ニール・バルガス(続)
ニールの住居兼事務所は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた――
ここには常に、十人以上の子分が常駐している。全員が荒事の経験豊富な武闘派であり、銃で武装している。
にもかかわらず、一瞬にして全滅させられたのだ。
たった一人の、素手の若者に。
「おい! 増援はまだなのか!」
怒鳴りつけるニールに、アンディは険しい表情を向ける。
「先ほど呼びましたから、もうすぐ来るでしょう。しかし、何なんでしょうね奴は……化け物ですよ、あれは」
アンディの言葉は、決して大げさなものではない。若者は今、入り口に設置されている頑丈な鉄の扉を無理やりこじ開けようとしている。
しかも、扉はロックされているのに……きしみながらも、開こうとしているのだ。
「感心してる場合か! どうするんだよ!」
吠えるニールに、アンディは口元を歪めながら答えた。
「こうなったら、逃げるしかありませんね。いずれ、あの化け物はここに乗り込んで来るでしょう。私では、奴を止められる自信がありませんから――」
「何なんだよ! てめえら揃いも揃って、俺一人をガードすることも出来ねえのか!」
喚きながら、ニールは壁を蹴飛ばした。次いで頭をかきむしり、口汚くののしる。
「お前らみてえなクズばっかりだから、俺が苦労するんだ! まともな奴が下にいれば、俺もこんな生活しなくていいんだよ!」
「そんなことより、早く脱出しませんか? それとも、奴と戦うつもりでしょうか?」
「んなこと出来るか! さっさと案内しろ!」
アンディはニールを連れ、地下に降りた。薄暗い通路を二人で歩いていく。あたりは沈黙に支配され、二人の足音だけが響き渡る……はずだった。
「ったく、何でこんなことしなきゃならねえんだよ。お前らがちゃんとしてりゃあ、俺が逃げ回る必要はねえのになあ」
歩きながら、ニールはぐちぐちと文句を言い続けている。しかし、アンディは無言のまま歩き続けていた。その表情は、後ろを歩いているニールからは窺い知ることは出来ない。
そんなアンディの態度が、ニールをさらに苛つかせた。
「おいアンディよう! 聞いてんのかコラ! 何とか言ってみろや! それとも無視か!? てめえは、ボスである俺の言葉を無視すんのか!?」
「ちょっと待ってください。この先に扉があります。そこの鍵を開けてきますので……話は、その後でお願いします」
冷めた口調で言うと、アンディは早足で歩き出す。ニールは、慌てて追いかけた。
「ま、待たねえか! 奴が来たらどうすんだよ!」
ニールは、慌てて追いかける。だが、アンディは振り向きもせずに進んで行った。
不安に駆り立てられ、ニールは走る。
「待たねえか!」
ニールは懸命に走り、ようやくアンディに追いついた。アンディは鉄製の扉を開け、真っ暗な部屋へと入っていく。
「お、おい! なんだここは!?」
怒鳴りつけるニール。だが、アンディは闇に消えてしまった。さらに、扉がきしみながら閉じようとしている。
ニールは自身の恐怖心に急かされ、慌てて部屋の中に飛び込んだ。
「おいアンディ! 明かりをつけろ!」
「そう焦らないでくださいよ。今、明るくなりますから」
アンディののんびりした声の後、いきなり明かりがつく。
「な、なんだお前ら!」
ニールは驚きのあまり、飛び上がりそうになりながら怒鳴る。
部屋の中は、灰色のコンクリートに覆われている。アンディの隣には、見知らぬ男がいる。軍用コートを着た金髪の若い男だ。
その男の隣には、がっちりした体格の中年女がいる。緑色の作業服を着て、きつい表情でニールを睨み付けていた。
さらに、その女の隣にいるのは、ニールが今もっとも顔を合わせたくない者であった。
「ミ、ミケーラ……」
・・・
「ニール、やっとあんたに会えたよ。あんたをぶっ殺す……そのためだけに、地獄の日々を生き延びてきたんだ」
ミケーラの表情は静かなものだった。だが、秘めた決意は顔に現れている。険しい表情で、真っ直ぐニールを見つめていた。
「ちょ、ちょっと待て! どういうことだ! おいライノ、ちゃんと説明してくれよ!」
慌てふためきながら、ニールはライノに詰め寄る。だが、ライノは涼しい表情だ。
「俺に言われても困るぜ。俺はただ、こいつのいう通りにしただけだからな」
とぼけた口調で言いながら、ライノはある人物を指差す。
「ど、どういうことだアンディ!」
そう、ライノの指差した人物はアンディだった。ニールは口から泡を飛ばしながらアンディに迫る。
だが、アンディは首を振った。
「いや、ですからミケーラの脅威を一刻も早く除いてあげようかと思いましてね。あなたが自らの手でミケーラを殺すのが、一番手っ取り早いかと」
アンディはいったん言葉を止め、クスリと笑う。
「私よりもずっと有能である、あなた自身の手で始末するのが、もっとも確実な方法ではないですか」
「な、なんだと――」
「前に言ってましたよね、俺はプロボクサーを素手で叩きのめしたんだぞ、と。今度の相手は、女の人犬ですよ。余裕でしょうが?」
アンディの表情は冷ややかなものだった。口元には笑みを浮かべているが、瞳には冷酷な光が宿っている……。
その瞳を見たニールは、思わず後ずさっていた。もはや、ここに味方はいないことを悟った。
だが、それでもニールは諦めない。彼はミケーラの方を向き、媚びを売るようにヘラヘラ笑った。
「な、なあミケーラ……お前は気の毒だったよ。でもな、悪いのは俺じゃねえんだ。考えてみろ、俺を殺して何になる? 殺したら、お前の気は済むかもしれない。だが、その先はどうする? お前の人生に何が残るんだ?」
言いながら、ニールは膝を着いた。さらに、額を床に擦りつける。
「頼むから、俺の話を聞いてくれ! 俺は、お前の助けになってやれるぞ。俺を生かした方が絶対に得だ。まず考えてくれ!」
言いながら、ニールは何度も額を擦りつける。しかし、ミケーラの表情は冷ややかだった。
「じゃあ、死んだベルタとカーラを生き返らせてよ。それが出来たら、あんたを許してやる」
「えっ、そ、それは……」
ニールは愛想笑いを浮かべつつ、ミケーラの顔を見る。だが、ミケーラの表情は変わらない。その瞳には、冷ややかな殺意がある。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。いくらなんでも、そりゃ無理だ。ミケーラ、落ち着いて聞いてくれ。あんたらをこんな目に遭わせたのは俺じゃねえ。子分どもが勝手にやったことだ。ヨアキムはもう死んじまったし、ジョンもエバもレミーも、みんなあんたに殺られちまった――」
「でも、そいつらはお前の部下だった。変態のポールも、あんたの息がかかった売人だったんだよね? それに、あんたはハーゲンがどんな奴か知った上でカーラを売り渡した」
静かな口調のミケーラに、ニールは顔を歪めながら額を擦りつける。
「頼むよ、俺には子供がいるんだ! 頼む頼む頼む頼む頼む――」
「じゃあ、あたしの手足を返して」
冷ややかな口調で、ミケーラは言った。ニールは体を震わせ、顔を上げる。
「そ、そいつぁ無理だよ……で、でも、金ならやる。なあ、金さえあれば――」
「あたしの手足を返せ!」
叫ぶと同時に、ミケーラは右腕を突き出す。ニールは顔を歪め逃げようとしたが、遅かった。
ミケーラの腕から、杭が放たれる。杭はニールの左目を貫き、脳に達した。
「なあ、本当にこれでいいのかい? バルガス家の連中は黙ってないぜ」
ライノの言葉に、アンディは口元を歪めた。
「ああ、黙ってないだろうな。だがな、そんなのは承知の上だよ。独立するとなったら、奴らとの摩擦は避けられないさ」
アンディはそこで言葉を止め、死体となったニールを見下ろす。
「本当にバカな男だよ。もう少し身の程をわきまえていれば、長生きできたかもしれなかったのにな」
その言葉に、ライノも頷いた。
「ああ、まったくだ」
ニールは、ライノにとって扱いづらい人物になっていた。いや、ライノだけでなくメルキア国にとっても厄介者となっていたのだ。 このウッドタウン内で満足していれば、ニールは見捨てられることはなかった。しかし、ニールは大陸に復帰しようという野望を捨てきれなかったのだ。
その野望ゆえ、ニールはあちこちで派手に動いていた。様々な人種を店に招き、派手に騒ぐ……もう少し静かに動いていれば、目を付けられることもなかったかもしれない。
しかし、ニールは派手に動いてしまった。変態趣味丸出しの店を、メルキア国でおおっぴらに宣伝する……本来なら、闇の中でのみ存在が許される稼業。それを、ニールはあちこちで触れ回ったのだ。
そうなれば、昔かたぎのギャング連中は眉をひそめる。
結果、ニールは消されることとなった。ニールがこれまで仕切っていた縄張りは、アンディが受け継ぐことになっている。
しかもアンディは、今後はバルガス家との縁を切るつもりである。つまり、ニールの死をきっかけに、アンディが独立したことになるのだ。
「ところで、ミケーラは今後どうするんだ? あんまり派手なことをされると、いずれ他の連中に目を付けられるんじゃないのか?」
アンディの言葉に、ライノは下を向き床を見つめる。コンクリートの床には、得体の知れない染みが付着していた。
「分からん。こればかりは、俺の決めることじゃないからな」
そのミケーラは、死体と化したニールをじっと見下ろしている。
とうとうやり遂げた、はずだった。人犬として蔑まれ、常人には想像もつかない地獄の日々を生き抜き、顔に火傷を負いながら脱走し……そして、復讐を果たした。
だが今、彼女の胸には漠然とした不安と寂しさがあった。何かを成し遂げた時に感じるはずの達成感など、微塵もない。
明日から、何をすればいいのだろう。
その時、彼女の肩を叩く者がいた。
「ミケーラ、早く帰ろう。今ごろ、マオは寂しがってるよ。それに、ムルソーの奴もほっとけない。あんたには、まだやらなきゃならないことがあるんだ」
そう言って、ゾフィーが微笑む。ムルソーは今ごろ、さっさと宿屋に帰っているはずだが安心は出来ない。野放しにしておくと、何をするか分からない男なのだから。
ゾフィーの笑顔につられて、ミケーラも笑みを浮かべた。
「そうだね、おばさん」




