ありがとう
彼は、ずっと殺し続けていた。
ムルソーは、他の人間とは違っていた。
他人が、彼に向ける表情は基本的に二種類しかない。嘲笑、もしくは怒りだ。なぜ、そんな表情を向けられるのかムルソーには分からなかった。
一つだけ分かることは……ムルソーは、どちらの表情を向けられるのも嫌だという事実。その表情は、彼に不快な気分を呼び起こした。自分に、そんな顔を向けて欲しくない。
だから、ムルソーは相手を殴った。目の前から、その顔を消し去るために。
不快なものから、逃れるために。
他人と接触するたびに、向けられる嘲笑もしくは怒りの表情。
それに対し湧いてきた感情に任せ、ムルソーは目の前にいる者を殴った。さらに蹴とばし、掴んで放り投げた。すると、相手の表情は変化する。自分にとって不快な表情が消え、代わりに苦痛や恐怖といった感情が浮かぶ。
ムルソーは嬉しかった。拳を振るえば、全てが変わる。彼にとって、望ましい方向に。
だが、ムルソーが成長するにつれ状況は変化していた。いつからか、彼が殴ると、相手は倒れて動かなくなる。血を流したり、ビクビク痙攣したり、汚ならしいものを吐いたりもした。
すると、別の誰かが叫ぶ。人殺し、と。
ムルソーは、他の何者かとコミュニケーションを取る方法を知らない。他者と接触すれば、最終的には闘うことになる。しかし、大人になったムルソーと闘った相手は、例外なく死んでいくのだ。
いとも容易く。
相手が死ぬと、ムルソーはとてつもなく嫌な気分になった。胸にぽっかりと穴が開き、たまらない寂しさに襲われる。
だから、ムルソーは腕をもぎ取った。次に足をもぎ取り、首を引きちぎる。死体をバラバラにして、立ち去って行った。それ以外に、己の内から生じる虚無感と闘う術を知らなかった。
他人と闘い殺し、その死体をバラバラにする……それがムルソーの日常であった。
ゾフィーに会うまでは。
あの日、ムルソーは見たのだ。
大きな体の若い男が、中年の女を蹴飛ばしている。それ自体は、さほど珍しい光景でもない。
ただ普通と違うのは、圧倒的に不利な状況でありながらも……中年の女は闘う意思を捨てていなかったことだ。
今まで会った人間は皆、ムルソーとの圧倒的なまでの力の差を知ると、すぐに闘う意思を捨てていた。
だが、その女は力の差を知りながら、なおも闘おうとしているのだ……殴られ蹴られ血ヘドを吐きながらも、必死の形相で食らいついている。ムルソーは、その光景から目が放せなかった。
「何やってんだ?」
思わず出ていた言葉。男が何か言っているのが聞こえる。だが、うっとおしいだけだった。ムルソーは男を無視し、またしても女に尋ねる。
「何やってんだ?」
ムルソーは不思議だった。勝ち目が無いのに、なぜ闘うのだろう。
だが、邪魔が入った。
「てんめえ……聞いてんのか!」
喚きながら、近づいて来た男。手を伸ばし、ムルソーの襟首を掴んでくる。
ムルソーは苛立った。こんな男には、欠片ほどの興味も持てない。
「お前には聞いてない」
言うと同時に、ムルソーは額を叩きつけた。
直後、男の顔面は潰れた。頭蓋骨が砕け、首がめり込む。まるで壊れた人形のようだ……。
だが、ムルソーはそんなものに興味はない。彼は呆然としている中年女を見つめ、問いを繰り返す。
「何してんの?」
すると、中年女はムルソーを見上げた。
「あ、ああ、ちょっとね……」
間の抜けた言葉を吐きながら、中年女は立ち上がろうとした。しかし、顔を歪めて崩れ落ちる。どうやら全身が痛くて仕方ないようだ。
その時、ムルソーは初めて他人を気の毒だと思った。立てないくらい、体が痛むらしい。ならば、手を貸して立たせてやろう。
「おばさん、痛そうだね。大丈夫?」
言いながら、ムルソーは手を伸ばした。
すると、中年女はなぜか笑い出したのだ。ムルソーは一瞬、顔をこわばらせる。他人の笑顔は、嫌いなのだ。潰したくなるくらいに……。
しかし、中年女の笑顔は他の者とは違っていた。どこか暖かいものを感じさせる。さらに、優しい匂いもする。
気がつくと、ムルソーも一緒に笑っていた。
以来、ムルソーは中年女と旅をするようになる。
ゾフィーと名乗った中年女は、ムルソーの身の回りの世話をするようになった。ムルソーの知らないことを教えてくれたし、美味しいご飯も作ってくれる。ゾフィーと一緒にご飯を食べると、なぜか心が暖かくなった気がした。
かと思うと、大声で怒鳴りつけることもあった。時には、ムルソーに平手打ちを食らわせることさえあったのだ。
その気になれば、こんな中年女など一撃で殺せるはず……以前のムルソーならば、叩かれた時点で即座に殺していただろう。
だが、ムルソーを怒鳴り付けるゾフィーの体は震えていた。また、その目には哀しみがある。単純な怒りではなく、体を張って自分に何かを教えようとしている……その気持ちが伝わってきていた。他の人間とは、まるで違う。
いつしかムルソーにとって、ゾフィーは無二の存在となっていたのだ。
・・・
ムルソーは歩いていた。
左足は、未だに動きが悪い。感覚は少しずつ戻ってきてはいる。だが、上手く力が入らないのだ。
それでも、ムルソーは歩き続けた。ニコライの生首を咥え、左足を引きずりながら進んで行く。左手を壁に付け体を支えながら、右足だけで歩いていた。
だが途中、バランスを崩して転倒する――
ムルソーは、とっさに右手を突きだそうとした。だが右手には麻痺が残り、上手く動かない。彼は床に倒れこみ、顔面をしたたかに打ち付ける。
顔をしかめながら、ムルソーはどうにか上体を起こした。壁に背中をもたれかけ、辺りを見回す。すると暗がりの中、人影を発見した。
人影は彼を見つめ、ゆっくりと歩いて来る。その近づいて来た者が誰であるか理解した瞬間、ムルソーは驚きのあまり咥えていた首を落とした……。
「ムルソー、お別れを言いに来たよ」
寂しげな笑みを浮かべているのは、見覚えのある人物だった。作業着のような服を着た、がっしりした体格の中年女だ。顔は丸く目付きは鋭いが、どこか暖かみのある雰囲気を漂わせている。唯一、ムルソーが逆らえなかった人間。
そう……死んだはずのゾフィーが、目の前に立っていたのだ。
「お、おばさん……」
そう言ったきり、ムルソーは絶句する。もともと口の回る方ではないが……今は、溢れる思いのため言葉が出てこない。
そんなムルソーを見て、クスリと笑うゾフィー。
「まったく、あんたは相変わらずだね」
言いながら、ゾフィーはしゃがみこんだ。その顔には、奇妙な表情が浮かんでいた。
「ムルソー、ごめんよ」
呟くようなゾフィーの言葉に、ムルソーは困惑し首を傾げる。何を言っているのか分からない。なぜ、謝るのだろうか?
「な、何?」
「あたしは、もうここにはいられないんだよ。本当に、ごめんね」
ゾフィーの顔には、見たこともないような表情が浮かんでいる。様々な感情が入り混じり、今にも溢れだしそうな様子だ。
ムルソーは、さらに混乱した。
「お、おばさん……何を言ってるの?」
「本当は、もう逝ってなきゃならなかったんだよ。でも、わがまま言って残ってたのさ。あんたのことが、心配だったからね」
そう言うと、ゾフィーは微笑んだ。だが、いつもの快活な笑顔とは真逆だ。どこか寂しげな……。
「もう時間がないんだ。あたしは、旅に出なきゃならないんだよ――」
「じゃあ、俺も行く!」
ゾフィーの言葉を遮り、ムルソーが叫んだ。すると、彼女は首を振る。
「それは駄目だよ」
「何でだ?」
ムルソーの声は、次第に熱を帯びてきている。だが、ゾフィーの表情は険しいものだった。
「あんたは、生きなきゃならないんだよ。あたしがいなくても――」
「嫌だあぁ!」
ゾフィーの言葉を遮り、ムルソーは叫んだ。いつの間にか、その目から涙が溢れている……。
「嫌だ! おばさんがいないなんて嫌だ! 嫌なんだよ!」
無人の廊下で、ムルソーの声が響き渡る。だが、その声には感情がこもっていた。彼は今、体を震わせ顔をくしゃくしゃに歪ませながら、ゾフィーを睨んでいる……先ほどのニコライとの死闘ですら、こんな表情はしていなかったのに。
ゾフィーは、じっとムルソーを見つめた。優しく微笑みながら、口を開く。
「あんたの目からも、涙が出るんだね……」
「うるさい!」
嗚咽を洩らしながら、なおも怒鳴りつけるムルソー。するとゾフィーは、真剣な表情になった。
「今、どんな気分だい?」
「えっ……」
「良い気分かい? それとも嫌な気分かい――」
「嫌な気分に気分に決まってるだろうが!」
ゾフィーの言葉を遮り、ムルソーは叫んだ。泣きながら、なおも叫び続ける。
「俺は嫌なんだよ! おばさんがいないなんて……嫌だ! そんなの、絶対に嫌なんだよ!」
「今のその気持ちを、忘れるんじゃないよ。あたしは今から、あんたに大事なことを教える。これは、とっても大切なことだからね。あたしが最後に、あんたにしてやれることさ」
静かな口調で語るゾフィー。ムルソーの顔が、さらに歪んだ。
「で、でも――」
「黙って、あたしの話を聞くんだ。人が死ねば、涙を流す奴がいる……今のあんたみたいにね。大切な人が死ねば、悲しむ者がいる。苦しむ者がいる。困る者がいる。あたしが殺されたと聞いた時、ミケーラはどうなった?」
「凄く……泣いてた」
「そうかい。でもね、あんただって多くの人間を殺してきた。その裏では、涙を流した者が大勢いたんだよ。ミケーラや、今のあんたのようにね」
「えっ……」
ムルソーは絶句し、そのまま下を向く。彼は、ようやく理解したのだ……自分のしてきた行動の、本当の意味を。
「いいかい、あんたは今まで罪を犯してきた。その罪を背負って生き続けなきゃならないんだ。そして、これからは……あんたが、ミケーラとマオのことを守るんだよ」
「俺が……」
「そうだよ。あんたが守るんだ」
そこで、ゾフィーは首を横に振った。
「いや、違う。あんただけが守るんじゃない。あんた、ミケーラ、マオ……この三人で寄り添い、助け合って生きていくんだ。いいね? これは、あたしの最期のお願いだ。約束だよ?」
「わ、分かった。約束する……俺が、みんなを守るから……」
涙を流しながら、ムルソーは何度も頷く。
そんなムルソーに、ゾフィーは微笑みかけた。
「あんたと一緒の生活は、凄く大変だった。あんたは本当に、手がかかる子だったね。まるで、怪獣の子供を育ててるような気分だったよ」
そう言うと、ゾフィーは昔を懐かしむようにクスリと笑った。
だが、ムルソーは笑えなかった。胸が潰れそうな気分に襲われ、何も言えずにいる。叱られている子供のように下を向き、唇を噛みしめる。
これまでゾフィーに、どれだけのものをもらっただろうか……なのに自分は結局、何もしてあげられなかった。
もはや今となっては、自分には何も出来ないのだ。
床を見つめ、肩を震わせるムルソー。すると、ゾフィーは彼の頭を撫でた。
「けど、楽しかったよ……あんたとの旅は。あんたのお陰で、あたしは生きる張り合いが出来た」
その声は震えていた。ムルソーは、はっと顔を上げる。
彼を見つめるゾフィーの目に、涙が浮かんでいた。
「立つんだよ、ムルソー。あんたには、休んでる暇なんかないんだよ。立って、前に進むんだ。もう、あたしはあんたを助けてやれないんだから……これからは、自分の足で歩いて行くんだ。いいね……」
声をつまらせながら、ゾフィーは言った。
そして立ち上がり、背中を向ける。
「ありがとう、ムルソー……」
言葉の直後、ゾフィーは消えた――
「なあ」
耳元で、妙な声が聞こえる。ムルソーは、ゆっくりと目を開けた。
「なあ」
またしても聞こえてきた声。横を見ると、マオが心配そうな様子でこちらを見ている。いつから居たのだろうか。
いや、それ以前に……どうやって、ここまで来たのだろうか?
「お前、どうしてここに……」
ムルソーは呟いた。しかし、マオは首を傾げるだけだ。
その時ムルソーは、ニコライの言葉を思い出した。
(君は僕と同じだ。科学者の手で人工的に作られた、人間とは呼べない哀れなる生物さ。人間は子供を、両親の愛の結晶などと表現する。ならば、僕たちは何なんだろうね……さしづめ、科学者の欲望の結晶といったところかな)
欲望の結晶。
確かにムルソーもニコライもアデリーナも、科学者の欲望の産物なのだろう。細胞を人工的に培養し、配列を変え、さまざまな手を加え……普通の人間とは、違う能力を持った者を造り上げる。
目の前にいるマオもまた、自分やニコライと同じなのだ。愛玩用に改造された、人間とは違う生物。
違う。
ムルソーは、心の中でそう呟いた。ゾフィーがいなかったら、自分は何をしていたか分からない。
でも、一つ確かなことがある。
自分もマオも、今は欲望の結晶ではない。
(あんた、ミケーラ、マオ……この三人で寄り添い、助け合って生きていくんだ。いいね?)
「そうするよ、おばさん」
ムルソーは独り呟き、左手で壁にもたれながら立ち上がる。左足はどうにか、動くようになったらしい。
その時、大事なことを思い出した。ミケーラはどうなった?
「ミケーラはどこだ?」
ムルソーが尋ねると、マオはうんうんと頷き、通路の先を指差す。
「なあ」
彼女の指差す方向を見ると、こちらに歩いて来る者がいた。一人……いや、二人だ。
「ようムルソー、生きてたのかい」
その声には、聞き覚えがある。ライノ・ラインハルトだ。普段とは違い、妙に爽やかな表情でこちらに歩いて来る。いかにも満足したような……。
その両腕には、何かが乗っていた。
ミケーラだ。まるで映画のヒロインのように、お姫さま抱っこの体勢である。彼女も疲れきっているらしい。
「ムルソー、殺ったんだね……」
弱々しく笑うミケーラ。ムルソーも笑い返す。
「殺ったよ、ミケーラ」




