エバ・ブルー
次の標的は、エバ・ブルーだ。
この女は、もともと大陸でボクサーをやってた。女子ボクシングのミドル級チャンピオンだったそうだ。アイドル顔負けの美貌と、試合前に対戦相手を口汚く罵るスタイルから「美しすぎる最凶ツヨカワ女子ボクサー」として一時は騒がれていたらしい。
しかし、この女……本性は、筋金入りのサディストであり年下好きでもある。大陸にいた時に若い愛人の腹を殴ったら、何と内臓を破裂させショック死させちまったらしい。いやはや、とんでもないハードパンチャーだね。
それ以来、大陸に住めなくなったエバは、ウッドタウンの住人となったらしいが……今も年下男を痛めつけるのが、好きで好きで仕方ないとか。若いイケメン奴隷の腹を殴り、イケメンが腹を押さえて苦悶の表情を浮かべる様に興奮する、傍迷惑な性癖の持ち主なんだよ。
ミケーラ、こいつはちょっと手強いぜ。マトロックとは違い、ガチのファイターだった女だ。あんたが、こいつを相手にどう闘うか……じっくりと見させてもらうぜ。
・・・
エバの目の前には、一人の少年がいる。色白の肌を晒し、四つん這いの姿勢で下を向いていた。その顔は美しく、体つきも華奢である。全裸でなければ、少女と勘違いしてしまうだろう。もっとも、その首には革製の首輪が付いているため、正確には全裸とは言えないかもしれないが。
「坊や、顔を上げなさい」
艶のある声を聞き、少年は顔を上げた。
エバは、にっこりと微笑む。艶やかな長い黒髪。褐色の肌、そして筋肉質でありながら女性らしさも失っていないボディライン。そのモデルのような美しい顔からは、どこか野性的な雰囲気も感じられた。
「立ちなさい」
エバの言葉に、少年はおずおずと立ち上がった。長身のエバを、上目遣いに見つめる。エバは微笑みながら、少年の頬に触れた。
「本当に、綺麗な顔……食べちゃいたいくらい可愛いわ」
あえぐような声を出しながら、両手で少年の頬を撫で回すエバ。その手は、少しずつ下に降りていく。
やがて、その手は少年の首に触れた。
エバは妖艶に微笑みながら、少年の首を優しく撫で回した。少年は頬を赤く染めて、エバの愛撫に身を委ねている。
だが、エバの顔つきが一変した。残忍な表情を浮かべ、少年の首を両手で握りしめる。
直後、その手に力を込めた――
少年の表情も変わる。その唇からは、似つかわしくない不気味な声が洩れた。顔は一瞬にして赤黒くなり、細い腕でエバの両手を外そうと試みる。だが、彼女の両手は外れない。やがて、少年の体から力が抜けていく……。
その時、エバは手を離した。糸の切れた操り人形のように、床に座り込む少年。喉をさすり、ゲホゲホと咳き込む。目からは、涙が零れていた。もっとも、その涙は悲しさが原因ではない。純粋に苦しかったためだ。
エバは、苦悶の表情を浮かべている少年を、満面の笑みを浮かべて見下ろしている。顔は火照り、息も荒い。
少しの間を置き、彼女は言った。
「立ちなさい」
その声を聞き、少年は顔をこわばらせた。次に起こることを予感し、唇を震わせながら言おうとした……待ってください、と。しかし、エバは容赦しない。
「聞こえないの? 私は、立ちなさいと言ったのよ。今すぐに立ちなさい」
「は、はい」
少年はひきつった笑みを浮かべ、弱々しい動きで立ち上がった。
「両手を上に挙げなさい」
その言葉を聞き、少年は震えながら両手を挙げた。エバは満足そうに頷き、少年の頭を撫でる。
「いい子ね。よくできました」
そう言うと、エバは優しく微笑む。
だが、その顔つきは瞬時に変わる。同時に彼女の拳が、少年のみぞおち目掛け叩きこまれた――
少年の目が、大きく見開かれる。熱い鉄の塊が、内臓を突き抜けていくような苦痛が襲った。
一瞬の間を置き、彼は腹を押さえて倒れる。抵抗の余地すらない、凄まじい痛みだ。苦悶の表情を浮かべ、床にうずくまっている。
そんな少年を見下ろすエバの頬は紅潮し、その目は異様な輝きを帯びていた。ややあって、彼女は手を伸ばす。
少年の髪の毛を掴み、力任せに引き上げる。
「いつまで寝てるの? ここは、あなたの寝床じゃないのよ」
エバは、厳しい口調で言い放った。一見すると余裕のある表情だが、その手は微かに震えている。もちろん興奮ゆえだ。
だが、彼女の携帯電話が鳴った。
誰かと思えば、相手はノートリアス・ダディだ。これは、さすがに無視することは出来なかった。エバは舌打ちし、携帯電話を手に取る。
一時間後、エバは地下道を歩いていた。
ダディからの電話、それは仕事の件であった。すぐに来てほしいとのことだ。彼の呼び出しとなると、顔を出さない訳にはいかなかった。何せ、ウッドタウンの地下を仕切る大物である。この街でエバが大きな顔をしていられるのも、ノートリアス・ダディそしてニール・バルガスの後ろ楯があるからこそである。
もっともダディからの用事とは、あまり気分のいいものではない。お気に入りの美少年奴隷との甘美な一時を中断させられたエバは、明らかに不快そうな表情を浮かべていた。
薄暗い地下道を進んでいくエバ。床は汚いが舗装されており、壁と天井はくすんだ色のコンクリートで覆われている。壁は薄汚れていて様々な種類の染みが付き、元はどんな色だったのかすら分からない状態だ。
もっとも、この辺りは……通路に明かりが灯っているだけ、まだマシな方なのだ。最下層では、ライト持参でないと歩くことすら出来ないのだから。
通路を歩いていたエバ。だが、その足がピタリと止まる。
数メートル先には、円形の広場がある。ひときわ強い光に照らされたその場所は、普段は主だった住民たちの集会所として使われている。
そこに、大勢の人間が集まっているのだ。いったい何事だろうか……。
もっとも、今のエバには関係のない話である。彼女には、片付けなくてはならない用事があるのだ。エバは足早に歩き、広場へと入って行った。集まっている者たちを無視し、さっさと通り抜けようとする。
その瞬間、声が響いた。
「皆さん、お待たせしました! ウッドタウンの最凶ツヨカワ女王こと、エバ・ブルー女史の登場だ!」
同時に、広場にいた者たちが一斉に動く。彼らは、通路をふさぐように移動した。
さらにエバの前には、タキシードを着てマイクを持った金髪の若者が進み出てくる。一見すると軽薄でバカなチンピラ……という雰囲気だが、彼がこの状況を作り出したらしい。
「あんた、何を考えてんだい? あたしはね、今からノートリアス・ダディに会わなきゃならないんだよ。あんたら、ダディに逆らう気かい?」
いかにも不快そうな表情でエバは言った。もとより、この状況が何なのかは知らない。ただ、彼女に恨みを持つ者が大勢いるのは確かだ。どうせ、そのうちの誰かが仕組んだのだろう。
もっとも、ダディに逆らうアホは地下にはいない。そのダディは、エバの顧客なのだ。つまりエバに手を出すことは、ダディに手を出すことになる。そこまでの覚悟を持って復讐に挑む者など、いないはずだった……本来なら。
エバは何も分かっていなかった。彼女に挑もうとしている者は、狂気にも近い執念と……死をも恐れぬ凶気に突き動かされていたのだ。
その上、彼女の背後にいる者たちも普通ではなかった。
「エバ、今回の仕事はこれだよ」
声と共に、前に進み出て来た者がいる。年齢は四十代の前半くらいか。背は低いが、その顔は傷だらけであった。刃物によるものであろうか……ギザギザの傷痕が数本、顔面のあちこちに付いている。黒髪は肩まで伸びており、黒い革のシャツを着ていた。
「ダ、ダディ……どういうことだい?」
ひきつった表情になるエバ。すると、ダディはニヤリと笑った。
「なに、大したことじゃない。君には、このミケーラとサシで勝負してもらいたいんだよ」
その言葉と同時に、現れた者がいる。
肘までしかない両手と膝までしかない両足を用い、四つん這いの姿勢で進み出て来たのは……間違いなくミケーラだった。顔に火傷を負い、美しい髪も全て失われてしまっているが、その顔には見覚えがある。
・・・
「久しぶりだね、エバ。やっと、お前を地獄に叩きこんでやれる……」
ミケーラはエバを見上げ、凄絶な笑みを浮かべる。だが、エバは呆れたような表情で首を振った。
「ちょっと待ってよダディ……あたしに、この人犬とやれって言うの?」
「ああ、そうだよ」
ダディの言葉は冷たく、感情が全くこもっていない。まるでムルソーみたいだ、とゾフィーは思った。
そのムルソーは、ライノの指示でカメラを担いでいる。彼のカメラマンとしての腕はどうなのかは不明である。ライノに指示された場所を映しているだけ、のようにしか見えないが。
もっともライノも、ディレクターとしては素人に毛の生えたような存在であるようだ。撮りたい画など、大して考えてはいないのだろう。
要は、再生数の稼げる動画が撮れればいいのだ。
そんなゾフィーの思いをよそに、声を発した者がいた。
「悪いけど、勝負にもならないよ。あんたら、それでいいのかい?」
言うまでもなく、エバの声だ。その顔には余裕の表情を浮かべ、蔑みを込めた目でミケーラを見ている。
その言葉に、ゾフィーが反応した。
「ミケーラをなめんじゃないよ、このアバズレが! この娘はね、お前を殺すために地獄から這い上がって来たんだよ!」
「黙りな、ババア。男日照りが続いてるからって、あたしに当たるなよ」
冷静な口調で言葉を返すエバ。ゾフィーの顔が歪み、体はプルプル震え出した。無論、怒りのためだ。
「上等だよ……」
拳を握りしめ、前へ進もうとするゾフィー。だが、それを制したのはミケーラだった。
「あいつは、あたしの獲物だよ」
声を震わせながら、ミケーラは言った。
するとゾフィーは我に返り、ミケーラのそばにしゃがみこむ。今、自分がすべきこと……それは、彼女を勝たせるためのアドバイスだ。まずは、落ち着かせなくてはならない。
ゾフィーは手を伸ばし、ミケーラの頬に両手で触れた。
「いいかいミケーラ、あんたは必要なことを全てやって来た。何の心配もいらない、勝つのはあんただ。あのアバズレは、でかくて強い……だけどバカだ。でかいがバカだ。あんたなら、奴に勝てる」
ミケーラを励ますゾフィー……そんな二人をを尻目に、ライノがヘラヘラ笑いながら前に出ていく。
「皆さん、お待たせしました! 賭けは締め切り、いよいよ試合の開始です! ミケーラが復讐を果たすのか、はたまた返り討ちか! 答えは神のみぞ知る! 試合開始だ!」
カメラの前で叫び、下がっていくライノ。と同時に、ゾフィーがミケーラの背中を叩く。
「さあ、パーティーの時間だよ! さっさと行って、ブッ殺してきな!」
エバは驚き、戸惑っていた。彼女は大陸ではプロのボクサーをしていたし、チャンピオンでもあったのだ。手足の無い女など、一撃でケリが付く……そう思っていた。実際エバのパンチには、それだけの威力はある。
しかし、その一撃が当たらない。ミケーラの姿勢は低く、動きは異様に速い。その動きに、エバは完全に翻弄されていた。
言うまでもなく、ボクシングは立っている人間を相手にすることを前提として技術が成り立っている。四つん這いの人間が相手では、為す術がない。
「クソが……」
荒い息を吐きながら動きを止め、ミケーラを睨むエバ。その時、罵声が聞こえてきた。
「何やってんだよ! お前、それでもチャンピオンかい!」
その声の主はゾフィーだった。エバは顔をしかめて怒鳴り返す。
「るせえ! こいつを片付けたら、次はお前だ!」
いい終えると同時に、エバは凄まじい勢いで、ミケーラめがけて突進していく――
その時、ゾフィーが叫んだ。
「今だ!」
エバは突進し、ミケーラの顔を蹴り上げようと足を振る。まともに当たれば、ミケーラの顔の骨は砕けていただろう。
しかし、ミケーラはそこにいなかった。
空振りするエバの右足。一方、ミケーラは瞬時に間合いを詰め、エバの左足に組み付いた――
弾丸のような速さで放たれた、ミケーラの超低空タックル……彼女は、この瞬間を待っていたのだ。短気なエバは、いずれ痺れを切らして無茶な攻撃を仕掛けてくる。狙うなら、その時だと……。
ミケーラの肘くらいまでしかない両腕が、エバのふくらはぎとアキレス腱を挟みこむ。同時に全身の力を込め、一気に引き倒す――
大振りの蹴りを放ったエバの体は、一瞬の間ではあるが左足一本で支えられている状態であった。その軸足を攻められたのでは、ひとたまりもない。エバは抵抗すら出来ず、仰向けに倒れる。
直後、後頭部をしたたかに打ち付けた。
その衝撃は相当なものであった。常人ならば気を失うか、あるいは痛みのあまり戦意を喪失していただろう。
元ボクサーのエバも、あまりの衝撃に一瞬ではあるが意識が飛びそうになる。
だが、飛びそうになった意識は別の衝撃で引き戻された。ミケーラは素早く移動し、エバの耳たぶに噛みついた。
次の瞬間、引きちぎる――
「ぎゃああ!」
絶叫するエバ。だが、ミケーラの攻撃は止まらない。さらに、自身の額をエバの顔面へと叩き込む。それも、立て続けに何発も打ち込まれる。これは単なる頭突きではなく、床にエバの頭を叩きつけるようなものだ。
しかも、ミケーラの動きには何の躊躇もない。エバは悲鳴を上げながら、両手で顔を覆う。彼女の頬骨は砕かれ、心は完全にへし折られてしまった――
ボクサー時代のエバは、プロモーターとスポンサーによって作られたチャンピオンである。実力的に下の相手とばかり闘い、相手のパンチを食らう前にハードパンチで試合を終わらせていた。
それゆえ、彼女は打たれたことがほとんど無い。痛みに対する耐性は、一般人と代わりないのだ。エバは顔を覆い懇願した。
「お、お願い。顔は、顔だけはやめて……」
その言葉に、ミケーラの攻撃が止まる。次いで、彼女の押し殺したような声が聞こえてきた。
「ああ、やめてやるよ。その代わり、地獄でベルタとカーラに詫びるんだ……お前は、あたしに負けたんだよ!」
その言葉の直後、ミケーラの腕の杭が放たれた。