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遊牧史 Ⅲ 南宋陥落す  作者: 神箭花飛麟


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1/5

Ⅰ 天祚

天に二つの太陽はない。だが、十二世紀初頭の北の大地には、一つの巨大な闇がすべてを覆っていた。


キタイの国、遼。 それは二百年にわたり、北方の諸部族を鉄の規律と圧倒的な武力で蹂躙し続けた、凍てついた帝国である。


その東の果てに住まう狩猟の民――女真。 彼らは遼の貴族たちの娯楽のために、己が命を削り続けていた。 白き隼、海東青。 雲を突き抜け、天空を舞うその美しき鳥を捕らえるため、女真の若者たちは極寒の沼地に沈み、峻険な崖から命を落とした。

「我らは、鷹を運ぶための奴隷ではない。人は、家畜の餌ではない」

屈辱は土に染み込み、怒りは凍土の下で熱湯のように煮えたぎった。 その怒りを、行動へと昇華させた男がいる。 完顔部の長、阿骨打。


百万の兵を擁する帝国に対し、彼が率いたのはわずか二千五百の猟師たち。 錆びゆく鉄の鎖を断ち切り、永遠に朽ちぬ金の時代を築くための、それはあまりにも無謀で、あまりにも美しい叛逆の始まりであった。

1115年-按出虎水(アルチュフ)

アクダは叫んだ。

「遼は長年自分たちの贅沢のために海東青を我々に命を懸けて獲るよう命じてきた!」

「そうだ!」

声が重なる。

海東青は白隼(シロハヤブサ)のことで、遼の貴族たちの鷹狩りという娯楽に使う。

なんとそれを運ぶ鷹路(ようろ)という専用の道さえ作ったのである。

「そしてそれを運ぶ使者も我々に邪暴を行ってきた!」

「そうだ!」

彼らは村に着くと族長たちに自分たちの相手をさせるために、一族の若く美しい娘や、まだ結婚したばかりの妻を差し出せとまで行ってきたのである。

誇りを、汚され続けていた。

アルチュフの凍てついた川辺で、土を盛り上げた祭壇だ。

なんの準備もない。

それで、よかった。

「遼の愚民どもは精錬された硬い鉄の遼を国号とした。だが、鉄はいかに硬くとも錆びて朽ちる。我らが選ぶのは(ウル)だ。金の色は変わらず、金は決して朽ちることはない!」

「ウル!ウル!ウル!」

ここに、大金国が生まれた。

昇る朝日に照らされたアクダの鎧は、泥にまみれながらも鈍い黄金色に輝いていた。


1115年-護歩答岡(フフトゥ・ハダ)

アクダは遼軍七十万と対峙していた。

どう見てもそんなに多くはないのだが、士気を上げるためにも多く言っている向こうに合わせるほうがいい。

敵は、多いほうが燃えるのだ。

どうやら遼の帝もわざわざ来ているらしい。

「前衛、ぶつかります」

司令の粘没喝(ネメガ)が言った。

従兄弟の子にあたるネメガは、軍事の天才とも言っていい逸材だった。

遼軍と比べ、こちらの軍のほうが明らかに練度も武器も優っていた。

しばらくぶつかっていたが遼の本陣に明らかに動揺が走ったのが見て取れた。

「なんだろう、あれは」

「ただ我らに驚いているのでしょう」

「そうではない」

「帝が、逃げたな」

呉乞買(ウキマイ)殿より伝令!」

ちょうど後方の兵站などを管理している弟ウキマイから伝令が来た。

「遼後方の上京臨潢府の耶律章奴が反乱を起こしました!その知らせを受けて天祚帝は逃亡!」

「だろうな」

これは直感でしかないが、偶にわかる時がある。

「遼軍は総崩れとなる模様です!」

「さて、ネメガ」

ネメガに呼びかけた。

「はい」

「勝てばなんであろうとよし、だな」

「もちろん」

アクダは叫んだ。

「我が金の兵たちよ!」

「アクダ!アクダ!」

兵たちが呼びかけに呼応する。

「遼の総大将が逃亡した!」

遼軍に動揺が走る。

「もはや退路はない!」

両軍が静まる。

「全軍に告ぐ!」

これは、好機だ。

「蹂躙せよ!」

了解(バイメ)!」


1122年-居庸関

北の山脈から燕京へと抜ける細い谷間で、古来から一人が守れば一万人でも通れないと伝えられる要衝である。

耶律大石は接近する金軍に向けて矢を放つ準備を兵たちにさせていた。

今年の春、帝は逃げた。

妃や皇子も全て捨て置いて西の山脈の夾山にさっさと逃げたことは民を瞠目させた。

そのため耶律大石も帝の従兄だった耶律淳を皇帝に立てたが、もはや最後に残った都市の燕京の民ですら遼に靡かなくなり始めていた。

遼は、いよいよ滅ぶかもしれない。

「金軍、射程に入りました」

副官の耶律羽之が言った。

「放て!」

大石は命じた。

無数の矢が狭い谷間を埋め尽くす。

狙いは狂っていない。

だが、金属音とともに矢は虚しくも弾かれた。

金の兵士は怯むどころか、胸に刺さったままの矢を素手でへし折った。

「効かない、だと」

驚くほどの強靭さだ。

今まで宋の惰弱な兵に相手して退けるのとは訳が違った。

完顔阿骨打。

その男と軍勢が通った後には、草一本残らぬと言う。

「将軍!あれを!」

羽之が山を指さした。

山が崩れ始めた。

大石は信じられなかった。

落ちてきた巨岩が遼軍を押し潰し始める。

天が、崩れた。


大石(ダシ)。お前の主は国を捨て、山に隠れて震えている。それなのになぜ、別の皇族を帝に立ててまで遼を残そうとしている」

アクダは、遼の最後の忠臣と向かい合っていた・

「俺は遼の男だ。主が逃げようと、国はなくならん。その火を絶やさんと力を尽くすのみだ」

「ほう」

アクダは髭を撫でた。

「だが天命は決した。大石、金に仕えぬか」

「無理だ」

大石が足元に唾を吐いた。

「ならいい」

アクダは興味を失った。

「ネメガ、中京まで護送しておけ」

「はっ」


大石は逃げる機を窺っていた。

生きてさえいれば、再起もできる。

どうやら護送している兵たちの漏れ聞こえてくる話では燕京は大石たちが敗れた後、あっさりと開城したらしい。

怒りが湧いたが、今行動を起こしても処刑が早くなるだけだ。

さっさと逃げねば。

夜が来た。

見張りの歩哨の兵が二人立っているが、雑談をしているようだ。

舐めやがって。

寝ている兵に近づき、剣を奪った。

気づいていない。

縄を静かに切る。

まだ気づかれない。

後ろから歩哨たちに近づく。

剣で薙ぐ。

二つの首が落ちた。

寝ている兵たちを無視し、大石は馬に乗って疾駆し始めた。

辱めを雪がねば。


なんとか天祚帝がいた夾山にたどり着いた。

そこには力強い味方たちがいたが、相変わらず帝の姿は頼りなかった。

偉い人間は、いつもいうことだけが威勢がいい。

「大石!なぜ帝の朕を捨て置いて燕京で淳を皇帝にしたのだ!」

こんな山中でそんなことを知らせてくる人間がいるというだけで、大石は吐き気がした。

「陛下は逃げたのです。なので遼を再興するためには遼の皇族であり、人望もあられる淳様を皇帝に立てただけでございます」

帝が言葉を失っている。

遼という大国を統べようとしたかつての皇帝たちの面影は、そこにはなかった。

帝がいたところから降りた。

「大石様!」

数人が駆け寄ってくる。

塔不煙(タプエン)!」

一番懐かしい顔のタプエンがいた。

幼い時燕京で出会い、そこから永生に共に生きることを約束した女である。

「羽之、査刺阿不(サシアブ)斡里剌(オリラ)!」

羽之以外、全員遼の皇后を出す一族の蕭姓である。

居庸関で負けた時、大石より他の者はさして何にもならないと思われたのか、解放されたらしい。

今の帝や帝の侍中たちとは違い、全員が稀に見る逸材だった。

「大石殿」

羽之が神妙な顔で言った。

「どうした」

「このまま天祚帝と金軍を心待ちにできますか」

「どういうことだ」

「ここから逃亡し、我々の遼を作りませんか」

「どこでだ」

「西です」

目が開かれる思いがした。

すでに北と東は金の支配下で、南は遼を裏切り、燕京に攻め寄せた宋の領土だ。

「当ては、あるのか」

「ありませんね」

サシアブが屈託のない笑みを浮かべた。

「そうか」

大石も笑った。

「ということは、どこまででも征けるということだな」

「そうです」

皆が笑っていた。

新しいものは、初めて作る。


夾山で二百騎を集めることができた。

まだ多いほうだと思った。

もちろん、タプエンも連れて行く。

「出陣!」

「はっ!」

短くも力強い地響きのような声が返ってくる。

ここから、始まるのだ。


1128年-余都谷

「さて」

ネメガは老いたかつての帝を見下ろした。

こんな男を、今まで地を這って追っていたのか。

「助けてくれ、助けてくれ」

無様に命乞いをする男を見る。

「馬鹿野郎」

首を斬る。

砂塵に塗れた男の周囲には、もはや彼を庇うものは誰一人としていない。

本当に、手を煩わせた小男だった。

大石が二百騎で砂漠へ消えてから、物語が次なる局面を迎える1206年までの八十余年。 西へと逃れたキタイの民たちは、中央アジアの地で驚くべき再起を果たした。

たどり着いた北西の要衝・可敦城カトゥンで、大石は未だ金に降っていない守備隊を説得し、軍勢を一万以上にまで拡大。そのまま西へと進軍し、1132年には自ら皇帝「グル・ハン」として即位し、西遼カラ・キタイを建国する。

その後、1141年、カトワンの戦いで西遼は十万のイスラム連合軍を撃破し、中央アジアの覇者として君臨する。

大石の死後も、彼と共に砂漠を越えた皇后・蕭塔不煙タプエンたちが国を護り、西遼はシルクロードの繁栄を支える大帝国として八十年にわたり黄金時代を維持し続けた。

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