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遊牧史 Ⅲ 南宋陥落す  作者: 神箭花飛麟


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Ⅳ 崖山

1273年、襄陽陥落。数千年の歴史を誇る鉄壁の城が、西域の知恵によって砕かれたその瞬間、南宋という王朝の根は止まり、逃れられぬ滅亡への秒読みが始まった。

1275年、丁家洲。長江を埋め尽くした二千五百隻の軍船は、巨大な国家が最後に見せた虚勢に過ぎず、放たれた巨石が先陣を砕くと同時に、栄華は霧散し、川面は敗走者の血で赤く染まっていく。

1276年、都・臨安の開城。戦わずして門が開かれ、皇室のものたちが涙とともに北へ連行される傍らで元は、平和という名の無残な静寂を見届けた。

だが、これらはすべて序章に過ぎない。残された忠臣と幼き皇帝は、もはや陸地を失い、南の最果て、荒れ狂う波が逆巻く崖山へと追い詰められていく___

「アジュ元帥は、この戦の結果を待たずに北へ戻られました。だが、あの方が残した指令は一つです。『南宋という息の根を、今度こそ完全に止めろ』と」

アジュの副官・アリハヤが、アジュの言葉を代弁するように遼海と水戦に優れていることで派遣された張弘範に告げる。

「望むところだ」

張弘範が答えた。


「丁家洲とは、また違うなぁ。ボロカン」

遼海はアジュから副官にと置かれたアジュの息子に呼びかけた。

「ですね。まだ結束力があります」

丁家洲では宰相の賈似道が出てきたが、普通に突撃したら艦隊が互いにぶつかり合って沈み、戦わずして逃げられたあっけなさと言ったらなかった。

襄陽の六年の攻囲に耐えた南宋軍とは思えなかった。

目の前の南宋軍はまだ悲壮さはあるが投げやりではない。

入り江に千隻を超える軍船が長大な鎖で一列に並べられている。

連環の計の真似事だ。

「海の長城、と言ったところか」

「そのようですね」

総司令の張世傑は何を考えているのだろう。

船を固定するというには一応は動く城壁ということなのだろうが、一度包囲されれば籠城と同じである。

しかし、燃えないように泥も船に塗ってあるところから見ると南宋はもう船とともに滅ぶつもりらしい。

自分なら、さっさと降伏するのにな。

つくづく不思議だ。


丞相の陸秀夫は皇帝に論語を説いていた。

「我十有五にして立つ。陛下、意味はおわかりですか」

「うーん。わからんなぁ」

八歳の少帝は、その血筋ゆえにその戦いで最も哀れな者だっただろう。

「意味は、私は十五歳で学問を立てたということです」

「十五歳!早いなぁ。丞相殿は何歳だっけ」

「私は四十四歳です。陛下よりかなり上ですね」

「さすが。尊敬します」

「さぁ、学問の続きですよ」

「はぁい」

この皇帝が座する御前船が、波が立つ崖山で最も異様な船だった。

なんと、丞相が毎日皇帝に論語を説いているのである。


張世傑は怒っていた。

「なぜ張弘範が主将なのだ!」

元々、張世傑は張弘範の父の張柔の配下として名を上げた者だった。

しかし、軍務の時に命令に逆らって兵を移動させ、自分の配下を重視して危険にさらさなかったので忠義を疑われ、南宋に逃亡してきた経緯があった。

南宋ではなるたけ兵士と苦楽を共にし、軍規を厳しくしてなんとか名将として扱われるよう心がけてきた。

その逃げてきた将軍の子・張弘範と対峙している。

何かの因縁としか思えなかった。

「弘範は笑っているだろうな」

こんな絶望的な状況に、連環の計を試みたのだ。

無謀だからととられても仕方なかった。

しかし、負けるとなると兵たちは船ごと逃げるのが常なのだ。

負けるのが変えられないならば、せめて不退転の決意を揃えるまでだ。

船団の周囲には高楼を築いた。

木を組み、泥で固めた。

国を枕に、死ぬのか。

その決意を、あいつらは知らない。

生ききった者こそが、人生において勝ちなのだ。


国が、消える場面に立ち会っているかもしれない。

張弘範は思った。

十日間囲んでいるが、全く屈しない。

真水と薪は補給できないはずで、兵たちは海水をも飲んでいる。

食料があっても、それを炊く薪すらもない。

なぜ、屈しない。

矢も雨あられと降らしているが、ほぼ無視されている。

張世傑の甥を呼んだ。

「張世主よ、必ずや叔父を説得してこい」

「はっ」

張弘範の下に残っていた甥だった。

軍事の才能はそこそこだが胆力があったし、今ならなんでも使うべきだった。


張世傑は使者としてきた甥を迎えていた。

「叔父上は元々こちらの人間だ。今さら滅びゆく南宋に義理立てして死ぬことはない。降伏すれば高い地位を約束するし、一族の安泰も保証する」

「ふざけるな!私は国が滅びることを知らないわけではない。だが、誰と死ぬべきかは知っている」

「そうですか」

「そうだ」

「後悔、しないのですね」

幼い時は目をかけた甥だった。

少し、心が動く。

「帰れ!打ち首にするぞ」

「構いません」

「なぜだ」

「私の首ごときで、この地獄が終わるなら」

瞬間、肺腑を突かれたような衝撃が走った。

「地獄、とな」

「そうとしか思えません。海水を飲み、米の粒を噛む兵たちを見ると」

「そうか」

もう心残りはない。

「見回りに行ってくる」

「そうですか」

ここで退いては、男の名折れだ。


「そうか。失敗したか」

「もう交渉は無駄かと思われます」

「仕方ない」

張弘範はアリハヤに命じた。

「日を選び、総攻撃をかけろ!」

「はっ」

潮の流れを読む必要があるが、すぐ来るだろう。


「ついに今日か」

「はい」

「国が、滅びるのだな」

「そうですね」

遼海はある種感動的な思いで見た。

「総攻撃がかけられたようです」

「だな」

目を凝らす。

乱戦の中。一部の船団を率いて突破した一団があった。

あれは。

「張世傑か!」

「心配しなくて結構です。帝がいないかぎり人は集まらないでしょう」

「だろうがな」

皇帝が坐す御前船を見た。

「何を…」

陸秀夫であろう男が女性を海に投げている。

「妻だろうか」

「でしょうね」

理解できなかった。

なぜなのだろう。


「志士仁人は、生を求めて以て仁を害すること無く、身を殺して以て仁を成すこと有り。陛下、意味はおわかりですか」

陸秀夫が問うた。

味方の船は次々と沈み始めている。

これが、最後の講義だった。

「なんだろうなぁ。志があるものは生きるために正義を曲げない、くらいか」

「ご明察でございます。しかし、続きもございます」

「続き?」

「自らの命を投げ出してでも、人として道を成らす」

帝の顔が変わった。

「そうか」

「はい」

「終わったのだな」

英明な帝は、陸秀夫の正装で気づいたのだろう。

「国運は消えました。国と共に死んでください」

「仕方ないなぁ。丞相は。はっきり言うんだから」

帝がはにかんだ。

どうしようもなく、可愛かった。

「行きますか」

「おう」

玉璽を帝の腰に下げた。

帝が震えている。

だから自分が、幕引きをしなければ。

固く結んだ。

間違っても浮き上がらないように。

「さて、陛下。結びますよ」

「わかった」

体同士をきつく縛る。

「丞相」

「なんですか」

「好きだったぞ」

陸秀夫は、何も言えなかった。

舳先に足をかける。

「国をですよね」

帝が笑う。

「両方だ」

海に飛び込んだ。

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