Ⅲ 襄陽
1234年、モンゴルと南宋の連合軍によって蔡州が陥落し金が滅亡すると、南宋は失地回復を狙って北方へ出兵する「端平入洛」を試みたが、これがモンゴルの怒りに触れ、両国は全面戦争へと突入した。
かつて金の猛攻を食い止めていた防衛網はもはや存在せず、オゴデイからグユク、モンケそしてクビライへとハーンの座が引き継がれる中で、モンゴルの騎馬軍団は四川から長江下流に至る全戦線で南宋を蹂躙し、その防衛体制を次第に中流の一点へと追い詰めていった。
クビライは大ハーンに即位すると、従来の略奪的な強襲から中華を支配し領土化する戦略へと転換し、その障壁となる南宋最大の要衝・襄陽を、アジュ率いる多民族の混成集団によって完全に孤立させるべく包囲網の構築を開始した。
1206年、草原の風に吹かれていた一人の少年と少女がいた。
それから六十年――。
かつての少年は帝国の重鎮となり、その血を引く者たちは、歴史の分岐点となる「襄陽」の地で牙を研いでいた。
これは、一族が歩んだ「遼かなる旅路」が結実する、もうひとつの記録である。
1268年-襄陽。
中原で古来から最も重要な要衝な一つであり、何千年も前から堅牢な城が築かれてきた。
その西にある孤山、それが万山である。
都元帥・阿朮はそこから襄陽を眺めていた。
「意外とあっさり奪えたな」
「はい」
副官の阿里的海牙が答えた。
兵たちが遅かったので大将自ら突撃したら何故かすぐに突破できた。
「ここからなら、城内に投石器も届くな」
「はい。すでに準備もさせています」
ちょうど発射音が聞こえた。
城内に混乱が走る。
「さて」
アジュは胡床に座った。
「いつまで、持つであろうな」
遼海は襄陽の北、漢水を挟んだ城である樊城を囲んでいた。
「遼西殿から伝令です。将軍」
「伝令、か」
何年も前から西の果てのフレグ・ウルスに出向しており、首都のタブリーズに住み着いている弟から手紙のような伝令が来た。
「兄上、こちらにはトレブシェットと呼ばれるとてつもない大砲がございます。それは巨大な錘を使った大きな投石器のようで、数里先まで飛ばすことができます。
南宋攻略に時間がかかっているということを小耳に挟んだので、城攻めに使われるといいと思います。何ヶ月かもしくは数年以内にイスマーイールとアラーウッディーンと名乗るものが来ましたら、お通しください」
「ほう」
手こずってなどいないという感触だが、外から見たらそうも見えるのか。
遼西は昔から、技術が好きだったな。
見るからに頑丈な樊城を眺め、呟いていた。
「見るだけ見てやろう」
張貴は命じた。
「元軍に一旦紛れた後、夜襲し、襄陽に物資を届けろ!」
「はっ!」
生きては帰れないだろう。
しかし、国がある。
だから、進めるのだ。
冠水に張り巡らされた鉄鎖や杭は遡上する南宋軍を頑強に食い止めていた。
「進め!」
元軍の旗を掲げ、兵士も元軍の鎧を装っている。
もう襄陽は四年も包囲されていた。
堂々と振る舞えば、最も気づかれない。
古来からの教えである。
もう露見する頃だろう。
「あの船を調べろ!」
それに被せるように命じた。
「偽装を解け!武器を出せ!」
ついに南宋軍であることが露見したようだ。
火器や矢が雨のように降り注ぐ。
城内の苦労を思えば、なんのこともない。
たった百隻の孤独な行軍である。
「鎖を斧で切り裂け!」
幼い頃から共に育った隣の船に乗る張順が命じていた。
「行け!行け!」
城門が見えてきた。
「もうすぐだ!」
「張順!少し落ち着け!」
体力の使いすぎだ。
「大丈夫だ、兄上。俺は敵を引きつけてくる」
「待て!」
聞いてなどいなかった。
張順が川の真ん中に躍り出る。
「我が名は張順!南宋の義士なり!」
当然、元軍の猛攻で矢が降り注いだ。
夜の船は、傾き始める。
「張順!」
その声が張順の耳に聞こえることは、なかった。
「ほう。南宋もやるなぁ」
「意外とやりますね」
アジュは南宋の援軍に感心していた。
「司令殿!遼海殿より伝令です」
「遼海殿からだと」
この四年で前回がいつか思い出せないほど前の伝令なほど、遼海は連携しようとしなかった。
確かにこの戦いは連携する必要は少ないが、それにしてもこの少なさは珍しかった。
「なんでも、西域から技術者を呼んだので樊城は三ヶ月以内に落ちるそうです」
「はぁ?三ヶ月だと」
信じられなかった。
どんな新兵器を使おうと城内の士気はこちらが一旦救援軍を突破させてしまったので、否が応にも上がったはずだ。
どうやろうと半年はかかる。
「では、発射させてみろ」
遼海はイスマーイールに命じた。
開封にある宮殿に並ぶほどの高さの木の櫓が襄陽に組まれていた。
頂点に長い棒が乗っており、片方には小山のような石や膨大な数の鉄が入った巨大な箱が吊ってある。
もう片方には引いて石を乗せるための長い紐がついている。
「滑車を回せ!」
牛や大勢の兵たちが紐を引き始める。
「石を置け!」
引かれた紐の中に巨大な石を置く。
「台から箱を動かせ!」
台から箱は動いた。
真下に箱が落下する。
えげつない音が響く。
「石から離れろ!」
それと同時に、紐に引かれた石がとんでもない速さで城に向かっていった。
「届くだろうな」
「もちろん」
アラーが答えた。
その時、バコッという音が場に鳴り響いた。
城壁が一部崩れたのだ。
元軍が大歓声を上げた。
「よし」
遼海は命じた。
「昼夜問わず撃ち込み、樊城の士気を下げろ!」
「はっ」
イスマーイールが答えた。
これは、勝てる。
樊城の守将である呂文信は怯えていた。
「牛富殿、城壁が砲撃で崩れたら元軍を上がらせることになるのではないか」
副官の牛富に言った。
「大丈夫です。襄陽がありますし、そもそもこちらの士気は高い」
牛富は微笑んだ。
「まず、上がらさなければいい話です」
「そうだな」
呂文信も安心した。
しかし、恐ろしい兵器だ。
天を咲くような轟音で向かって来たかと思えば易々と壁を破壊したのだ。
何年も耐えていた樊城の士気が下がり始めている。
ついに終わるかもしれない。
その不安は、拭えなかった。
「崩れた、な」
二週間は樊城も耐えていたものの、城壁はついに崩れた。
「全軍、侵入せよ!」
遼海は命じた。
樊城は降伏勧告は一切聞き入れなかった。
「ならば、滅ぼすのみ」
牛富は城内の市街地に出た。
多くの民がいる。
すまない。
「全軍家に入り、そこに籠って戦え!」
「しかし、殿」
部下が言ったが、切り捨てた。
「黙れ!国の存亡がかかっているのだぞ!少しでも、少しでも遅らせるのだ」
一番大きい家に入った。
「すまない」
まず頭を下げ、十名を出入口に配置した。
「お母さん、この人たちは?」
少女が困惑している。
しゃがんだ。
「おじさん」
「君は、何か守りたいものがあるかい」
「守りたいもの」
「そう。おもちゃだったり、犬だったり。お母さんでもいい」
「じゃあ、お母さん!」
涙が出そうになる。
「そうかぁ。おじさんはな、国を守りたいんだ」
「くに?大事な人なの?」
「そう」
正面から見れなくて、目を逸らした。
「大切な人がたくさんいる」
「そうなの」
少女がはにかんだ。
「なら、守らなきゃね」
「だから、今戦っているんだよ」
「じゃあ、おじさんがんばれ〜」
「ありがとう」
こんな子のためにも全身全霊となって守らねば。
「君の名前は」
「私?私の名前は管道昇だよ」
「そうか」
少女を抱き上げた。
「あははっ。たかーい」
涙が出るのを賢明に堪える。
まだ、負けてはない。
俺には使命がある。
「おじさん、頑張ってくる」
「そうなの」
寂しそうな顔をした。
「また会おうな」
「うん!」
踵を返した。
家を出る。
もうほとんどの家は燃え始めていた。
剣を抜いた。
「我が名は牛富!南宋軍侍衛親軍歩軍副都指揮使なり!」
一息で言い終えると、元軍がこちらを向かってきた。
近衛兵の副長といったところだ。
「愚か者が!」
なぜ、こんな奴らに国を奪われねばならない。
こちらが何かしたなら、謝ろう。
こいつらは何も聞かない。
ただ、圧倒的な力で攻めてきた。
それに少しでも立ち向かうことが、せめてもの忠義だと信じていた。
剣が折れた。
元軍から剣を奪い取る。
なぜ。
なぜだ。
管道昇、覚えたぞ。
強く、生きてくれ。
樊城陥落を間近に見た呂文煥は決心した。
炎上する城。逃げ惑う民。
民を危険に晒すのは、最も呂文煥にとって将として恥ずべきことだった。
「信兄上、申し訳ありません」
樊城の守将だった兄は死んだだろう。
目の前で見たのに、救えなかった。
襄陽で最も高かった楼閣の五里牌も砕かれた。
弾が放たれ、一瞬で瓦礫と化してしまった楼閣を見た南宋軍の士気は下がり始めた。
総司令のアジュという男から勧告が届いていた。
「汝の忠義は十分に示した。これ以上戦えば、城内の民を無駄に死なせるだけだ。降るなら厚遇しよう」
従わない理由はなかった。
降伏の礼装で守将の呂文煥とかいう男がやってきた。
「降伏するのか、呂将軍」
「はい。もう民を死なせたくはありません」
「だってよ、遼海。よほど効いたんだな」
「どういう聞き方をしたらそうなる」
南宋軍にはない軽快なやり取りで呂文煥は驚いていた。
しかし、アジュという男は見るからにモンゴル人だったが、遼海という男は見た目は漢人だったがどこか違う雰囲気をも醸し出していた。
「六年の籠城を、終わらせて良いのだな」
数えてなどいなかった。
「はい」
「そうか」
アジュが微笑んだ。
「ありがとう」
襄陽は、ここに陥落した。
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わかりにくい方用に回回砲のリンクを貼っておきました↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/トレビュシェット
襄陽という巨大な「盾」が砕け散ったこの時、南宋の命運は事実上、決したと言っていい。この後、戦火は長江を越え、大陸を南へ南へと焼き尽くしていくことになる。
だが、この苛烈な破壊の渦中にありながら、のちに中国史上最高の女流書画家と謳われる一人の少女が、辛うじて生き延びていた。管道昇である。
彼女はこの混乱を潜り抜け、やがて稀代の文人・趙孟頫の妻として、滅びた祖国の美学を新しい時代へと繋ぐ役割を担うことになる。
武力がすべてをなぎ倒した後に、それでもなお残り続けるのは、こうした一握の気高さなのかもしれない。




