戻り船、神田の灯
わいわいがやがやと、今日も「神田のだるま屋」は景気がいい。
縄のれんをくぐれば、いつもの面々が顔を揃えている。大工の熊五郎に、足の速さだけが自慢の飛脚、チョロ松。米屋の奉公人、定吉と亀吉のコンビに、青物売りの徳松。威勢のいい魚屋の勘八がいれば、隅の方では岡っ引きの辰次と手下の半太が、徳利を前に何やら耳打ちし合っている。
「おみっちゃん、こっちへもう一合!」
空になった徳利を振って声が飛ぶと、
「はーい、ただいま!」
看板娘、おみつの弾んだ声が返る。安くて旨くて娘は器量よし。一日の憂さを晴らしに集う男たちの笑い声が、夜の神田に響いていた。
そこへ、すっと縄のれんをくぐって入ってきた男。
一瞬、店内の空気が重くなり、男たちがわずかに顔をしかめた。
「あら、善三郎さん、いらっしゃい」
「おう」
善三郎は空いた席に腰を下ろすと、無造作に指を一本立てた。
「熱いのを、一合付けてくれ」
彼は腕のいい料理人で、おみつの許嫁だ。いずれはこの店を継ぎ、おみつの婿になる男である。
「はいよっ、熱いとこをどうぞ!」
おみつが盆に乗せた徳利を差し出した、その時だ。
縄のれんの隙間から、夜の湿った風とともに、居酒屋の煮炊きの匂いをかき消すような甘く濃い香が流れ込んできた。
「善さん、まだかい?」
涼やかな、それでいてどこか人を小馬鹿にしたような声。
入ってきたのは、およそこの界隈には不似合いな、目の覚めるような縮緬をまとった若い女だ。日本橋あたりの大きな店のお嬢様かと思わせる、贅を尽くした身なりである。
女は、おみつの差し出した徳利など目に入らぬ様子で、善三郎の肩にしなだれかかるように腰を下ろした。
男たちが一斉に顔をしかめたのは、そのあまりの厚化粧と、袂からぷんと漂う「花の露」の、鼻をつくような香料の匂いのせいだ。
「……おゆみさん。外で待っていてくれと言ったはずだ」
善三郎が苦々しく口を開く。
「いいじゃないか。こんな掃き溜めみたいな店、サッサとお暇をいただいておしまいよ。お父様も、いつまで待たせるんだってお冠なんだから」
おみつは、震える声を抑えて静かに問うた。
「……どういうことなの?」
善三郎は視線を逸らし、苦りきった声で言い放った。
「すまねえ、おみつ。お前との夫婦約束は、この場で反故にしてくれ」
隣でおゆみが、勝ち誇ったように薄笑いを浮かべている。
「納得がいくように、ちゃんと説明しておくれよ」
「俺は、このおゆみさんと一緒になる。……決めたことだ」
「へえ、そう。でもね、相手は泣く子も黙る大店のお嬢様だろう? あんた、遊ばれてるだけじゃないのかい」
「馬鹿を言うな。おゆみさんは廻船問屋の篠野屋の一人娘だ。旦那様にもお目通りして、婿養子に入る許しをいただいた。ゆくゆくは俺が、篠野屋の主になるんだ」
おみつは、哀れみすら含んだ呆れ顔で首を振った。
「おめでたいねえ。そんな美味い話、裏があるに決まってるじゃないか」
「……羨ましいなら、そう言やあいい。行くぜ、おゆみさん」
「ええ、行きましょう。こんな煤けた店、二度と来ることもあるまいし」
二人は夜の闇に消えていった。おみつは寂しさと悔しさを噛み締めながらも、どこか憑き物が落ちたような顔で、その背中を見送った。
このやり取りを、じっと聞き耳を立てていた男がいる。
岡っ引きの辰次だ。隣の手下、半太に鋭い目配せをすると、半太は音もなく席を立ち、二人の後を追って闇へ滑り出していった。
それから程なくして、善三郎とおゆみの祝言が挙げられた。
豪奢な式だったと風の噂に聞いても、おみつの心はさざ波ひとつ立たなかった。ただ、幼い頃に泥だらけになって笑っていた、あの頃の善三郎の顔だけが、遠い記憶の底で揺れていた。
しかし、異変はすぐに訪れた。
商売の右も左もわからぬ善三郎に、「店はお前に譲る」と言って、篠野屋の旦那夫婦はあっさりと隠居し、そのまま行方をくらませた。やがておゆみまでもが姿を消し、残されたのは途方に暮れる善三郎一人。
そこへ、顔面蒼白の大番頭が駆け込んできた。
「善三郎様、大変です! この店の『鑑札』も『株』も、とっくの昔に他所へ売り払われております! この店はもう、もぬけの殻と同然です……!」
善三郎たちは着の身着のまま、店を放り出された。暖簾は下ろされ、そこはもう篠野屋ではない。
呆然と立ち尽くす善三郎の背後に、冷ややかな声が響いた。
「篠野屋善三郎、神妙に致せ。抜け荷の疑いにより、奉行所へ連行する」
振り返れば、捕り縄を手にした定廻同心と、その脇にはあの辰次親分が立っていた。
「あっ、えっ……」
抗う術もなく、善三郎と大番頭は後ろ手に縛り上げられ、引き立てられていった。
事の真相は、あまりに惨いものだった。
篠野屋は数年前から、禁じられた薬種の抜け荷に手を染めていた。しかし、その薬で死者が出たことで、お上が本腰を入れて探索を始めたのだ。窮地に陥った旦那夫婦とおゆみは、何も知らぬ善三郎を「隠居後の主」として祭り上げ、全ての罪を擦り付けて、財産と共に夜逃げを企てていたのである。
善三郎はお白洲で裁きを受けた。
主としての責任は免れぬものの、祝言から日が浅く、裏事情を全く知らされていなかったことが考慮され、死罪を免じて遠島の申し渡しが下った。一方、逃亡先で捕縛された旦那夫婦とおゆみは、言い逃れ叶わず死罪に処された。
罪人を乗せた船が、霊岸島の波止場を離れる。
おみつは、遠ざかる船影をただ静かに見つめていた。未練はない。ただ、胸の内で小さく呟いた。
「さようなら、ぜんちゃん」
それは、淡い恋心を抱いていた幼い日々の自分と、善三郎との、本当の決別であった。
――それから十年の歳月が流れた。
将軍家に若君が誕生した祝儀として、大赦が成された。善三郎もまた、島を出ることが許されたのだ。
過酷な島での暮らしに、多くの者が病で命を落としたが、善三郎は幾度もの死線を越え、奇跡的に生き延びた。
しかし、江戸の土を踏んだ男の姿に、かつての腕利き料理人の面影は微塵もなかった。
十年ぶりの江戸は、眩しいほどの懐かしさに満ちていた。かつての自分なら、これほど無様に落ちぶれる姿など想像だにしなかっただろう。
吸い寄せられるように神田へ足を向けると、いつしか「だるま屋」の前に立っていた。中からは、あの頃と変わらぬおみつの明るい声が聞こえてくる。
誘われるように縄のれんをくぐると、店内の賑わいに安堵しつつも、善三郎はおみつの視線を避けるように隅の席へ身体を丸めて座り込んだ。
「いらっしゃい! 何にしましょう?」
おみつが軽やかに歩み寄ってきたとき、善三郎は思わず顔を上げた。
二人の視線が、まじまじとぶつかる。
「今日は鯵のいいのが入ってますよ」
おみつは何事もなかったかのように微笑んだ。善三郎は喉の奥が熱くなるのを堪え、消え入りそうな声で絞り出した。
「……じゃあ、それを」
おみつは自分に気づいていない。そう思うと、情けなさと安堵が混ざり合った。
「おみつ、上がったぞ!」
帳場の奥からは、おみつの父親の、あの少し嗄れた懐かしい声が響く。
「おっかちゃーん!」
そこへ、小さな男の子が勢いよく店に駆け込んできて、おみつの膝にしがみついた。善三郎の視界が、ぐらりと揺れる。
「これこれ、邪魔をしちゃいけないよ。おっかちゃんはお仕事中だ。ばあちゃんと遊んでおいで」
おみつの母親が、柔らかな笑顔で後を追ってきた。
「こら、小吉。おっかちゃんやばあちゃんを困らせるんじゃねえ」
厨房から出てきた若い男が、おみつの肩に親しげに手を置いた。
「おとっちゃん!」
子供は嬉しそうに男の脚にしがみつく。それを見たおみつの父親も目を細め、婿となった男に声をかけた。
「もう手は足りてる。少しの間、小吉の相手をしてやりな」
「へえ、すまねえ。おやっさん」
男は子供をひょいと肩車して笑った。
そこにあるのは、非の打ち所のない幸せな家族の風景だった。
今の善三郎にとって、それは直視できぬほどに眩しく、そして残酷だった。
自分はもはや、二本の「入墨」を腕に刻まれた凶状持ち。まともな奉公も叶わず、二度と包丁を握ることも許されないだろう。
どこで違えたのか。いや、分かっている。あの時、欲に目が眩まなければ、この場所にいたのは自分だったはずなのだ。
善三郎は壁に顔を向け、声も立てずに静かに泣いた。
――おみつは、気づいていた。
三十も四十も老け込み、泥をすすって生きてきた男の顔の奥に、かつての「ぜんちゃん」の面影を。
けれど、おみつは何も言わなかった。ただの客として、鯵の皿を置いた。
気づかぬふりをして通すこと。それが、今の善三郎に捧げられる、おみつの精一杯の慈しみだった
お読みいただき、ありがとうございました。
大好きな時代物をちょっぴりですが、書けて楽しかったです。




