第9話:感情の森
数日が経った。
食べ物がある。温かい場所がある。誰も攻撃してこない。
でも、落ち着かなかった。
眠る時も、耳が動く。物音がすると目が覚める。体は休んでいるのに、心が休まらない。
いつ変わるかわからない。いつ裏切られるかわからない。この穏やかさが、いつまで続くのか。
ミーヤは毎日来た。多くを語らない。ただ、そこにいる。何も聞かない。何も急かさない。
その日も、ミーヤが来た。
「お前に見せたい場所がある」
僕はついていった。断る理由もなかった。
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森に入った。
空気が変わった。草原の開けた空気とは違う。木々の匂い。土の匂い。湿った、深い匂い。
見たことのない森だった。
赤い樫。青い柳。黄金のポプラ。
木々が色を持っている。葉だけじゃない。幹も、枝も、根元の土さえも。それぞれが違う色に染まっている。
風が抜けた。
音が聞こえる。
笑い声。泣き声。叫び声。囁き声。
どこから聞こえるのかわからない。木々の間から、風に乗って、かすかに届いてくる。
「この森には、感情が木として生きている」
ミーヤが言った。
「怒り、悲しみ、喜び、恐れ。すべてがここにある」
僕は歩いた。足元の土が柔らかい。落ち葉が積もっている。色とりどりの落ち葉。
美しい木があった。黄金の葉を輝かせて、周囲を明るく照らしている木。近づくと、胸の奥が温かくなる。懐かしいような、切ないような。
——母さんの毛並みに包まれていた時の感覚に、少しだけ似ていた。
足が止まりそうになる。でも、ミーヤが先を歩いている。ついていく。
青い柳があった。枝が垂れて、風に揺れている。涙のように。近づくと、胸が締め付けられた。
段ボールの中で待っていた夜を思い出す。母さんの匂いが消えていくのを、ただ待っていた夜。
目を逸らした。
歪んだ木もあった。枝が絡まり合って、自分自身を締め付けているような木。見ているだけで息苦しくなる。あの野良猫グループの縄張りで、ボス猫の下で縮こまっていた時の感覚。
どの木も、生きていた。
どの木も、僕の中にあるものだった。
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ある木の前で、足が止まった。
黒い木だった。
幹がねじれている。枝には棘が生えている。周囲の草は枯れて、土も黒ずんでいる。
近づいただけで、胸がざわついた。毛が逆立つ。体が強張る。
「これは……」
「憎しみの木だ」
ミーヤが言った。
「お前の中にあるものと、同じ」
目を逸らそうとした。
でも、体が動かない。
知っている。この感覚を。この熱さを。この黒さを。
——こいつです。
ソラの声が蘇る。
——こいつです。
指を差された瞬間。目が合った瞬間。世界が止まった瞬間。
あの夜、路地裏で湧き上がった感情。「あいつが不幸になればいい」「いつか絶対に」「あいつさえいなければ」。止められなかった。止めようともしなかった。
同じだ。
この木と、同じだ。
「こんなものが、僕の中にあるのか」
声が震えた。
「ある。そしてそれは、悪いことではない」
「悪くない?」
振り返る。ミーヤを見る。
「こんな醜いものが?」
ミーヤは静かに答えた。
「憎しみは、傷ついた心が自分を守ろうとした結果だ」
「守る……?」
「お前は傷ついた。だから憎んだ。それは自然なことだ」
自然。
傷ついたから、憎んだ。
母さんがいなくなった朝。目が覚めたら、隣にいなかった。匂いだけが残っていた。
人間に捨てられた日。段ボールの蓋が閉まる音。車のエンジン音。遠ざかっていく足音。
ソラに裏切られた瞬間。あの指。あの声。あの目。
——だから、憎んだ。
「この木を見て、何を感じる?」
ミーヤが聞いた。
「……醜い」
正直に答えた。
「消えてほしい」
「そうか」
ミーヤは木を見た。
「でも、この木も森の一部だ」
「一部……」
「これだけを切り倒しても、根は残る。別の場所から、また生えてくる」
わかる気がした。
憎しみを消そうとしたことがある。忘れようとしたことがある。でも消えなかった。夜、眠れない時に湧き上がってきた。誰かの幸せそうな姿を見た時に湧き上がってきた。何度も、何度も。
「大事なのは、これがお前のすべてではないと知ることだ」
ミーヤが僕を見た。
「この森を見ろ。赤い木も、青い木も、黄金の木もある。黒い木だけじゃない」
「でも、この木が一番——」
「大きいか?」
言葉に詰まった。
「今はそうかもしれない。でも、森は変わる」
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森を出た。
振り返ると、あの黒い木が遠くに見えた。他の木々に紛れて、でも確かにそこにある。消えてはいない。
「僕は……あれと、一生付き合うのか」
「付き合い方は変わる」
ミーヤは歩き続けた。
「今はそれでいい」
意味がわからなかった。
でも、少しだけ——自分の中の憎しみを「認めた」気がした。
認めただけだ。
受け入れてはいない。
消したいと思っている。あんな醜いもの、なくなればいいと思っている。
でも、消せないこともわかった。
根がある。深いところに、根がある。
切り倒しても、また生えてくる。
——それでも、森の一部だと言った。
僕の一部だと。
まだ、信じられない。信じたくもない。
でも、あの木は確かに——僕だった。




