目立つ者たちがいたから。普通に考えればそれだけではある。

 立ち位置的にもそうだったし、身を潜めていたユリシスと正反対に、ファルレムスは果敢に挑みかかっていた。

 インカーヴィスが現れた時にファルレムスの死骸を咥えていたことを考慮すると、彼らの仲間が何かをしたとも考えられる。

 つまみ食いでもバレたのだろうか。


 インカーヴィスにとって人間は未知の存在だったから、なんてこともあるのだろうか。


「……なさそうだな」


 小型の魔物ならいざ知らず。あの場での圧倒的強者は彼の竜だった。あれが何かを恐れるなど、警戒心を露わにするなど想像できない。


「でも、そうか。人間は未知か」


 猿顔などのメイル村周辺の魔物は何度も人間と遭遇し、そして脅威になりえないと知ってしまっている。だから人間を見つけると何も恐れず向かってくるし、追い払おうとしても執着を見せる。彼らにとって人間は既に餌なのだ。


 なら、それを覆せば?

 まっさらな状態で、自身を殺しうる存在なのだと知らしめれば?



「さすがに、楽観しすぎか」


 そこまで考えて、思考がもはや思い込みに近くなっていることに気づき区切りをつけた。

 獰猛で、通常の獣を遥かに超える力を持つのが魔物なのだ。

 たとえ警戒に値する相手だとして、天敵に位置する相手だとして。大人しく引き下がるだけの魔物がどれだけいるか。


 自然、竜に飛びかかる、無謀な狩人の姿が思い起こされる。あれは追い詰められたゆえの行動だろう。しかし時には竜にすら挑むのだ、過度な期待はしないほうがいい。


 前向き、というのも考え物だ。線引きを誤ればそれは油断や隙になりかねない。




 そこからはまた無言だった。

 痛みにもようやく慣れ始め、歩みも淀みが無くなっていく。

 先の見えない暗闇をただ無心に歩き続け――


――ふと、頬を何かが撫でた。


「風……」


 冷たく、そしてどこか爽やかさを感じさせる穏やかな風。

 ふらふらと導かれるようにして、ユリシスはとある一方向を目指す。

 たどり着いたのは横穴でもなんでもない、強いて言うならば急な曲がり角。道なりにいくらか続いていそうであるが、ユリシスはただ一点に目が囚われていた。


 曲がり角のちょうど突き当り。滑らかな岩壁。そして、縦に走った大きな亀裂。


「あった……」


 風の通り道。

 月明かりの通り道。

 そして、


「出口……!」


 ユリシスがずっと探していたものだった。


 遠い昔に壁面が崩れたのだろう、亀裂の表面は長い間風雨に晒されていたようにきれいに削られている。

 幅は頭一つ分といったところ。横向きにすり抜けるようにすればなんとか通れそうな大きさだが、途中引っかかるかもしれない。しかし、ユリシスは迷わずにくぐった。


 奥行きのある亀裂はやはり所々幅が狭くなり、通り抜けるのにやや苦労する。背嚢がひっかかり、蓑が破け、岩壁に肌が削られる。

 だがそれも奥へ行くほどなくなり、しまいには肩幅よりも広い道になった。


 終端にたどり着く頃には纏っていた蓑がボロボロになっていた。おかげで外からの風が寒々しい。


 耳を澄まし、顔をそっと突き出して外の様子を伺う。危惧するようなものは何もなく、静寂そのもの。魔物をはじめとした生物の気配はなく、吹雪どころか風も穏やかだ。


 月明りだけがやけに眩しく感じる。


 一歩、踏み出した。

 ざくり、と久々に聞く雪を踏みしめる音。

 くるぶしまで柔らかな雪にすっかり埋まった。

 吸い込む空気に肺が冷える。

 それでも、久々に味わう新鮮な空気に頭が冴え渡るようだった。



 出口の先は切り立った崖のようだった。

 崖の表面に亀裂が走り、出口となっていたのだ。

 すぐ先は急傾斜で、登るのも下るのも難しい。意識していなかったが、洞窟内が緩い傾斜にでもなっていたのか随分高い位置にいる。

 ほぼ山頂といってもいい。



 空を見上げると、吹雪が吹き飛ばしたのか雲も晴れ、青白い半月が悠然と佇んでいた。

 半日以上穴倉に引っ込んでいたからか、月も星もやけに近く感じる。夜なのに世界がこんなに明るいとは。


 そして、視線を下すと。


 思わず、見惚れた。

 目の前に広がるのは、どこまでも続く雄大な山々だ。

 青白い光に照らされ、白銀の化粧をした山脈は鮮烈とも、優雅とも、果ては妖艶ともとれる不可思議な、それでいて心を掴む美しさがあった。

 白金を振りかけたような大地は月光に淡く照らされ、時折巻き上げられる雪煙もキラキラと輝いて見える。


 村から見たものとも、実際に歩いていた時とも違う。まったく異なった山の表情。

 力強く、静謐で。

 すべてを受け入れるほどに寛容で、弱者を拒むほどに残酷で。

 数多の命を育み、そして無数の命を奪い去る。

 内包された世界を言い表すには言葉が足らず、しかしそのすべてがこの景色に詰まっているように思えた。



 しばらく呆けていたユリシスも、不意に吹いた大風に我に返った。

 いくら魔物の気配がないとはいえ、ぼさっと立ち止まっているなんて不用心極まりない。

 そう叱咤するように意識を切り替え、今自身がなすべきことを、これからのことへと思考を馳せる。


 ここからは少し下り、尾根を伝っていくことになる。

 崖の切れ目から緩やかな傾斜を伴って尾根が伸びている。縦横に幾筋も伸びる尾根は途中絡み合い交差していることから、どの筋道を通ってもデリアラス連峰は越えられるだろう。


 だがこの広大な山々のどこかにパント村を含めたいくつかの集落があるらしい。ユリシスの目的地はまずはその村々だ。しかし村どころか人の営みを感じさせるものは何一つ見当たらない。

 見下ろせないほど深い谷間にあるのか、それとも聳える山の向こうにあるのか。


「道からは、完全に外れたからなあ」


 もともとは商隊が使っているという道を行くはずだった。しかし魔物の襲撃というユリシスらにとって最大の不幸が訪れ、初日からその計画はご破算になった。ある意味、想定通りの事態でもあったが。

 それ以降も魔物から隠れるために道を選び、時には強大な魔物の縄張りすらも利用して歩みを進めたのだ。大きく道を外れ、今更正規の道を探そうにも時間と体力、そして資源が持たないだろう。


 この広大な山々のどこかにある集落を自力で見つけられるのか? そんな干し草の中から一本の針を見つけ出すような無理難題に、この吹けば簡単に命が消し飛ぶような大自然の中で挑むことに一体どれほどの勝算があるのだろうか。


「案外、素直に山越えを目指したほうが早いかもな」


 村を出た直後ならば、笑えない冗談だっただろう。しかし今に至ってはより現実的な〝生き残るための道筋〟に思えた。



 道のりは遠い。

 それでも。

 命ある限りは歩み続ける。

 命ある限りはあがき続ける。


 それが、生き残ってしまった自分にできる償いの方法なのだと信じて。


 ユリシスはまた一歩、白い大地に足跡を刻んだ。



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