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約束

作者: 春雨 轍

その年の夏は一段と暑かった。当時高校生だった僕は剣道に打ち込んでいたためか、疲労がたまっていたらしく、ある日熱を出した。ひどい頭痛と吐き気もした。医者が言うには髄膜炎という病気らしい。入院することになったが、そんなに長くならないことは自分でもわかっていたし、部活を休めるからむしろ心の中では喜んでいたのだ。

僕が病室に入ってきたとき、隣のベッドには若い女性が眠っていた。女優になれるほどの美人ではなかったけれど、僕には十分すぎるほどの魅力が感じられた。実際入院するほどでもなかった僕は、その人の寝顔の魅力で頭が占領され、頭痛なんて頭のすみっこのほうへ追いやられたようだった。医者に聞いてみたところ、その人は何かの検査入院らしかった。なんの検査入院かは教えてくれなかったのだが。翌日僕はまず何から聞こうかすごく迷った。大学生なのか社会人なのか、どこの大学なのか、なんの仕事なのか。いつから入院してるのか、いつ退院できるのか…でもいったいなんの検査入院なのか、それが一番知りたかった。でもどんな病気であれ、反応がしずらいことはあきらかだったから、ためらった。そんなことをちまちま考えていたら、女性から話しかけてきた。

「昨日入ったのね。きみ、なんの病気なの。」

突然だったので僕はびっくりした。まるで僕の心を読んだみたいだ。でも病気のことを聞いてきたんだから聞き返しても大丈夫だ。と思った。

「あの、髄膜炎とかいうのです。僕の場合は軽いんで数週間で退院できるらしいですけど。えーと、何の病気なんですか。」

「軽いんだ。よかったじゃない。私は検査入院なの。白血病の。」

「え。」

おもわず口が勝手に動いてしまった。だがすぐに彼女は付け加えた。

「でもなにかの数値がほんの少しだけ低かっただけだから、多分大丈夫だと思うの。」

僕は白血病なんてドラマや映画の世界の話でしか聞いたことがなかったから驚き、あわてたが最後まで聞いて、少しほっとした。でも病気である可能性がないわけじゃないのに、さらりとそんな病気だって言えるなんて、強い人だと思った。僕にはまねできそうもなかった。

彼女は大学生だった。いかもいまどき珍しく、哲学系の学問を専攻しているらしい。なるほど彼女は博学な人だった。僕も多少の常識とそれ以上の知識は持っていたつもりだったから、今の世の中はこうだとか、政治や環境や、僕の将来などに関する話をした。芸能だの娯楽についての話は、ほとんどしなかったと思う。僕は彼女を数日で好きになったけど、その感情よりもむしろ憧れや尊敬といったたぐいの感情のほうが強かった。思春期とはそういうものだ。やたらと年齢を気にするのが世間では普通だったし、僕もそうだった。もしもう少しだけ大人の僕が当時と同じ状況に立つことができたのなら、1時間、いや30分もしない内に愛し始めてしまっただろうに。


ある日の夜、あまりうまくない食事を済ませ、テレビを見ていたら、彼女が話しかけてきた。

「ねぇ、絶対的な考えってあると思う?」

「…よく意味がわからないよ。」

「だから、すべての人が共通して持ってる考えってこと。あると思う?」

僕は驚いた。そんなもの存在するはずがないじゃないか。彼女らしくないな、と思った。

「ないんじゃない?そんなもの。どうせ、平和を願う心、とか言うんじゃないの?」

「さすがにそこまでバカじゃないわよ。でもあったらいいわね。」

「で、あると思うの?」

「うん。あると思うわ。」

いったいなんていうのか楽しみだったと同時に、僕はその理論をへし折ってやろうと意地悪な気持ちになっていた。

「ずっと考えてたんだけど…生きていることの最終目標は皆同じだと思う。何のために生きるのかってことかな。」

「え、そんなものこそ千差万別でしょ。なにが目標だって思うのさ。」

彼女は少し間を置いてからその小さな口を開いた。

「…死ぬ直前、その瞬間に、あぁいい人生だった、って思えるように生きていくことが目標だと思うの。だってどんなに悪い人だって、すさんだ心を持っていた人だって、そう思いたいはず

でしょ?でも、そういう人たちは、どこかで階段を踏み外して、結局そう思えずに死んでいくんだわ。だからきっとそのときになったら後悔するはずよ。」

「それは…」

僕は否定するのをやめた。

「その考えがすべての人に共通するかどうかはわからないけど…僕はその通りだと思う。」

「本当?ありがとう。人前でこんなことを言うのは恥ずかしいな。」

「もっと多くの人にその考えを伝えてあげるべきだと思うよ。」

「…ありがとう。」

僕はその考えがそべての人に共通するものではないということはわかっていた。彼女もわかってはいただろう。でも僕はこんなにも素敵な思想を持っている人をほかに知らなかったから否定なんて到底できっこなかった。それに彼女は気がついていたのだろう。検査入院ではすみそうもないことに。


僕はその翌々日退院した。彼女には軽く挨拶したぐらいだったように記憶している。やがて夏も終わり、学校が始まり、いつもの生活に戻っていった。しかし心の中は前とは少し違っていた。なにをやっても集中できず、何かの塊が頭にできたみたいで、そいつが僕の思考回路をたびたびストップさせた。それはやはり彼女のこと、そして彼女の言ったことに他ならないのだ。彼女の言った、「死の直前に人生に満足できること」とはいったい何なのか。その意味を理解しようと必死に考えた。それが生きる目的だとしたら、僕はその目的を果たせるのだろうか。父は、母は、兄は、親友は、そして彼女自身はどうなんだろう。しかしそのことを考えると、必然的にその人の死をイメージせざるを得なかったからやめた。でも彼女についてだけは考えるしかなかった。最も気になった、知りたかった。それに死のイメージがやたらとリアルに浮かび上がってくるのだ。九月下旬、彼女はまだ退院していないらしかった。


十月の中旬ごろ、会いに行こうと決めた。たった二週間少し隣のベッドにいただけの僕が、わざわざ見舞いに行くのも変だと思って躊躇したし、もし彼女が僕のことなんか全然気にしてなくて、そっけなくされたら、なんて変な心配し続けた結果、こんなに時間がたってしまった。


僕は見舞い品にはレモンを持っていくことにした。彼女は部屋を移動したらしい。僕がドアを開けると、彼女は少し驚いたように僕を見て、言った。

「来てくれたんだ。来てくれないかと、もうあきらめかけてたところだった。」

僕はほっとしたし、うれしかったし、もっと早く来ればよかったと後悔もした。彼女は少しやせ、青白い顔だったが、やはり綺麗だ。

「う、うん。もっと早く来ようと思ってたんだけどさ、いろいろあって。あ、レモン持ってきたから置いとくよ。」

「レモン好きなの?」

「味も好きだけど、梶井基次郎の『檸檬』が好きなんだ。だから一番好きな果物はレモンなんだよね。もしかして嫌い?」

「ううん。好き。形と色が好き。ちょっと私にはすっぱ過ぎるけどね。『檸檬』は私も好き。素敵小説だと思う。」

僕はそんなことより聞きたい。あのことを。君は生きる目的を達成できそうかどうか。でもやはり聞けないのだ。病気と闘っているのにこんなことは。しかし彼女が切り出した。

「私が言った生きる目標、達成できるように生きてる?悪事を重ねると、後悔するわよ。」

微笑みながら言っていた。まただ、また僕が聞ける状況を作ってくれた。この人は心が読めるのだろうか。

まるで僕に聞いてほしいみたいだ。そう思った瞬間、涙が出そうになった。必死にこらえて僕は聞いた。

「そっちはどうなの?達成できそう?」

情けないほど小さな声だった。自分で何言ってるのかよく聞き取れないくらい。彼女は深呼吸をして、口を開いた。

「どうかな、できると思う。」

彼女は続けた。

「でも…でももう少しあとでもよかった気もするよ…もう少し。」

彼女は泣いていた。美しく、強い涙だ。僕は白々しく慰めたり激励したりするのはやめた。

「俺、絶対後悔しない。妥協もしない。心からいい人生だったって思えるように生きていくよ。誓う。約束する。生きる目標、絶対達成してみせる。」

「…うん。君なら達成できるよ。きっと。約束だから…」

「…」

「さぁ、こんなところにいないで、行きなよ。勉強とか、しなくちゃ。」

「…うん。」

僕は顔を上げ、涙を拭き、強い口調で言った。

「じゃあ、もう行って来るよ!」

僕は走って病室を後にした。

もう涙は出なかった。代わりにこみ上げて来るのは使命感にも似た果てしないやる気だけだ。秋の訪れをささやく街を、ただただ走りぬけていった。


僕は二度と彼女に会いに行くことはなかった。それから狂ったように勉強に励んだ。後悔はしたくないから。それから何ヶ月かして、彼女は亡くなった。僕は病気のことは詳しくは知らなかったが、急性のかなり重い白血病だったようだ。


僕は彼女との約束を守らなければならない。その約束は途方もなく難しいものだ。妥協もできないのだから。本当に彼女の言った生きる目的を達成できた人間なんかいるのかどうかすら不安にもなったが、僕は自分の信じる道を、ひたすら突き進んだ。




そしていま、僕は病室にいる。ベッドの中の僕には後悔もなにもない。死を目前にし、あるのは彼女との約束を果たせた充実感だけだ。

読んでいただいてありがとうございました。

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