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1:口減らし



 小さなナイフを握りしめた、まだ屈強とは言い難い手が小刻みに震えている。

 息一つつけば白い霧が舞う、そんな肌を刺すような寒さが原因ではない。


 確かに寒さは体力を奪う。なんの対策も取らなければ遠くないうちに凍えて命を落とすことになるだろう。だが、凍死の未来はまだ先だ。

 まだ体力には余裕がある。死を感じさせるほどではない。


 目の前にはもっと差し迫った危険があった。


 今すぐにでもどうにかしなければいけない、今すぐにでも尻尾を巻いて、なけなしの体力を振り絞って逃げ出さなければいけないほどの危険があった。


 そして、それが許されない原因もやはり目の前にあった。


 


 ――魔物。

 連中は獰猛で、そして狡猾だ。

 五匹の捕食者たちは獲物をみすみす逃すことのないよう袋小路に追い込んだ。そのまま獲物の前に壁でも作るかのように横並びに、じわじわと距離を詰めていく。

 彼らも久々の新鮮な獲物なのか、長く裂けた口からは堪え切れないとばかりにだらだらと涎を垂らしている。


 追い込まれた獲物、少年は壁を背にじりじりと後退する。

 逃げ場はない。

 広い洞窟の深部。周囲には横穴もなければ、よじ登れるような壁でもない。唯一残された活路はやはり前方のみ。

 四足の恐ろしい獣どもが陣取る真正面しかなかった。


 並の人間では絶望に膝をつき恐慌を起こしているだろう状況。しかしギラギラと光る眼には諦めの色はない。

 握りしめたナイフの柄がぎちりと歪んだ。

 薄暗がりにそっと光が差す。天井の割れ目から覗く月光に刃が鈍く煌めいた。


 勝たなければ食われて死ぬ。


 少年は、生きることを諦めるつもりなんて毛頭なかった。

 血にまみれても、肉をそがれても、骨を断たれても足掻くのをやめる気はなかった。



 お互いが生きるために刃を、牙を剥く。

 静寂だけが木霊する中、命がけの大勝負を前に――両者が吠えた。



 ***



 トスッと軽い音を立ててテーブルにバスケットが置かれる。被せ布を捲ると予想に違わず、しかし淡い期待に応えることもないなだらかな小山が目に入る。


「これっぽっちか」


 支給される食糧が明らかに減っている。

 厳然とした事実に落胆を隠せない。

 ドカリと荒っぽく椅子に腰を落として、この家の唯一の住人――ユリシスはため息をついた。


 以前はかろうじて黒パンと干し肉、そして干し野菜を貰えていたが、野菜は早々に消え、最近ではほとんどがパンだけ。それもバスケット一つも埋まらないほどの極わずかな量に減っていた。

 配給のペースは週に一度。

 つまり一週間をこの少ない食料でやりくりしなければいけない。

 いまだ成人していない子供の時分とはいえ、育ち盛りの時期にこれっぽっちの食しか得られないのはかなり厳しい。



 こんなひもじい思いをしなければならない理由は言うまでもない。

 食糧難だ。

 ユリシスの暮らすメイル村は数年前から厳しい食糧難に晒されていた。


 例年の冷夏や厳冬による冬枯れで不作が続き、村の蓄えは徐々に、しかし目に見えて減っていった。だがそれだけであればまだなんとかなった。もとより寒さの厳しい土地柄なため、メイル村で栽培する作物も気候に合わせたものが主となっていたからだ。

 それゆえ貧しい冬を過ごすことこそ幾度もあったが、これほど貧困に喘ぐようなことはなかったのだ。


 しかし今回ばかりは話が違った。

 去年の秋の中頃から暫くの間、毎日のように大雨が続いた。

 それがトドメとなった。

 今までにない長期間の大雨は畑を冠水させ、秋以降に作付けされた作物は悉く根腐れを起こしてしまった。おかげで今年は頼みの綱であった麦すらもろくに収穫できなかった。


 農作物が壊滅的な被害を受けた上、山の幸はある事情ゆえ少量しか得られない。


 家畜もあてにできない。

 自分たちが食うに困っているくらいだ。飼料を捻り出すことなんてできやせず、痩せ細った家畜をすべて潰すことでわずかばかりの肉を得ることになった。

 これからはまた一から育てるか、それか外から買い付けるかしなければもう乳も卵も得られない。


 不測の事態に備えた穀類の貯蔵も心もとない。

 村に大小四つある蔵の中身は二つはすでに空っぽ。蔵番ではないため実際のところはユリシスのあずかり知るところではないが、出入りする者たちの険しい顔を思えば残った二つも村人全員を満足に養えるほどの量が入っているとは到底思えない。



 外部に助けを求めることもできない。

 メイル村は辺鄙なところにある小さな村であるがゆえか、他所の集落との交流も絶えて久しかった。

 時折訪れる行商人もこの大雪の中では来ることはまずないだろう。そもそも彼らがメイル村を訪れるのはおおよそ春先か夏だ。

 せっかくのお金も使いどころがなければ村の金庫で埃をかぶる一方だ。保存食の類の品揃えが豊富だったなら、前もって買い込んでおくこともできたのだが。


 こちらから外へ買い付けに行くこともやはり不可能だ。

 理由としては大雪もそうだが、そもそも自分たちには村を囲む厳しい自然を超える力を持っていないのだ。


 集落同士をつなぐ安全な街道なんて上等なものはなく、不用意に村の外を出歩けばすぐに大自然の脅威が牙を剥くことになるだろう。

 辛うじて歩きなれた林内や山道ですら命がけだというのに、それよりも深く入り込もうものなら、まして険峻な山々を超えようなんて思おうものなら命がいくつあっても足りはしない。


 誰しもがそれを理解している。

 同時に、それが満足に山の恵みに与れない理由でもあった


 群れを成し、社会を形成し、そして文明を築いた人間であっても、自然の中では被食者にまで落ちていく。強大な〝捕食者〟である〝魔物〟の存在が、人間が自然を制するのを阻んでいるのだ。

 それこそ行商人がするように、商隊を組み、傭兵や冒険者など多数の屈強な護衛を雇いでもしなければならないくらいに。

 当然、そう腕の立つような人間はこの小さな村にはいない。



 内で得られる食糧には限界が来た。

 外からも手に入れることができない。

 メイル村はもはや八方塞がりだった。



 ***



 すっかり固くなった黒パンを砕き、その一かけらをしゃぶるようにして口に含む。段々とふやけていくそれは少し酸っぱいくらいで味気ない。バターやチーズなんかがあればよかったのだが、家畜の乳が出なくなったのは遥か昔。備蓄も使い切り今やせいぜいどこかの家が後生大事に搾りかすのような量を持っているくらいだろう。


 どの家も食料に余裕はない。

 少ない村の備蓄を皆で分配して何とか食いつないできた。

 それを理解しているからこそこれまでの細々とした食事も我慢できていた。飢えているのは自分だけではない。村全体の問題で、皆が我慢して、皆で乗り越える危機だと思っていた。


 しかしそれもどうやらここまでのようだ。

 この村にはもう全員で生き残る方法なんて残っていないのだろう。


 おそらく自分は、切り捨てられた。



 ***



「出稼ぎ、ですか」

「然様」


 日のすっかり没した後、幾人かの供を連れて老齢の男性がユリシスの家へと訪れた。


 日に焼けて浅黒くなった肌に、瑞々しさを失った白髪。かつては村一番の力持ちだったと聞いているが、今はもうその見る影もない猫背の、こじんまりとした男性。しかし年を経ても、いや年を重ねたからこその胆力を感じさせる彼はこの村の村長であった。

 名はダヴィドという。

 親を失ってからというもの、ユリシスがよく世話になり、そしてよく慕っていた相手でもあった。


 しかし、手を伸ばせば届くような、そんな小さなテーブルに向かい合うようして座る二人の間には温かみも、そして冷たさもない。


 なけなしの蝋燭と、彼らが持ってきた夜道を照らしていただろうカンテラの火だけが色を持つ。


「知っての通り、この村には全員を十分に養っていくだけの余裕はもはやない。そこで皆の中から何人かを選び、外の世界で働いてきてもらうことに決まったのだ。来年もまた厳しい冬になるだろう。それまでに銭を稼ぎ、食料を買い、この村に戻ってきてほしい、とな」


 橙色の火に照らされたダヴィドの深い皺だけがよく動く。

 一方のユリシスは全くの無表情であった。

 彼が話している間、前に見た時より随分皺が増えたなと、無表情の下でそんなことばかりを考えていた。

 話の内容にしっかりと耳を傾ける必要もない。ダヴィドが訪問してきた時点で既に要件は察していた。つらつらと述べられるお題目に意味なんてない。


 出稼ぎなんてのは最低限の体裁でしかなく、結局はただの口減らしの宣告なのだ。



「お前は、もうすぐ十五になるのだったか」


 ふと、ダヴィドが昔話でもするような口調で語りかけた。


「冬が明ける頃には」


 そしてユリシスの返答に、そうかそうかと顎鬚を揺らす。その様は、こんな状況でもなければ孫の成長を喜ぶ好々爺のように見えただろう。


「お前が生まれたのも、こんな雪の多い冬だったな」


 懐かしむように、ダヴィドは目元の皺をより深める。

 ユリシスが生まれた日など、何十年も生きてきた彼にとってほんの一瞬のような時間だったはずだ。それもユリシスはただの一村人に過ぎない。そんな子供一人の誕生を覚えているのは、常に村のことを考えて生きてきた彼だからこそだろうか。


「自分は覚えておりませんが、父からはそう聞いております」


 厳しい冬が訪れる度、ユリシスの父は彼が生まれた時のことを語ったものだった。思い出を語るために。物心がつく前に亡くなった母親のことを聞かせるために。


 冬はユリシスが生まれた季節であり、母が亡くなった季節でもあった。

 流行り病が原因だったそうだ。

 妻を若くに亡くし、男手一つでユリシスを育てた父は、物静かで、頑固で、不愛想で。

 しかしどこまでも優しい人だった。

 そんな父も、二年前に逝ってしまった。


「小さい頃からお前はよく働いてくれたな。大人がやるような仕事に混ざって、力仕事から雑用まで。まだ遊びのほうが大事だった年ごろだというのに」

「うちは働き手が足りなかったので」

「そうだったな」


 暫しの沈黙が流れる。

 カンテラの火だけがちらちらと動く。オレンジ色の光が寂しい空間を照らしていた。


 ユリシスから口火を切ることはない。彼はもう、ダヴィドの言葉に従うほかないからだ。

 だからこそ、じっと待つ。

 無表情のまま、その無情な決断を、決定的な一言がダヴィドの口から告げられるのをただ待つだけだ。


 暖かくも冷たくもない、凪のように静かに透き通った琥珀色の目が映す老人の姿は、酷くやつれて見えた。


「……お前も、もう大人だ。そして、村のためによく尽くしてくれる立派な男だと、そう思っている。だからこそ」


 テーブル越しに伸ばされた、皺くちゃな大きな手がユリシスの深い青色の髪を優しく撫でる。懐かしむように。惜しむように。


「だからこそ、行ってはくれないか」




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