Ⅱ 開禧
1125年に金が天祚帝を捕らえて遼を滅ぼすと、その勢いで北宋をも攻め滅ぼし(靖康の変)、宋の残存勢力は南へ逃れて南宋を立てた。
その後、両国は淮河を国境とする屈辱的な和平を結んだが、金は北の草原でテムジンが大モンゴル国を建国し、その力が揺らぎ始めると、南宋では失地回復を求める主戦論が再燃する。
阿骨打が「朽ちぬ金」を掲げてから九十年。
金の都・燕京には、かつて彼らが軽蔑した遼の贅沢を凌ぐほどの華やかさが満ちていた。
鉄を錆びさせた黄金は、いまや中原の富を吸い上げ、眩いばかりに輝いている。
だが、その輝きは夕陽のそれに似ていた。
1206年。南の宋が、この老いた黄金の帝国を『錆びた』と見なし、刃を向けてきた。
――開禧北伐である。
開禧二年ー南宋首都・臨安府。
北の果てで蒼狼がついに天に向かって咆哮を上げた年である。
韓侂胄は命じた。
「金を討ち、靖康の恨みを雪げ!」
臨安は沸き返った。
言葉はそれだけでよかった。
何も、心配はない。
風が吹いている。
南からの風だ。
天が行けと言っている。
真剣にそう思った。
揚州の城門は、北伐を祝う旗で埋め尽くされていた。
総司令・郭倪は、金糸で刺繍された豪華な陣羽織をまとい、優雅に羽扇を動かす。
兵士たちは華やかな行進のように城内を歩き、その足取りは軽い。
城門の直前で全兵士が停止した。
「遺漏はないな、畢再遇」
副官の畢再遇に言った。
「ご安心を。諸軍、全て準備万端とのことです」
「よし」
郭倪は羽扇を振った。
諸葛孔明の再来と幼い頃から讃えられてきた。
その才を、見せるときだ。
「出陣せよ」
「はっ」
城門が開く。
南宋軍十一万が、出陣した。
なんの大義もない北伐が、始動した。
一方その数百里西では、中北部の司令・皇甫斌は東部の出陣の知らせを受け、出陣を命じた。
兵力は金に勝る。
何より、漢族は百年近く金の圧政に苦しんできたのだ。
必ず金国内の漢人も呼応するはずだった。
しかし、街道の村々は静まり返り、呼応するはずの民の姿はどこにもなかった。
ただ、兵に取られているだけだ。
皇甫斌はそう決めつけ、古来からの名城・襄陽から南宋軍五万は中原の入り口、唐州を目指し北上を開始した。
畢再遇は自分の手勢八百に夜襲を命じた。
国境河川・淮河を小舟を使い、無音で渡る。
事前に対岸には大量の旗を立て、金軍の目を欺けたはずだ。
金軍主力の歩哨を見ると、対岸に集中しているので、偽装工作は成功したらしい。
城壁が見える。
「まだ静かにな」
部下に言い、先頭に立って城壁を登った。
「我が名は畢再遇!南宋軍総大将郭倪の副官ぞ!」
畢再遇は叫んだ。
剣を抜く。
飛び降り、暴れ回った。
「我こそは畢再遇なり!」
火が見え始め、太鼓や銅鑼が打ち鳴らされた。
金軍が雪崩を打ったように敗走を始める。
「追撃!追い討ちに討て!同士討ちは禁じるぞ!」
城内は混乱に陥っていた。
残る金軍をまとめようとするところがあったが、乱入して大将を討つ。
気づけば、抵抗するものはほぼいなくなっていた。
「泗州を占領したぞ!」
畢再遇は歓声を上げた。
城内に広がっていく。
金軍を、破れるかもしれない。
畢再遇は本気でそう思った。
一方その数千里西、南宋西部の要衝・四川の司令呉曦は金の丞相・完顔襄からの密書を受け取っていた。
「貴公の祖父の呉玠や父は名将だったが、宋はまともにその働きに報いたか。 韓侂胄如きが国を支配するようでは、宋も終わりだ。金に降れば、お前を蜀王に封じ、四川をそのまま任せよう」
「ふむ」
祖先が名将であったために、四川宣撫の地位は引き継いできたが、今後も引き継がれるかどうかはわからなかった。
今までも、四川から離され、臨安で閑職に飛ばされたことも会った。
出世など望めず、このまま四川にいれるかすらも怪しかった。
正直、中央には愛想を尽かしかけていた。
「姚絳、どう思う」
腹心の姚絳に言った。
「宋を捨て、金の後ろ盾を持って殿が四川を支配する方が今後を見据えた時、適していると思います」
「なるほど」
呉曦は腰を上げた。
中央の文官どもは俺を疑い、兵を奪ってきた。
長年育ててきた精鋭を帝の護衛に回されたことも、現場を知らない官僚の下に置かれたこともあった。
負ければ責任を押し付け、勝っても功績を認めないだろう。
ならば、金から王として迎えられた方が、よほど一族の誇りを守れるのではないか。
「姚絳、完顔襄殿に密使を」
「ご用件は」
「蜀王に任じてもらえるならば、降伏すると」
四川の運命は、ここに決した。
その数千里東北、金国首都・燕京。
「陛下、呉曦が寝返りました」
「そうか。内部は固めているのか」
「反対する将校はほぼ抑えたようです」
「ならばよい」
金国皇帝・完顔璟は南を見た。
「ほかの戦況はどうだ」
「唐州は皇甫斌に攻略されていますが、頑強に完顔充が抵抗しています」
「泗州はどうだ」
泗州は当初、畢再遇の奇策で占領されたものの、名将・完顔匡が率いる十三万が出陣して宿州まで引き込み、補給の切断に成功している。
「完顔匡殿が包囲中です。南宋軍は逃げ出し始めているとのことです」
「南宋は、もう終わりだな」
「はい」
「歳幣の増額を求めることにするか」
「ですね」
完顔璟は盤上の駒がどう動くか、指す前から分かっていたかのように興味を失い、自らの国が滅ぼした北宋の最後の帝・徽宗の芸術である書画を愛ではじめた。
「また、元凶の討滅も必要です」
完顔襄が言った。
「元凶だと。郭倪か」
「いえ、あいつは小物です」
「ならば、誰だ」
「宰相の韓侂胄です。あやつの首を送らせます」
「ふむ。よかろう」
完顔襄が退出しようとした。
「あ、待て」
「何でしょう」
「北に密偵を増やすように」
「なぜですか」
「どうにも、南宋と連携を取ろうとする動きがあるらしい。早く潰さねばならん」
完顔襄が目を見開き無言で拝礼した。
「よくご存知なのですね」
「朕の配下の密偵は優秀であろう」
「はい」
苦笑し、完顔襄が退出した。
郭倪は逃亡を始めた。
馬に飛び乗る。
豪雨の中包囲され、食料も尽きた。
金軍が泥を跳ねながら突撃する地鳴りがここまでも聞こえる。
「泗州に入られますか!」
「とにかく逃げろ!長江を渡れ!」
「はっ」
金軍への恐れで鼻水と涙で顔がぐしゃぐしゃである。
「速く行け!速く!」
羽扇を落とした。
俺は、諸葛亮ではなかったのか。
李好義は月明かりで剣を研いでいた。
蜀王となった呉曦の武将である。
呉曦の邸宅は金から贈られた豪華な品々で飾られ、夜な夜な酒宴が開かれていた。
「安丙殿、裏門の警備は薄いのだな」
「何度も確認した」
呉曦の側近である安丙に昨日、国の恥である呉曦を誅せるのはお前だけだと説得され今日、出陣することになった。
五十人しか率いない。
「俺は蜀の矛となる」
剣を構えた。
「その意気だ、李好義殿」
立ち上がる。
「行くぞ」
弟の李好古を先頭についてきた。
邸宅が見える。
裏門を叩いた。
「兄上!何をされているのですか」
「訪っているだけだが」
警備兵ですら呉曦に愛想を尽かしているのか、こちらが武装していても開門した。
「信じられないです」
「そんなこともある」
息を吐く。
「呉曦、いや」
違う。
「国の恥を、討つ」
李好義は駆け出した。
大体が寝静まって油断している。
抵抗するものは殺すように、降伏するものは生かすように厳命してある。
「兄上!呉曦はここです!」
寝室が見つかった。
扉を開く。
「李好義、お前」
呉曦が剣を佩いていた。
残念ながら相手にすらならなさそうだ。
呉曦が剣を抜く。
「宋なんぞに臣従して未来はあると信じたか」
「そんなことは関係ない」
呉曦の剣を床に叩きつける。
「お前は、金に反抗した祖先を裏切った」
首筋に剣を当てる。
「それは、何をしようと許されない」
首が落ちた。
韓侂胄の塩漬けにされた首と引き換えに嘉定の和議が結ばれ、南宋はさらなる巨額の歳幣と臣従を強いられることで辛うじて破滅を免れた。
しかし、勝利したはずの金もまた、名君・章宗の死と同時に黄金時代の終焉を迎え、北方の野で力を蓄えたチンギス・カン率いるモンゴル軍の猛威にさらされることとなる。
かつて北宋を震撼させた女真族の武勇は、洗練された文化の影で錆びつき、防衛線は次々と突破され、1215年にはついに帝都・燕京が陥落した。開封へと逃れた金は、かつて自分たちが追い詰めた北宋と同じ末路を辿るように領土を削られ、1234年、モンゴルと南宋の連合軍に包囲された蔡州にてついに帝国は完全に崩壊した。
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