第一話「執行者 -Executioner- (前編)」
何が起こったのか、最初はわからなかった。
通学に使っている、とある駅。地下駅らしい生温かい風が、どこからか迷い込んだ落ち葉を床に滑らせていた。
午後四時で利用客は少ない。改札を通る者も、まばらだ。
そんなところを歩く『彼女』は中学校からの帰りだった。
指定の制服に、地味な色のバッグ。荷物を持っていると動きにくくて不便だ、と最近は思うようになっていた。
そう思う理由である改札口が視界に入る。
そこで、目撃する。
男と男が改札機を挟んで向かい合い、佇んでいるところを。
片方は初老、もう片方は若者。親子にも見えるその二人の男は、決闘直前のような雰囲気だ。双方に挟まれた十数メートルの空間が振動しているようにすら見える。
互いの双眸から血が吹き出さんばかりの睨み合い。どちらの体躯にも力が漲り、触れたものを焦がすような情熱に充ち満ちていた。
居合い抜きの対決のようだ、と彼女は思った。
静寂と言うにはあまりに空気のざわついた沈黙。
コンマ数秒後にはどちらかの首が飛んでいるのではないかというほど張り詰めた空気――
それが弾けた。
何が起こったのか、最初はわからなかった。
それでも彼女の秀でた動体視力はその情景を仔細に捉えていた。
初老の男は、持っていた八枚の切符を一気に投げたのだ。それは回転し、様々なカーブを描きながらも若者に突き進んでいく。しかし若者はそこから目を逸らさない。八枚の切符が着弾する寸前、右腕を振る。その動きの速さと複雑さは雷鳴のよう。刹那の後、投げられた切符は細切れになり花吹雪のように若者の周りを舞っていた。彼の二本指に挟まれているのは切符。切符で切符を切り刻んだのか、と彼女が思った瞬間、若者の体は既にそこにはない。
爆風。
若者は亜音速で、改札の向こう側へ到達していた。
彼女は目に焼き付けた。
今までに見た、どの人間よりも凄まじい改札口の通行。
誇りある者のみが可能にする、驚異的な身体能力。
戦いの後はせっせと切符のゴミ拾いに勤しむ、若者の健気さ。
彼女はその時、深い感動に身を震わせ、若者と初老の男に駆け寄っていた。
――そうか、これが――
――『改札を通る』ということなんだ――
○
駅は戦場だった。
改札口で感じる“葛藤”――即ち、一方通行でなくどちらの側からも通行可能な改札口で他人と向かい合ってしまったときの、そのまま通るのか、それとも譲るのかという迷い。
改札口で生じる“敗北”――即ち、通ろうと決心したにも関わらず向こう側から先に切符を入れられてしまい、やむを得ず隣の改札口を使う羽目になるときのえも言われぬ悔しさ。
改札口で湧き上がる“憤激”――即ち、駅でのマナー違反者や、改札機の扉を壊して無賃乗車をする輩を見つけたときの怒り。
それらの全てを断ち切り、改札口を気持ち良く通らんとする者たちがいた。
迷いを捨て、悔しさを回避し、怒りを牙に変えて乗車券を扱う者たち。
誇りを持って改札口を通る彼らが、現代の神話を紡ぐ彼らが、改札機を挟んで向かい合ったそのとき、駅は、改札口は戦場となる。
彼らは魔法を使わない。
彼らは「異能」を用いない。
それでも彼らは、奇跡を起こすのだ。
人は彼らを――【執行者】と呼んだ。
○
冠都火駅、改札口。貧乏男子高校生・高橋将は疲労感を引きずりながらも高校からの帰路に就いていた。
何の変哲もない地下駅。比較的清潔で、きっと清掃員の人が頑張ってくれているのだろう。
出口のほうから流れてくる焼き鳥の匂いや、駅員の「ありがとうございました」という挨拶。もうすぐ家に着くんだという平和な気持ちが胸を温めてくれる。
そこへ異質な電子音が鳴り響いた。
びくりとしてから見ると、いつもなら快く通してくれるはずの改札機、そのICカード読み取り部が赤く点滅している。音は「ピー」と長めだ。表示された残額は、たったの四円。
(これだけ? あれ? そんなはずないのに。っていうか……)
幸い周囲に人は少なく、迷惑はかからなかった。そそくさと改札機を離れてICカードチャージ機に向かう。
どうにもおかしい。将が持っているこのICカードは、この駅を使うための定期券としての役割がある。残額が四円だとしても、通れるはずなのだ。
(でも四円って時点で意味がわからないな。僕、こんなに使った覚えないぞ? 自販機とかで電子マネー使えるほど金持ちじゃないしなあ)
将は通っている高校では金を使うことはない。家から貧相な弁当と水を入れた水筒を持っていくから必要がないのだ。
(定期が失効? それもないと思うんだけど……ん?)
ICカードを改めて見て、将は目を見開いた。
そこに印字されているはずの、それが定期券であることを表す駅名や有効期限が消えていた。代わりに、名前の欄に――
「『ザンネン デシタ』……!? なんだこれ? どういう……」
そのとき、将の横を一人の女性が歩いていった。
長い髪が風でふわりとたなびく。
振り向く将。
振り向かずにはいられなかった。
ICカードの異変のことなど忘れて、将は振り向いた。
一瞬見えただけでも息を呑むほどの美しさを湛えているその姿。それは、きりりと引き締まった女性像の一つの到達点、とすら言えそうなほどの魅力を隠しきれていない。
ヒールを履いているわけでもないのに一七〇センチはある長身。肌は陶器のように白く、それを彩る長い黒髪は流れる墨の川のようにつやつやとして、どこか雨降る夜を思わせる。殺人的な美貌の中で鋭い双眸が、電燈を反射しているからそう見えるというだけでは説明できないほどに紫電を走らせている。
着ている高校制服は純白のブラウス。チェック柄のスカートは他人への興味のなさを反映したかのように長くも短くもなく、すらりと伸びる脚に無駄な弾力は存在せず――ただ気品の良さが、生まれたままの日本刀のごとくそこにあった。
その女性は、将に気づいた様子もなく、改札を通っていった。
視界からその女性がいなくなっても、しばらく将は呆然としていた。しかし頭を振ると、ICカードに金をチャージしに歩く。
将は彼女を知っていた。しかしあれほど綺麗な彼女は初めてだった。
飛鳥夏衣。将も通う南渡火高校の三年生女子。将にとっては一つ先輩だ。その存在は有名だったが、将は一般生徒よりも彼女のことを知っていると自負していた。
彼女に一目惚れしたからだ。
忘れもしない、入学して二ヵ月後の六月二日。職員室の廊下で、なにやら仕事のスイッチが入ってきりっとした様子の彼女がいた。完璧な敬語と非言語的に溢れ出す教師への敬意を使いこなす、女性でありながら紳士的ともいえる振る舞い。彼女とすれ違い、一瞬で確信した。この場面を僕は一生、何度となく思い出すのだろうと。その度に切なさに悶える日々が続くのだろうと。
将はしっかりした、仕事の出来そうな女性に弱いらしかった。だから今も、飛鳥夏衣のある種殺気立った雰囲気に魅せられてしまったのだろう。
(でも、飛鳥先輩は今なんであんなに格好良かったのかな。張り詰めてて)
どきどきを抑えながら千円だけチャージする。駅員にICカードに異常が起きたことを相談することも忘れて。
(今からバイトなのかな? 見てみたいな、先輩のバイト姿。絶対に格好いいだろうなあ……)
将は知らなかった。
飛鳥夏衣には一緒に遊ぶほど仲の良い友達がいないことや、文武両道で学校の成績でオール5を取るほどの天才であるということ、合気道か何かの達人でその道でも一目置かれているということは知っていても――
彼女が【執行者】と呼ばれる戦士であるということを知っているわけがなかった。
○
ICカードがわけのわからないことになった一方で、とても綺麗な憧れの先輩の姿を拝めたり。今日は厄日なのかそうでないのか判断しかねるが、やはり厄日なのかもしれない。
将は冠都火駅で飛鳥夏衣に見とれてから数分後、不良に絡まれる飛鳥を目撃していた。
「あ~~~ん? 嬢ちゃんさあ、誰に何言ってるかわかってる?」
「ひひひ」
ここは駅前のロータリーから少し外れた場所。街路樹がぽつぽつと立っていて、物陰をつくっている。
飛鳥が利用しているのであろう駐輪場があるが、あまり使われていないため、人は来にくい。短時間なら不良もうるさくできるというわけだ。
「確かにオレたちは無賃乗車をした。改札機はある体勢で通ると扉が作動しない。それを利用したズルい手さ。嬢ちゃんはそれが許せなくて、警察に通報しようってんだろ? しかァし! オレたちみたいな奴らをいちいちとっ捕まえてたって意味がないんだぜ嬢ちゃん! 世の中にはコストとベネフィットの都合で不正対策を諦めざるを得ないことばかりなのさ。いいかい嬢ちゃん? オレ様の解釈する社会像についての講義を聴いていってもらうぜえ!」
シルクハットを被ったよく喋る不良が指を鳴らす。すると、スキンヘッドの気味悪い笑い声の不良が教卓とマイクをどこからか持ってきて演説の準備を整えた。校長先生のお話でもしようとしているのだろうが、ここが屋外であることを忘れてやしないだろうか。
飛鳥夏衣は無表情ではあるが、静かに激怒しているようにも見える。
将は彼女を助けようかと迷っていたが、男として助けないのはどうなんだという思いは置いておき冷静に考えると、助ける必要などないような気もする。むしろ不良たちのほうが心配だ。
「不正乗車はな~~~~んにも悪くないのさ!」
マイクには電源が入っていない。形だけで充分ということだろう。
「正確には、オレたちという限られた人間が不正乗車するだけなら問題ないんだ! ところで『悪いこと』とは何だ? 犯罪する様子を想像するのが悪いことなのか? 犯罪を実行に移すことが悪いことなのか? 違う! 違うのさ! 『悪いこと』とは『処罰された瞬間』にそれになるんだ! 逮捕されても起訴されても、裁判で有罪と告げられねえ限り悪いことじゃねえ! だろ? ここでコストとベネフィットの関係の話に移ろうじゃないか。不正乗車すると当然、鉄道会社は損失を受ける。しかしだ。不正乗車への対策費用はしばしば、不正による損失額を上回る! だから対策するだけ鉄道会社は損をするってことなのさ! だから対策をしない。対策をしないということは、オレたちの不正は見て見ぬ振りをされるということ。つまり処罰されないということ! いいか嬢ちゃん。行動は処罰された瞬間に悪になる。処罰されなければ悪いことじゃあないのさ! したがって――」
「黙れ。録音は終わったわ。あなたたちは逮捕される」
飛鳥夏衣の一声。
「ざまあみろ」
飛鳥はそれだけ言って踵を返し、立ち去っていった。
と、数秒後。
「ちょ! ちょっとちょっとちょっと嬢ちゃん! それは社会が許さないんじゃねえかな!?」
シルクハットのよく喋る不良が不恰好な走り方で飛鳥の前に回りこむ。もう一人の不良も続く。将も物陰からさりげなく出てあとを追う。
「うるさい」
「お願いだよ、その録音機を渡してくれよお。渡してくれなきゃ暴力に訴えるしか……あ痛っ!」
喋る不良が合気道のような技で倒される。
「嘘です! 暴力ってのはつまり暴力的なまでの社会的センセーションをもたらす土下座をするっていう意味で」
「じゃあしなさい」
二人の不良は、立ち止まった飛鳥の目の前で地面に額をこすりつけて言う。
『すみませんでした』
「安心しなさい、取調室のカツ丼もきっとおいしいわ」
「許してくれねえのか!?」 「ねえのかあ?」 「ひひ」
飛鳥は二人組を無視しようとして、はたと立ち止まり、シルクハットの不良を視線で射抜いた。
「そこのシルクハット。あなた、【ラッシュアワーの魔術師】よね」
物陰から見つめる将は眉をひそめる。
(ラッシュアワー? の? 魔術師? 異名? 何の? ダサくないか? というかあのシルクハット、見覚えがあるな。いや、それより……)
「よ、よく知ってるなあ嬢ちゃん」 「あとその呼び方は不愉快だわ」 「……すまん」
「そこのシルクハット、【執行者】としての腕前は相当なものらしいわね。だから二つ名が付いている。でも失望したわ。仮にも【執行者】なら誇りを持って改札を通りなさい。これは執行者の、命を張ってでも守るべき義務よ」
シルクハットの不良は、飛鳥の心臓をえぐるかのような鋭い眼光で震え上がる。
「明日、この駅で【通行許可争奪戦】を受けてもらうわ。それであなたが負けたら、これからは執行者を名乗るな」
「通行許可争奪戦をやれば社会的に許してくれるのか?」
「わたしに勝てば許してやるかもしれないわ」
二人組は地面に座ったまま顔を見合わせる。そして頷いた。
「へへっ! ありがとな姉ちゃん! あばよ!」 「あばー」 「ひゃひゃ」
走り去っていく不良二人組。それを見送る将には意味のわからないことだらけだった。エグゼキューショナーだの、二つ名だの、ジャッジだの、特殊な業界の住人なのだろうか。なんだか気持ちが悪い。
しかし飛鳥夏衣からは。将の大好きな「仕事人オーラ」がほとばしっていた。
(絶対、ジャッジとやらを見よう。よくわかんないけど、きっと格好いい飛鳥先輩が見られる)
将は拳を握り締めた。
(明日が楽しみだ)
○
謎の男が指を鳴らすと、ICカードが消えた――
将は、明日に飛鳥夏衣がやるというジャッジとやらを楽しみにしつつ、布団の中でその時のことを思い返していた。
その謎の男は将が乗り換える駅で、改札越しに話しかけてきた。シルクハットを被っていて怪しかったから無視しようとしたが、その男が指をパチンと鳴らした直後、ポケットを探すとそこにあるはずのICカードが消えていた。
将のうろたえている様子を見て軽く笑ったあと、シルクハット男はもう一度指を鳴らした。すると何もなくなっていたはずのポケットにICカードが戻ってきていたのだ。
しかしそれは将が元々持っていたカードとは違うものだった。
定期券の役割もなく、たったの四円しかチャージされておらず、極め付けに名前欄の「ザンネン デシタ」。新しくカードを発行してもらう羽目になった。定期がいくらしたと思っているんだ。シルクハット男には怒りを覚えずにはいられない。
そのシルクハット男が、飛鳥の言っていた【ラッシュアワーの魔術師】だ。
よくわからないが、飛鳥は明日そいつと何らかの形で戦うらしい。
ICカードを何らかの形で消してしまうような謎多き相手にどうやって勝つのだろうか?
そもそも、一体何をするのだろうか?
きっと物凄く格好よくて、荘厳な美しさを持った競技をするに違いない。
そんなことを考えながら眠りに落ち、朝がやってくる。
次回、第二話「執行者 -Executioner- (後編)」




