旅立ち
人間て奴は、住み慣れた場所に落ち着くのが一番なんだが……あいにくと、そうもいかない事情がある。特に俺みたいな組織の犬は、上の命令には絶対に従わなくちゃいけないのさ。
そんなわけで、俺もウッドタウンを去ることになっちまった。後のことはどうなるか……それは知らない。こっちは、それどころじゃないんでね。
まあ、ミケーラなら上手くやるだろうさ。もう、俺の助けは必要ないだろう。
・・・
ムルソーは、戸惑っていた。
「ムルソーさま、何か御用はありませんか?」
メイド服の若い女が、恐る恐る聞いて来る。
だが、ムルソーは首を捻るばかりだった。このヒラヒラが付いた服は何なのだろうか。動きづらくないのだろうか……彼には、理解できないものであった。
「俺はいいよ。それより、ミケーラを助けてやってくれ」
ミケーラ、ムルソー、マオ。この三人は今、かつてニコライとアデリーナの住みかであった屋敷にいる。メイド服の若い女たちが身の回りの世話をし、さらにブライドと名乗る黒人の男がさまざまな報告をしてくれるようになった。
その全ては、ライノが手配したものだ。
「今日から、ここがお前たちの家だ。好きに使えよ」
「ミケーラさま、お客さまが来ました」
メイド姿の女が、ドア越しに報告する。次いで、ムルソーの声もした。
「ライノの奴だよ。どうする?」
それを聞いたミケーラは、くすりと笑った。
「いいよ、通しな」
「ミケーラ、それにムルソー、元気でやってるか」
久しぶりに会うライノは、以前と違い神妙な顔つきである。軍用コート姿は相変わらずだが、背中には大きなリュックを背負っていた。
この男が単なるチンピラではなく、大陸のエージェントであることは既に知っている。だからといって、ミケーラの彼に対する気持ちは変わらない。ライノもまた、彼女の恩人なのだから。
だが、ライノの方は事情が違うらしい。神妙な顔つきで、二人を交互に見つめた。
「今日は、お別れを言いに来たんだ。俺は、ここを去らなきゃならなくなったからな」
「どういうこと? 大陸に戻れるようになったのかい?」
尋ねるミケーラに、ライノは首を振ってみせた。
「いいや。また別の場所に飛ばされることになっちまったんだよ。ここよりも、さらにひどい場所にな。いわゆる左遷だ」
「えっ……何よそれ?」
「仕方ねえだろ。組織の犬は、上の命令には逆らえないんだ。行けという命令があれば、行かなきゃならない。これから言うことは、俺の最後の忠告だ」
そう言うと、ライノは真剣な表情になった。
「ミケーラ、あんたは今や、ウッドタウンの生ける伝説だ。あんたは人犬でありながら、この街で外道どもを次々と狩り殺した。さらには、怪物として恐れられていたニコライとアデリーナを倒した。しかも、最強の男であるムルソーのことも手懐けてる。今のあんたは、ニコライの後釜に相応しい……大陸の連中は、そう判断したんだよ」
ライノの口から出る言葉は、全く予想外のものばかりであった。ミケーラは戸惑うばかりだった。
「そ、そんな……あたしは、そんなものに――」
「なる気はない、なんてセリフは通らないんだよ、今となってはな。あんたはもう、後戻りは出来ない」
その言葉は、刃物のようにミケーラの心へと刺さった。ライノの言う通りなのだ。ここまで来た以上、今さら後戻りなど出来ない。
後戻りとは……すなわち、人犬だった時代に帰ることなのだから。
「ミケーラ、今のあんたはウッドタウンの新しいカリスマなんだよ。ウッドタウンの存在は、良識派にとっちゃあ目の仇だが……あんたみたいな人間がウッドタウンの代表として出て来るとなると、良識派も叩きづらい。さらに、あんたの味方をする市民団体も出て来る。ニコライみたいな、面がいいだけのバカを上に据えておくよりも効果は高い……メルキアのお偉方は、そう判断した。だからこそ、ニコライの死を許可したんだよ」
淡々とした口調で語るライノ。彼のエージェントとしての顔を、初めて見た気がする。ミケーラは、黙ったまま話を聞いていた。
「これからのウッドタウンは、あんたとギャングのアンディ、それに地下を仕切るノートリアス・ダディ……この三人が話し合って、やっていくんだ。あとの連中は雑魚ばかりだし、問題はないだろう」
そこで、ライノはまた言葉を止めた。感慨深げな様子で、部屋の中を見回す。
ややあって、ライノは再び口を開いた。
「これからは、あんたもウッドタウンを仕切っていく側になるんだ。立場が違えば、考え方も違ってくるはずだ。あんたも、いろいろ切り替えなきゃならない部分もあるだろうさ」
「どういう意味だい?」
「賢くやれ、ってことさ。前にも言った通り、このウッドタウンは大陸のゴミ処理場みたいなもんなんだよ。それは、これからも変わらない」
「あたしにも、ニール・バルガスみたいなことをやれって言うのかい?」
ミケーラの口調は静かなものだが、その奥には怒りがこもっている。
そんな彼女を、ライノは憐れみの目で見つめた。
「やるかやらないか、それはあんたの自由さ。ただ、ここは汚れた街だ。汚れた場所にいて、一人だけ綺麗なままでいるのは無理だぜ。それに、あんたを殺したがってる奴も少なからずいる。下手な発言は命取りだぜ……これからは、身の回りにもう少し気を付けるんだな」
そう言うと、ライノはムルソーの方を向いた。
ムルソーは無言のまま、彼をじっと見つめていた。何を考えているのか、端からは窺いしれない。だが、少なくともライノへの敵意はないらしい。
「ムルソー、お別れだ。元気でな」
にっこり笑い、手を差し出すライノ。だがムルソーは、その手をじっと見つめるばかりだ。何をすべきか分かっていないらしい。
ライノは苦笑し、その手でムルソーの肩をポンポンと叩く。だが、ムルソーはされるがままであった。
「元気でな。ミケーラのこと、頼んだぜ」
ライノが帰りムルソーが出ていった後、ミケーラは無人の部屋でぼんやりテレビを観ていた。彼女の心には、ライノの言葉が未だに重くのしかかっている。
あたしは、どうすればいいのだろうか。
こんな立場になろうとは考えていなかった。また、なりたくもなかった。
ただ、ひたすら復讐心のみで動いていた日々。ベルタとカーラの仇を討つことだけを考えていた――
いや、違う。
ミケーラは顔をしかめた。自分がしたかったのは復讐ではない。死に場所が欲しかったのだ。
惨めな人犬として生き続けたくない、復讐者として死にたい。その気持ちに突き動かされ、脱走したはずだった。
なのに、生き延びてしまった。しかも命の恩人であるゾフィーを巻き込み、死なせてしまった。
そんなことを考えていた時、ドアをノックする音が聞こえた。
「あの、俺だ。入ってもいいか?」
ムルソーの声だ。ミケーラは顔を上げる。
「いいよ、入んな」
「ライノの奴、もう来ないのか?」
尋ねるムルソー。彼は本当に変わった。出会った頃の不気味な雰囲気は、ほとんど感じられない。
「分からないね。でも、もう来ないと思うよ」
「そうか。なんだか寂しいな……」
ムルソーの表情は沈んでいた。最近、この男は感情表現が豊かになった。昔に比べると、ずいぶん人間らしくなってきた。
今のムルソーを、ゾフィーに見せてあげたかった……ミケーラはふと、そんなことを思った。
「そうだね、寂しいよね」
「俺、あいつが大嫌いだったのに。不思議だ」
「でも、生きていればいつかは会えるよ」
ミケーラがそう言った時、ドアをノックする音がした。さらに、声も聞こえてくる。
「なあなあ」
マオの声だ。ミケーラが頷くと、ムルソーがドアを開ける。
「なあ!」
元気な声で挨拶し、マオは部屋に入って来た。その手には絵本がある。
「なあなあなあ」
満面の笑みを浮かべ、マオは絵本を差し出す。ミケーラも笑顔で頷き、絵本を読み始めた。
「むかしむかし、あるところに木で出来た不思議な人形がありました。人形は動いたり喋ったり出来ます。しかし、人形には心がなかったのです……」
その時、またしてもドアをノックする音がした。
「ミケーラ……アンディが明日、あんたと話をしたいそうだ。どうする?」
ドア越しに聞こえてきたのは、ブライドの言葉だ。この男は今まで、ニコライとアデリーナに仕えていたらしい。そして今は、ミケーラに仕えている。まるで機械のように。
この男にとって、誰に仕えようと大した違いはないのだろう。上から指示されたことをこなすだけだ。
いや、この街も同じなのだ。何者が治めようとも、大した違いはない。
ウッドタウンは変わらない。いや、変えることなど出来はしない。ゴミ溜めは、どうあがいてもゴミ溜めである。
「分かったよ。明日会うから、そう伝えて」
「ミケーラ、俺も付いて行くよ」
不意に声がした。
声の主はムルソーだ。彼は神妙な面持ちで、じっとミケーラを見つめている。
ミケーラは苦笑した。この男は、自分を心配してくれているのだ。腕力は異常に強いが、同時に子供のような純粋さと危うさをも感じさせる。
ただ最近では、自分から人を襲うようなことはなくなった。ミケーラは、今ではムルソーを心から信用している。
「ありがと。頼りにしてるよ」
そう言って、ミケーラは微笑んだ。すると、今度はマオが彼女をつつく。
「なあ!」
そう言って、マオは誇らしげに胸を張る。自分も付いているよ、とでも言いたげだ。
「そうだよね、あんたも頼りにしてるから」
言いながら、ミケーラは二人の顔を見つめる。
この街を変えることは出来ないかもしれない。しかし、少なくともムルソーを変えることは出来た。
この二人と共に、汚れた街でしたたかに生き抜いてやろう。それこそが、死んでいったゾフィーの願いだろうから……。
その頃、ライノはウッドタウンを歩いていた。
いつの間にか、この街に様々な思い出が出来ていた。来た当時は、刑務所みたいな街だと思っていたのだが、今では去りがたいものを感じる。
だが、行かなくてはならない……そんなことを考えていた時、携帯電話に連絡が入った。
ライノは携帯電話を手にする。相手は、仕事仲間の女だった。彼女もまたエージェントである。顔は美しいが、やたら堅い喋りが特徴だ。
「なんだよ?」
(上層部に直談判とは、お前もバカなことをしたな)
電話の向こうから聞こえてくるのは、呆れたような声だった。
「だから何だよ? お前には関係ないだろ」
(なぜ、ミケーラを助けたのだ?)
「奴には儲けさせてもらったからな」
(それだけか?)
「……」
ライノは黙りこんだ。それだけ、ではない。だが、それを電話の向こうの相手に説明する気にはなれなかった。
ニコライを生かしミケーラを殺せ、という上からの命令にライノは従わなかった。
それどころか、彼は上層部の人間に話を付けた。ミケーラという人間がニコライよりも商品価値があるという事実を説明し、上の人間を納得させる。
もっとも、その代償として、ライノはさらにひどい場所に飛ばされることを承知させられてしまった。
だが、後悔はしていない。星屑となってしまったゾフィーに送れる手向け……それは、ミケーラを守ることだけだから。
(まあいい。さっさと次の場所に行け)
「分かったよ。ようやく、ライノ・ラインハルトという名前ともおさらばって訳だな。次は、何という偽名を使うんだ?」
(本名をそのまま使え。次の場所では、一応は警察官だからな)
「警察官だあ? なんだいそりゃあ?」
・・・
それから数日後。
とある街の通りで、軍用コートを着た金髪の青年が歩いていた。
道端には、ギャングとおぼしき男たちがうろうろしている。時おり、周囲に威嚇するような視線を向けていた。
青年はそれを無視し、通りをのんびりと歩いていく。やがて細い十字路にさしかかった時、奇妙なものを発見し立ち止まる。
路地裏に、一人の男が仰向けで倒れていた。まだ若いのに、腹から血を流している。そのままピクリともしない。恐らく死んでいるのだろう。
青年は立ち止まり、その男をじっと眺めた。体は痩せこけており、着ている物もみすぼらしい。見た感じはチンピラのようだが、何が原因で死んだのだろう。
そんなことを考えていた時だった。突然、どこからか数人の子供が現れる。まだ小学生になるかならないか、という年齢だろうか。
その子供たちは死体に群がり、持ち物や着ている服を一瞬にして剥ぎ取っていく……。
見ていた青年は、思わず苦笑した。
「やれやれ、ここはウッドタウンよりひでえな」
やがて青年は、大きな建物の前で立ち止まる。ため息を吐くと、表情を一変させ入っていく。
軽薄そうな顔でヘラヘラ笑いながら、周りの人間に頭を下げた。
「本日よりこちらに配属になりました、キーク・キャラダインです。よろしくお願いします」




