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第7話:凍える夜

冬だった。


いつから冬になったのか、わからない。気づいたら、空気が凍えていた。


僕は路地裏の隅で、うずくまっていた。


体が動かなかった。動く力が、残っていなかった。


餌を食べていない。何日も。いや、何日かもわからない。数えることを、とっくにやめていた。


傷が化膿していた。


あの日、噛まれた傷。引っかかれた傷。癒えないまま、腫れ上がって、熱を持っていた。


傷口は熱いのに、体は冷たかった。


震えていた。ずっと震えていた。震えを止める力もなかった。


視界がぼやけていた。


何を見ているのか、わからなかった。灰色の壁。灰色の空。灰色の世界。全部が同じ色に見えた。


動く意味が、わからなくなっていた。


どこに行っても、同じだ。


誰も、僕を必要としていない。


---


意識が、遠くなっていく。


記憶が、浮かんでは消えた。


---


温かかった。


母さんの体。柔らかい毛並み。ざらざらした舌が、僕の体を舐めていた。


「お前は優しい子だね」


母さんの声。低くて、柔らかい声。


「優しいから、傷つきやすい。気をつけるんだよ」


母さん。僕、気をつけられなかったよ。


傷ついて、傷つけて、こんなところにいるよ。


---


兄弟の目が見えた。


路地裏で、僕を見上げていた目。


持ち上げられていく僕を、見ていた目。


置いていかれる側の目。


ごめん。


ごめん——。


---


「ミー、可愛い」


子供の声がした。


笑っていた。僕を抱き上げて、笑っていた。


温かかった。あの頃は。


「ミー、元気でね」


手を振っていた。振り返らなかった。遠ざかっていった。


段ボールの匂いがした。


母さんの匂いはなかった。土も、草も、甘い匂いもなかった。ただの段ボールの匂いだけがあった。


---


星が見えた。


屋根の上。隣にソラがいた。


「俺も、お前と同じだ」


同じ傷を持っている。そう思った。


「僕、ソラがいてくれて良かった」


そう言った。本当にそう思った。


ソラは少しだけ笑った。


——嘘だったのか。


全部、嘘だったのか。


「こいつです」


ソラの声が響いた。


目が合った。目を逸らされた。


どうして——。


---


「にゃあ」


子猫の声が聞こえた。


震えていた。怯えていた。餌を奪われて、僕を見ていた。


あの目。


置いていかれる側の目。奪われる側の目。


僕が、そうした。


僕が——。


---


全部が、混ざっていった。


温かい記憶と、冷たい記憶。


愛された記憶と、捨てられた記憶。


奪われた記憶と、奪った記憶。


どれが本当で、どれが嘘なのか。


わからなくなっていた。


---


僕の人生は、なんだったんだ。


問いが浮かんだ。


誰かの都合で産まれた。母猫がいなくなって、兄弟と離れた。


誰かの都合で拾われた。飽きられて、捨てられた。


生きるために誰かを傷つけた。あの子猫から餌を奪った。


信じた相手に裏切られた。僕も、誰かを裏切っていた。


僕は——僕の人生を、生きてたのか。


それとも、ずっと誰かに振り回されてただけなのか。


僕が「こうしたい」と思ったこと。


僕が「こう生きたい」と思ったこと。


一度でも、あったか。


答えが出なかった。


考える力が、もう残っていなかった。


意識が、沈んでいく。


---


目を開ける力も、なかった。


最後に見えたのは、冷たい星空だった。


あの夜、ソラと見た星と、同じ星なのかもしれない。わからなかった。もう、どうでもよかった。


「寒いにゃ……」


声が漏れた。自分でも驚くほど、小さな声だった。


死ぬのか。


そう思った。


怖いはずだった。でも、怖くなかった。


どこか、安心していた。


もう傷つかなくていい。


誰にも捨てられない。誰にも裏切られない。


もう傷つけなくていい。


誰からも奪わなくていい。誰の目も、見なくていい。


あの子猫の目を、もう思い出さなくていい。


「……母さん」


声にならなかった。


目を閉じた。


---


だが、それで終わりではなかった。


---


目を開けた。


眩しかった。


柔らかい光が、視界いっぱいに広がっていた。


温かかった。風が、体を撫でていた。冷たくない風。優しい、温かい風。


立ち上がった。


傷が、痛くなかった。


体が、軽かった。


見渡す限りの草原だった。


緑の草が、どこまでも続いていた。遠くに森が見えた。湖が光っていた。その向こうに、山があった。


「ここは……どこだ」


声が出た。掠れていなかった。


後ろから、声がした。


「ようこそ、猫の国へ」


振り返った。


一匹の老猫が立っていた。


銀灰色の毛並み。穏やかな目。


その目を見た瞬間、胸が締めつけられた。


母猫に、少しだけ似ていた。


同じではない。母さんとは違う。でも、あの優しい目が、少しだけ重なった。


「……誰」


「私はミーヤ。ここで、お前を待っていたのだよ」


待っていた。


誰かが、僕を待っていた。


それだけで、目の奥が熱くなった。


「お前の旅は、ここから始まるのだよ」


ミーヤはそう言って、微笑んだ。


草原の風が吹いていた。


温かかった。

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