ハーゲン
大陸にて今、急速に広まっている新興宗教がある。それがマーズ教だ。教祖はショー・コンエとかいう老人らしい。そのマーズ教の幹部、ハーゲンこそが次のターゲットだ。
ハーゲンは今、ウッドタウンにて布教活動に励んでいる。その狂気と紙一重の精神力には、ほとほと敬服するよ……法など存在しないウッドタウンで宗教活動をするなんざ、勝ち目のない戦いだとしか思えないがね。まだ、野良猫に数学を教える方がマシじゃねえかな。
ただ、このハーゲンて奴は本当にヤバいぜ。こいつは、本気でマーズ教の教理を信じてやがる。信仰のためなら、人の二人や三人は眉一つ動かさずに殺せる男だ。しかも他の連中と違い、全ての行動はマーズ教の原理原則に基づくものなのさ。単純な金目当ての悪党じゃないんだよ。
ミケーラ……こいつはターゲットの中では、もっとも厄介な奴かもしれないぜ。今までと同じやり方は通用しない。こいつには、あんたの意思の力が試されるだろうな。
・・・
「我らが愛し! 神として崇めるべきは! この大地である! 断じて地上の人間が作り出した法などではない!」
壇上から、大きな声が響き渡る。その声の主は、堂々たる体躯の中年男であった。綺麗に剃りこまれたスキンヘッドには、奇怪な模様のタトゥーがびっしりと彫られている。髭は無い代わりに、眉毛も無い。ずた袋に穴を空けたような、袖の無い衣服を着ている。しかし、胸板は厚く二の腕は逞しい。その瞳には、強靭な意思の光がみなぎっている。
一見、まるで山賊の頭領のような風貌だが……彼こそがマーズ教の幹部・ハーゲンなのであった。
聴衆に向かい、ハーゲンはなおも熱弁する。
「我々の内に潜む欲望を否定するのは間違いだ! 欲望を肯定し、あるがままの姿で生きる! それこそが重要だ!」
「然り!」
大声で応える聴衆。その数は二十人ほどだろうか。老若男女が入り混じり、服装も顔つきもバラバラだ、しかし、共通する部分が一つある。皆、恍惚とした表情で壇上のハーゲンを見つめている点だ。
「我々は、異教徒たちの身勝手な振る舞いを断じて認めてはならない! いつの日か大地の怒りにより、地上を災厄が襲うであろう! その時こそ、我がマーズ教の勝利なのだ!」
「然り!」
まるで訓練でもされているかのように、一斉に言葉を返す聴衆。ハーゲンは満足げな笑みを浮かべた。
「では心身を鍛え抜き、来るべき日を待つのだ! 我々の夜明けは近い! 覚えておくのだ!」
「然り!」
演説の後、ハーゲンは奥にある休憩室に引っ込んでしまった。続いて、若い女の信者が入って行く。
やがて部屋の中から、なまめかしい声が聞こえてくる……ハーゲンは、毎日の説法が終わると必ず女を抱くのだ。既に五十を過ぎているはずだが、その性欲はいささかも衰えることがない。
あるいは、その獣のごとき性欲こそが教団幹部の証なのかもしれなかった。
夕方になり、ハーゲンは地下室へと赴く。ずた袋のような服装は変わらない。鋭い目で周囲を睨み付けるようにしながら歩く姿は、獲物を探す肉食獣を連想させた。すれ違う信者たちは、畏敬の念のこもった目で会釈する。
やがてハーゲンは階段を降り、地下室の扉を開ける。ここは、教団の中でも限られた者だけが入室を許される特別な場所である。
中に入ると、そこは不思議な空間があった。白い石の壁に囲まれた部屋は、まるで中世の宮殿のような造りである。天井にはシャンデリアが設置されており、部屋を明るく照らしている。さらに部屋の中心には、巨大な噴水が設置されていた。
部屋の床には絨毯が敷かれており、一人の青年が困惑した表情で座っていた。着ている服は地味だが、その顔つきからは上品な雰囲気を醸し出している。ウッドタウンには似つかわしくないタイプの青年だ。
「やあチャーリー、よく来てくれたね」
満面の笑みを浮かべ、ハーゲンは隣に腰掛ける。と同時に、紐のような衣装をまとった数人の女が近づいて来る。チャーリーと呼ばれた青年は、頬を赤らめ下を向いた。
ハーゲンはというと、愉快そうな様子で女たちを見つめている。獣のごとき目付きで、女たちの肉体を吟味していた。
だが、その表情が一変する。
「お前たち、奴を連れて来い」
女たちは頷き、奥の壁に設置してある扉へと入って行く。
二分ほどした後、女たちはボロ布のような服を着た者を連れて来た。髪は長いが、得体の知れない汚れがこびりついている。目の焦点は合っておらず、どこを見ているか分からない。常に薄ら笑いを浮かべている口からは、よだれが垂れている。さらに、腕のあちこちに傷があった。
この奇妙な者、よく見れば女のようだが……もはや、男女の判別すらしにくい状態であった。長い間、体を洗っていないらしく、顔は汚れ異臭が漂っている。チャーリーは思わず顔をしかめた。
そんなチャーリーを尻目に、一人の女がハーゲンに近づき何かを手渡す。ハーゲンはにやりと笑い、それを受け取った。
次にハーゲンは、チャーリーの隣にしゃがみ、先ほど受け取った物を彼に手渡す。
それは、拳銃だった。
「さあ、チャーリー……あの女を、これで殺すのだ」
「は、はい?」
混乱した表情で、ハーゲンを見上げるチャーリー。だが、ハーゲンはなおも言い続ける。
「君は、私の言ったことが聞こえなかったのか? この女を殺すのだ! でないと、君は上に立つ人間になれないぞ!」
「そ、そんな……」
顔を歪め、首を横に振るチャーリー。だが、ハーゲンは容赦しない。
「君は何も分かっていない。上に立つ人間は、時として苦渋の決断を下さなくてはならないんだ。この女をよく見ろ……ヤク中のクズなんだぞ。生きていても、何の役にも立たない女だ。しかし、この女は死ぬことで君の役に立とうとしているんだ。さあ、早く殺せ! この女を、生の重荷から解放してやれ!」
「む、無理です……」
今にも泣きそうな顔で、首を振るチャーリー。言うまでもなく、拒絶の意志を示しているのだ。
そんなチャーリーの態度に、ハーゲンの表情が変化した。
「いいか、よく聞くんだ。人生とは、すなわち闘争そのもの。闘争なくして変化なく、変化なくして進歩なし。もし人類の祖先が進化の道を選ばなければ、我々は今も自然界において底辺の位置にいたはずだ」
先ほどとはうって変わって、にこやかな表情でハーゲンは語る。一方、チャーリーは何かに憑かれたような顔で、ハーゲンを見つめていた。
「いいか、君は今から生まれ変わるんだ。不死鳥が炎を浴びて新しい命を得るがごとく……君も闘争を経て、新しい自己を確立させるんだ。さあ、この女を生の地獄から解放させてあげさない」
言うと同時に、ハーゲンはチャーリーの背後に回った。
後ろから愛する女性を抱きしめるように、チャーリーの背中を抱き寄せる。さらに手を伸ばし、彼の手を握った。
拳銃を握っているチャーリーの手に、ハーゲンは優しく手を添え、ゆっくりと上げる。
「さあ、あとはトリガーを引くだけだ。それで、君は生まれ変われる。君は、上に立つ人間へと変貌するんだ。もしここで、あの女を殺せなかったら……君は永遠に地を這う芋虫のままだ。しかし、女を殺せば……君は美しい蝶へと変われるのだよ」
「何故、あの人を殺さなくてはならないんですか?」
声を震わせながら、チャーリーは尋ねた。
「簡単さ。君はいつか、ホーム・グループのトップの地位に就かなくてはならない。トップに立つということは、大きな責任をも伴うのだ。たとえば、あの女のようなヤク中の社員がいたとしよう……グループにとっては、大きなマイナスだ。切り捨てなくてはならないんだよ」
「で、でも――」
「いいかい……上に立つ者は、時に非常な決断を迫られる。それが宿命なのだよ。このままだと、あの女は周囲に害毒を撒き散らすばかりだ。君が殺さなければ、多くの人間が迷惑することになるんだ」
その言葉を聞き、チャーリーは改めて女を見つめる。ガリガリに痩せており、肌は粘土のような色だ。歯はボロボロで、目は落ち窪んでいた。半開きの口からは、今もよだれが垂れ流されている。もはや、自分がどこにいるのかも分かっていないらしい。
「よく見たまえ、今の彼女は生ける屍でしかない。殺してあげた方が、彼女のためでもあるんだよ。さあ、彼女を生のくびきから解放してあげるんだ」
耳元で囁くハーゲン。チャーリーは、震えながら女を見つめる。
そして、トリガーを引いた――
「よくやった。これで君も、トップの人間たる資格を得たのだよ。いいかい、君らのような人間は、下の人間と同じ価値観で生きてはならない。時には、辛い決断を迫られることもあるだろう……だが君は、それに耐えて前に進まなくてはならない。分かったね」
ハーゲンの声は、この上なく優しいものだった。チャーリーは、震えながら頷く。
すると、ハーゲンは立ち上がる。
「さあ、お前たち……まずは、この死体を片付けろ。それが終わったら、新たな一歩を踏み出したチャーリーを祝福してあげようではないか」
そこでハーゲンは言葉を止め、女たちを見回す。
「お前たちの、肉体でな」
地下室を出たハーゲンは、今度は二階へと向かう。二階は信者たちの居住空間となっており、十の部屋が設置されている。
ハーゲンは、一つの部屋の前に立ち扉をノックした。すると、少しの間を置き扉が開く。中から、不機嫌そうな顔の若い男が顔を出した。
だが、相手が何者かを知るなり、その表情は一変する。
「こ、これはハーゲンさま! 失礼しました!」
「入ってもいいかな?」
にこやかな表情で尋ねるハーゲンに、若者は慌てた様子で答える。
「えっ!?」
「お前に話がある。ここでは何だからな……部屋に入れてくれんか?」
部屋の中は、殺風景なものであった。教団の本やパンフレットなどが所狭しと並べられているが、あとは机と椅子それにベッドがあるだけだ。
「相変わらずだな。お前は、女っけが無さすぎるぞ」
呆れたようなハーゲンの言葉に、若者は顔を赤くする。
「お、女など私には必要ありません!」
「そうか……まあいい。今日は、その件で来たのではない」
そう言うと、ハーゲンは真剣な表情になる。
「信者たちに伝えてくれ……ミケーラを探せ、とな。金は幾らかかっても構わん、とも伝えろ」
「ミケーラ、というと……あの、逃げ出した人犬ですか?」
「そうだ。どうやら、ライノ・ラインハルトに匿われているらしいのだが……とにかく金に糸目は付けん。見つけ次第、私に教えてくれ」




