Ⅴ 相剋
「真のモンゴルとは、どこにあるのか」
1276年。クビライ・ハンの軍勢が南宋の都を追い詰め、遊牧の民が中華の支配者として「絶頂」を極めんとしていたその時、背後の草原で激震が走った。
クビライが掲げる「中華流の統治」に反旗を翻したのは、他ならぬモンゴルの皇族たち――シリギを筆頭とする「黄金の一族」の諸王であった。彼らにとって、豊かさに溺れるクビライは草原の誇りを捨てた裏切り者に映ったのだ。
背後を突かれたクビライは、南宋攻略の英雄バヤンを急ぎ北へ差し向ける。
戦場は、先祖伝来の聖地アルタイ山脈。
吹き荒れる吹雪の中、最強の騎馬軍団同士が正面から激突する。
それは、世界を統べる巨大帝国が「中華の覇者」と「草原の孤狼」に分かたれていく、悲劇的な戦いの幕開けであった。
風が、すべてを削り取っていく。
アルタイの山脈を背にした草原に、春の気配は微塵もなかった。
1276年。大都のクビライが南宋の息の根を止め、中原に新たな「元」という版図を刻んでいた頃、北の荒野を支配していたのは、血の匂いを含んだ寒気だった。
「クビライは、変わった」
焚き火の爆ぜる音に混じり、シリギは呟いた。
その瞳には、先代カン・モンケの面影がある。
だが、いま宿っているのは、権力への渇望よりも深い、置き去りにされた者の焦燥だった。
「奴は漢人の絹を纏い、漢人の言葉で法を説く。草原の掟を捨て、椅子に座って世界を統べようとしている。あれはもはや、我らと同じ血の通った男ではない」
傍らで、ヨブクルが黙って剣を研いでいた。
アリク・ブケの息子。
かつてクビライと帝位を争い、敗れ去った父の無念を、その研ぎ澄まされた刃に宿している。
「血が薄まったのだ、シリギ。黄金の氏族の誇りは、大都の贅沢と共に飲み込まれた」
ヨブクルの言葉は冷たかった。
「ならば、吐き出させるまでだ」
シリギは腰の剣に手をかけた。
彼らにとって、この反乱は領土を奪うための戦いではなかった。
自分たちが何者であるかを確認するための、凄絶な儀式に過ぎなかった。
「アントン殿。今宵の風は、少々騒がしいようですな」
シリギは、クビライの信任厚い重臣アントンの幕舎を訪れた。
アントン。チンギス・カンの重臣・ムカリの末裔。
その忠誠心は、モンゴル帝国の屋台骨を支える鋼そのものだった。
「シリギ殿か。北方の守りは、風よりも人の心が騒ぐものだ」
アントンは地図から目を離さず、静かに言った。
その無防備な背中が、シリギには耐え難かった。
自分たちを疑うに値せぬ存在として扱っているように見えたからだ。
「……忠義か。俺が守りたいのは、あんたが仕えるカアンではない。この大地だ」
シリギが合図を送ると、幕舎の垂れ幕が揺れた。
飛び込んできたのは、ヨブクルとメリク・テムル。
アントンが腰の刀に手を伸ばすより早く、三人の影が彼を包囲した。
「シリギ……貴様、正気か」
「正気だ。少なくとも、お前の主君よりはな」
1276年、夏。北方防衛軍の総司令官アントンは捕らえられた。
それは、クビライが南の海で宋という最後の敵を屠ろうとした瞬間に、背中から突き立てられた深々とした匕首だった。
クビライは、報告を聞いても動じなかった。
大都の宮廷。香煙が立ち込める中で、老いたカアンは細めた目で北の空を眺めていた。
「シリギか。モンケの息子にしては、少々、思慮が足りぬ」
その声には、怒りよりも哀れみが混じっていた。
「バヤンを呼べ」
南宋を滅ぼし、英雄として凱旋したばかりのバヤンが、皇帝の前に跪いた。
「バヤンよ。お前の剣には、まだ南の血がこびりついているか」
「いえ。すでに磨き上げ、次の獲物を待っております」
「北へ行け。シリギたちが、草原の夢を見ている。鉄を、奴らに叩き込んでやれ」
バヤンの軍勢が北上を開始したとき、草原の状況は混沌を極めていた。
反乱軍は、一時的にカラコルムを制圧していた。
だが、そこにあるのはかつての栄華の抜け殻だけだった。
シリギは、カラコルムの玉座に座ってみた。
だが、冷たい石の感触があるだけで、何も満たされない。
「……何かが違う、ヨブクル」
「ああ。ここには、もう風が吹いていない」
二人は知っていた。自分たちが求めていたのは、この椅子ではない。
クビライが持っている時代という名の鍵なのだと。
一二七七年、オルホン河。
バヤンの率いる元軍と、シリギの反乱軍が正面から激突した。
空は低く、重い雲が大地を押し潰そうとしていた。
「突撃せよ! 我らこそが、真のモンゴルの後継者なり!」
シリギが叫び、先陣を切った。
だが、バヤンの陣形は微動だにしない。
南宋の堅城を次々と砕いてきた軍略と、規律という鎖で縛られた騎馬兵。
それは、シリギたちが信じる個人の勇武を嘲笑うかのような、巨大な機械だった。
「哀れだな」
バヤンは、本陣から乱戦を見つめていた。
「彼らは死に場所を探しているに過ぎん。草原を愛すると言いながら、草原を血で汚すことしかできぬ男たちだ」
バヤンの合図で、重装の騎兵が側面から反乱軍を切り裂いた。
泥濘の中で、馬が倒れ、男たちが叫ぶ。
シリギは剣を振るったが、その刃は空を切るばかりだった。
自分の敵が、目の前の兵士ではなく、自分たちを置き去りにした時間そのものであることに、彼は気づき始めていた。
反乱は、泥沼の逃亡戦へと変わった。
シリギたちは北西の雄、ハイドゥを頼った。
クビライを仇敵とするハイドゥならば、自分たちを受け入れるはずだ。
だが、ハイドゥという男は、シリギたち以上に冷徹だった。
「ハイドゥ殿、どうかクビライへの備えに使って頂ければ」
「シリギよ。お前たちの誇りに、どれほどの値打ちがあると思う?」
エミル川のほとりで、ハイドゥは薄笑いを浮かべて言った。
「お前たちは、クビライを揺さぶるための駒だ。駒が動けなくなれば、捨てる。それが草原の理だ」
シリギは悟った。自分たちはどこにも属せない。
クビライの大都にも、ハイドゥの野望にも。
ただ、歴史の狭間で足掻く、時代遅れの狼に過ぎないのだと。
「……ヨブクル。俺たちは、どこで間違えたのだ」
雪が降り始めた。
1282年、反乱軍の内部で裏切りが相次いだ。
かつての同志たちが、自分の首をクビライへの手土産にしようと狙っている。
「我々は間違えてなどいません」
ヨブクルは、凍えた手で馬の手綱を握り直した。
「俺たちは、ただ生きた。自分の血が命じるままに。それだけで十分だった」
捕らえられたシリギは、大都へと送られることなく、最果ての地へ流された。
クビライは、彼を殺さなかった。死よりも残酷な忘れ去られるという刑を与えたのだ。
それから数年後。
かつてシリギが座ったカラコルムの廃墟に、一人の老人が立っていた。
風が吹くたびに、砂が古き都の跡を覆い隠していく。
「国が、消えるというのはこういうことか」
バヤンは呟いた。
崖山で海に沈んだ南宋も、この草原で志半ばで消えたシリギたちも、結局は同じ波に飲み込まれたのだ。
「生き切った者こそが、人生において勝ちなのだ」
張世傑が遺した言葉が、どこからか聞こえた気がした。
だが、その勝者の名は、誰の記憶にも残らない。ただ、この乾いた風だけが、男たちの魂を運び去っていく。
シリギは、遠く南の空を見上げた。
そこには、自分が決して届かなかった、巨大な帝国の灯が見えた。
彼は静かに眼を閉じ、深い闇の中へと沈んでいった。
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