ニコライ
薄暗い廊下を、ムルソーは歩き続けている。前を進むニコライは、さっきから一言も喋っていない。
本音を言えば、ミケーラのことが心配だった。話があるなら、さっさと終わらせて欲しい。しかし、ニコライは無言のまま歩いていくだけだ。ムルソーは、だんだん不快な気分になってきた。
もし、ニコライの提案がウッドタウンの他の場所でなされたのなら、ムルソーは気にも留めなかっただろう。ニコライを敵と判断し、即座に殴りかかっていたはずだ。
しかし、この建物は不思議であった。中は薄暗く、異様な雰囲気が漂っている。ウッドタウンの他の場所とは、明らかに違っていた。何より不思議なのは、遠い昔に似たような風景を見た記憶があることだ。
さらに、ニコライとアデリーナにも何かを感じた。他の人間とは、まったく違う何かを。
ニコライは、もしかしたら知っているのかもしれない……自分の違和感の正体を。
だから、ニコライと話す気になったのだ。
廊下をしばらく歩くと、またしても鉄の扉がある。ニコライは扉を開け、中に入って行く。ムルソーも後に続いた。
この部屋は、先ほどいた場所とは違っている。小さな椅子が数個並べられており、ホワイトボードも設置されている。
ムルソーは、ホワイトボードが何であるかは知らない。しかし、何か引っかかるものを感じる。
「ムルソー、この部屋に見覚えはないかい?」
ニコライは、にこやかな表情でムルソーに語りかける。敵意らしきものは、まるきり感じられない。むしろ、それとは真逆の親愛の情すら感じられるのだ。
そんな態度に、ムルソーは戸惑った。怪訝な表情で思わず首を傾げる。目の前にいる男が、本当にゾフィーを殺したのだろうか。
「お前は、本当におばさんを殺したのか?」
「おばさん? 誰だい、その人は?」
逆に聞き返すニコライ。やはり、敵意らしきものは感じられない。ムルソーは戸惑うばかりだった。
「おばさん……いや、ゾフィーさんだよ」
言い直したムルソーに、ニコライは頷いた。その顔には、優しい笑みを浮かべている。
「ああ、ゾフィーさんか。悪いが死んでもらったよ。そんなことより、この部屋に見覚えはないかな?」
あまりにも軽い口調に、ムルソーは戸惑いながらも答えた。
「わ、分からない」
そう、ムルソーに分からなかった。似た風景を見た記憶がある。だが、それはここではない。
「そうか、分からないか。では、言い方を変えよう。ここに似た場所を、見たことはあるかい?」
ニコライの口調は、とても優しいものだった。まるで、幼い子供に接するかのように……ムルソーは頷いた。
「うん、ある」
「やはりね。思った通りだよ」
そう言うと、ニコライは笑みを浮かべて部屋を見回す。ムルソーは首を傾げた。思った通り、とはどういう意味だろうか。
やがて、ニコライが口を開く。だが、その口から発せられた言葉は想定外のものだった。
「ムルソー、君と僕とは兄弟みたいなものなんだよ」
「兄弟?」
思いもかけぬ言葉を聞き、ムルソーはさらに困惑した。兄弟とは、一体どういうことだ?
そんなムルソーに向かい、ニコライは語り続ける。
「いいかい、君は大陸のメルキアという国で造られたんだ。ちょうど、こんな風な場所だよ。君は昔、こんな場所にいたんだよね?」
「あ、ああ」
そう、確かに似たような場所にいた記憶がある。何をしていたのかは分からないが、他の子供たちと一緒に椅子に座っていた。
しかも今のニコライと、同じような服を着ていた。
「君は僕と同じだ。科学者の手で人工的に作られた、人間とは呼べない哀れなる生物さ。人間は、子供を両親の愛の結晶などと表現する。ならば、僕たちは何なんだろうね……さしづめ、科学者の欲望の結晶といったところかな」
淡々とした口調で、ニコライは語る。その表情には、どこか悲しげな雰囲気がある。
だが、ムルソーの方はさらに混乱していた。
「どういうことだ? じゃあ、俺は人間じゃないのか?」
「そうだよ。君には両親がいない。人工的に細胞を培養され誕生したんだ。しかも、人間とは違うDNAの持ち主だ。そんな者を、どうあがいても人間とは呼べないだろう」
ニコライの発する言葉の中には、ムルソーには理解できない単語がいくつも出てきた。しかし、理解できたこともある。
自分が人間ではない、ということだ。
幼い頃の記憶はないが……昔から他の人間よりも力が強く、走るのも速かった。傷の治りも異常に早く、病気になったこともない。
確かに、自分は人間ではないのかもしれない。
そんなムルソーに向かい、ニコライは微笑みながら言った。
「僕は、君と共に生きていきたい。この街なら、望むものは何でも手に入る。君が求めるものはなんだ? 言ってくれれば、僕が手に入れてあげよう」
その言葉に、ムルソーは下を向いた。自分の欲しいものとは何だろうか。じっと考えてみる。
ややあって、彼は顔を上げた。
「じゃあ、おばさんを返してくれ。そうすれば、あんたの言うことを聞く」
「おばさん? 誰だいそれは?」
その返事に、ムルソーの表情が変わる。
「さっき言ったろう。ゾフィーさんのことだ」
「ゾフィー? ああ、すまないね。何せ、取るに足らない人間のことなど、いちいち覚えていられないんだよ」
「取るに足らない? どういう意味だ?」
真顔で尋ねるムルソーに、ニコライはくすりと笑った。
「面倒くさい男だね、君は。まあ、いいじゃないか……彼女は、我々より劣る存在だった。だから死んだ。もう帰っては来ない。それだけだよ」
「劣る、だと……」
ムルソーの胸に、奇妙な感情が湧き上がってきた。今まで感じたこともない、怒りと憎しみ、さらには悲しみが。
「そう、彼女は劣るよ。僕たちより劣っている――」
その瞬間、ムルソーは動いた。硬い拳が高速で放たれ、ニコライの顔面に炸裂する――
ニコライは吹っ飛び、壁に叩きつけられた。美しい顔が無残に変形している。常人なら頭蓋骨が陥没し、即死しているはずだ。
だが、彼は即座に起き上がった。何事もなかったかのような表情を浮かべている。しかも顔の傷は、みるみるうちに癒えていくのだ……。
驚き、戸惑うムルソー。直後、彼の体にも変化が生じた。右手がだらんと垂れ下がり、動かなくなったのだ。
ムルソーは必死で力をこめ右手を動かそうとするが、全くいうことを聞かない――
「アデリーナの言ったことは正しかったな。やはり君は、我々とは違うらしい。ならば、死んでもらうしかないな」
そう言うと、ニコライは楽しそうな表情で近づいてきた。しかし、ムルソーは後ずさるばかりだ。なぜか知らないが、右手が動かなくなっている。こんな事態は初めてである。ムルソーは、どうすればいいのか分からなかった。
訳も分からず、ただただ後退するムルソー。そんな彼を見たニコライは、不思議そうに首を傾げ歩みを止めた。
「おかしいな。大抵の人間は、もうじき心臓が止まるはずなんだが。では、もう一度試してみようか」
言った直後、ニコライは一瞬にして間合いを詰める――
ムルソーは、半ば本能的に左足を伸ばした。ニコライをそばに寄せたくない……その思いから、彼に前蹴りを食らわしたのだ。
左足は真っ直ぐ伸び、ニコライの腹に炸裂した。彼はまたしても吹っ飛ばされ、床に倒れる。
その時、ムルソーは左足にちくりとした痛みを感じた。直後、左足の感覚が消える――
「なるほど、一応は君も同類というわけか。だから、毒では死なないのだね。なるほど……だったら、首をへし折り心臓を潰すとしようか」
立ち上がったニコライの口調は、冷静そのものである。だが、その冷静さがムルソーに恐怖を呼び起こした。
声にならない叫び声を上げ、ムルソーは逃げ出した。施設の奥に続く道を、這うようにして進んでいく。彼は恐怖で判断力を失い、ただただニコライから離れることしか頭に浮かばなかったのだ。
そんなムルソーを見ながら、ニコライはくすりと笑った。
「君は、本当に無様だな。もう少し楽しませてくれるかと思ったんだがな……じゃあ、君にチャンスをやろう。十数えるから、好きなように逃げるんだ」
左手と右足とを懸命に動かし、ムルソーは逃げていた。自分のいる場所がどこなのか、どこに行けば逃げられるのか、そんなことはまるで分からない。奴から遠ざかりたい、その思いだけで動いていたのだ。
目の前に、鉄の扉が見えた。ムルソーは扉を開け、部屋の中に入る。扉を閉め、あたりを見回した。
だが、そこは行き止まりであった。入って来た扉の他には何もない、空っぽの部屋である。彼には、もはや逃げるための道はなかった。
絶望のあまり、ムルソーはその場にしゃがみこむ。
ムルソーは、生まれて初めて絶望と恐怖を感じていた。自分では、制御できない感情だ……体がガタガタ震え、立ち上がることが出来ない。そもそも、右足だけでは立つことすら困難だが。
ニコライは強すぎた。かつて仕留めた、二メートルを超す灰色熊よりも遥かに強い。あんな化け物と会ったのは、生まれて初めてだ……。
まして、今は右手と左足が動かない。こんな体で戦ったら、確実に負けるだろう。
いや、負けるだけではない……殺されるのだ。こんな体で戦ったら、確実に殺される。
俺は死ぬのか?
そう思った瞬間、声が聞こえてきた。
「君には失望したよ。この程度とはね……やはり、君は出来損ないだ。ジュドーたちと同じだね」
ニコライの声が響く。だがムルソーには、言葉の意味は全く分からない。分かるのは、ニコライに捕まったら殺されるということだけだ。
そのニコライが今、近づいて来ている。足音も聞こえてきた。奴はついに、この部屋に入って来たのだ。
もう、逃げられない。手足が動かない体では、抵抗も出来ず殺されるだけだ。ムルソーは本能的に顔を覆い、現実から逃避しようとした。
その時だった。
(何をやってんだい! さっさと奴の心臓を潰してやりな!)
その聞き覚えのある声に、ムルソーは大いに戸惑った。今、何が起きたのか?
(ミケーラのことを思い出すんだよ! あんたがやらなきゃ、ミケーラはどうなるんだ! 奴は、心臓を潰せば死ぬ!)
またしても聞こえてきた声。いや、それは声ではない。脳……いや、心に直接響いてくるものだ。
直後、ムルソーの脳裏に甦った映像があった。両手と両足が切断された体でありながら、必死の形相で闘っていた者の姿。凄まじい意思の力でハンデを克服し、外道どもを次々と自らの力で仕留めていった、あの女を。
そうだ。
ミケーラは、手足が無かったんだよ。
あいつは、手足の無い体でずっと戦い続けていたんじゃないか。
不意に、ムルソーの顔が歪む。この状況に、嬉しい点は何も無い。なのに、なぜか笑っていた。
そうだよ。
ミケーラは、もっと酷い状況で勝ち抜いてきたんじゃないか。
俺は、奴に痛め付けられ右手と左足が動かない。
だから、勝てないと思った。
でも、ミケーラに比べれば……。
ムルソーは壁に手を突き体を支え、右足だけで立ち上がった。その顔には、先ほどまでとは違う何かがある。
そんな彼を見て、ニコライの顔に奇妙な表情が浮かんだ。
「おやおや、君に何が起きたんだろうね。でも、その体では勝てないよ」
何を言ってるんだ。
今の俺は、右手と左足が動かないだけだ。
でもミケーラは、両手両足が無かったんだよ。
なのに、あいつは戦ったんだ……自分よりも、遥かに大きく強い相手に。
もっと楽に生きることも出来たのに、自分の意思で地獄のような苦しみを克服し、さらには強い相手にたった独りで立ち向かっていった。
そして、勝ってきた。
そんなミケーラの姿を、俺はすぐそばで見てきたんじゃないか。
ミケーラに比べれば、あんな奴は大したことない。
「あんたは、劣るよ」
不意に、ムルソーの口から洩れた言葉……それを聞いたニコライは、不思議そうに首を傾げる。
「君は、何を言っているんだ?」
「あんたは、俺より遥かに強いかもしれない。でも、あんたは劣っている」
言いながら、ムルソーはその場にしゃがみこんだ。
上目遣いでニコライを見つめ、ニヤリと笑う。
ミケーラは、こうやって戦ってたな。
ならば、俺もこうやって戦う。
ミケーラみたいに戦う。
ムルソーは、さらに姿勢を低くする。ワニのように腹這いになり、ニコライをじっと睨み付ける。
そんなムルソーを、ニコライは余裕の表情で見下ろした。
「君は何がしたいんだ? そんな体勢で何が出来るというんだ?」
ニコライの顔には、楽しくて仕方ないというような表情が浮かんでいる。自分が負けることなど、露ほども考えていないらしい。
だが、ムルソーは彼の言葉など聞いていなかった。その頭にあるものは、目の前にいる男を倒すことだけだ。
次の瞬間、ムルソーは地を蹴った――
ムルソーが放った、見よう見まねの低空タックル。それは弾丸のような速さで、ニコライの足に炸裂する。ニコライは完全に虚を突かれ、何も出来ぬままムルソーのタックルをまともに食らった。
直後、ムルソーはニコライの両足に左腕を回す。さらに、太ももにも噛みついた。
全身の力を込め、一気に引き倒す――
抵抗する暇もなく、ニコライは仰向けに倒れた。
直後、ムルソーはまたしても動く。左手だけで体を支え、側転のような動きでニコライに馬乗りになる。
その左の拳を振り上げ、ニコライの胸に叩き込んだ――
ムルソーの超人的な腕力から繰り出されるパンチは、コンクリートの塊すら叩き割るくらいの威力を秘めている。そのパンチを、馬乗りの体勢からまともに食らったのだ。ただで済むはずがない。
ニコライの肋骨がへし折れ、心臓へと突き刺さった。彼は美しい顔を歪め、必死でムルソーを突き飛ばす。ムルソーは吹っ飛ばされ、壁に叩きつけられた。
苦痛に、思わずうめき声を上げるムルソー。だが彼は、必死の形相で這っていく。ニコライに、とどめを刺すために――
すると、ニコライは叫んだ。意味不明の言葉が、その口から洩れる。同時に手で胸を押さえ、必死でムルソーから離れようと試みる……。
だが、ムルソーは逃がさない。左手と右足を懸命に動かし、ニコライに食らいついた――
「や、やめてくれえ!」
恐怖のあまり、ニコライは喚きながら手足をバタバタ振り上げた。駄々をこねる子供のような動きで抵抗する。
しかし、ムルソーはお構い無しだ。ニコライの体に馬乗りになり、なおも心臓を殴り続ける――
異変が起きた。ニコライは口から大量の血を吐き出し、ガクリと首を落とす。それでも手足はピクピク痙攣していたが、やがて完全に動かなくなった。
一方ムルソーは、壁に手を突きながら立ち上がる。荒い息を吐きながら、倒れているニコライを見下ろした。
ニコライの美しい顔は、醜く歪んでいた。初めて味わう恐怖と苦痛、その二つに、彼は対抗する術を知らなかった。もしニコライがそれを知っていれば、死んでいたのは自分の方だったはずだ。
ニコライはウッドタウンに来てから多くの敵と戦い、その全てに勝ってきた。その圧倒的な力で、一方的に叩き潰してきた。
その点に関する限り、ムルソーも同じである。だが、両者を明確に分けるものがあった。
「あんたは、俺よりずっと強かった。でも、あんたはミケーラより劣ってる。ミケーラに劣るあんたに、負けるわけにはいかないんだ……」
そう言うと、ムルソーはニコライの頭に手を伸ばした。
「あんたに負けたら、ミケーラにも、おばさんにも申し訳ないんだよ」
ムルソーは歩き続けた。この建物のどこかに、ミケーラはいるはずだ。彼女に教えなくてはならない。
ニコライを仕留めたことを。
左足を引きずり、壁に左手を突きながらムルソーは歩いた。その口には、ニコライの首をくわえている。先ほど、死体から無理やり引きちぎったものだ。
ミケーラのお陰だ。
あいつがいなかったら、俺は負けていた。
心の中で呟きながら、ムルソーは歩き続けた。だが途中で、バランスを崩し転倒する――
ムルソーは、とっさに右手を突きだそうとした。だが右手には麻痺が残り、上手く動かない。彼は床に倒れこみ、顔面をしたたかに打ち付ける。
顔をしかめながら、ムルソーはどうにか上体を起こした。壁に背中をもたれかけ、辺りを見回す。すると暗がりの中、人影を発見した。
人影は彼を見つめ、ゆっくりと歩いて来る。その近づいて来た者が誰であるか理解した瞬間、ムルソーは驚きのあまり、咥えていた首を落としていた。




