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第6話:信頼と裏切り

あの日以来、子猫の姿を見ていない。


どこかへ行ったのかもしれない。別の場所を見つけたのかもしれない。


それとも——。


考えないようにしていた。


考えたら、壊れそうだった。


ソラだけが、支えだった。


---


夜、二匹で屋根の上に座った。


縄張りの端にある、低い建物の屋根。ここからは空がよく見えた。星が出ていた。


「ソラは、どうしてここにいるの」


聞いてみた。ずっと聞きたかったこと。


ソラはしばらく黙っていた。星を見ていた。


「……俺も、お前と同じだ」


「捨てられた?」


「もっと悪い」


ソラの声が、少しだけ低くなった。


「俺は——自分から逃げた」


それ以上は、言わなかった。


僕も聞かなかった。


自分から逃げた。その言葉の重さは、わかる気がした。何から逃げたのかは、わからない。でも、逃げた後の気持ちは、わかる。


後悔と、安堵と、自己嫌悪が混ざった、あの感覚。


「僕、ソラがいてくれて良かった」


口に出していた。


ソラが僕を見た。


「……そうか」


それだけだった。でも、少しだけ、表情が緩んだ気がした。


僕たちは似ていた。


傷ついて、逃げて、ここにいる。


同じ傷を持つ者同士。だから、一緒にいられる。そう思っていた。


---


何日かが過ぎた。


最下層の生活は、厳しかった。


餌は残り物。それも、残っていればの話だ。残っていない日も多かった。ソラが時々分けてくれたけど、それも毎日じゃなかった。


腹が減っていた。


何日も、まともに食べていなかった。


その日、ボス猫の餌が無防備に置いてあるのを見つけた。


ボス猫は少し離れたところで、他の猫と何か話している。こちらを見ていない。


誰も、見ていない。


一口だけ。


そう思った。


一口だけなら、バレない。一口だけなら——。


手を出した。


口に含んだ。久しぶりの、まともな餌の味がした。


「おい」


声がした。


心臓が止まるかと思った。


「誰だ今の」


ボス猫がこちらを見ていた。目が、鋭かった。


違う。見ていなかったはずだ。見ていなかった——。


「誰がやった」


ボス猫が唸った。低い、威嚇の声。


周りの猫たちが集まってきた。僕を囲むように。


「誰だ。正直に言え」


沈黙が落ちた。


僕は震えていた。言うべきだ。自分から言うべきだ。でも、声が出なかった。怖くて、体が動かなかった。


「……ソラ」


ボス猫がソラを見た。


「お前、知ってるのか」


ソラが前に出た。


僕の心臓が跳ねた。


ソラがこちらを見た。


目が合った。


ソラなら——。


ソラなら、わかってくれる。


僕たちは同じ傷を持っている。一緒に星を見た。僕がいてくれて良かったと言った時、ソラは笑ってくれた。


ソラなら——。


「——こいつです」


世界が、止まった。


---


何が起きたか、わからなかった。


気づいた時には、地面に転がっていた。


噛まれていた。首の後ろを。引っかかれていた。背中を。腹を。蹴られていた。何度も、何度も。


痛かった。


体中が痛かった。


「裏切り者が」


「ボスの餌に手を出しやがって」


「出ていけ」


「二度と来るな」


声が降ってきた。いくつもの声が。


体を丸めて、頭を守った。それしかできなかった。


やがて、攻撃が止まった。


「消えろ」


ボス猫の声がした。


僕は立ち上がろうとした。足が震えて、うまく立てなかった。血が出ていた。どこから出ているのか、わからなかった。あちこちから出ていた。


這うようにして、縄張りの外へ向かった。


誰も止めなかった。誰も助けなかった。


振り返った。


ソラと目が合った。


どうして。


声にならなかった。声を出す力も残っていなかった。


どうして、ソラ。


僕たちは——。


ソラは目を逸らした。


何も言わなかった。


ただ、目を逸らした。


---


路地裏を一人で歩いた。


足を引きずっていた。血の匂いが、自分の体から漂っていた。


体が痛かった。


心は、もっと痛かった。


黒い感情が、湧き上がってきた。


あいつが不幸になればいい。


そう思った。


いつか絶対に。あいつを。あいつさえいなければ。


止められなかった。


頭の中で、ソラの顔が浮かんだ。「こいつです」と言った時の、あの顔。僕を見て、目を逸らした、あの顔。


憎い。


憎い。憎い。憎い——。


でも。


「僕だって同じことをした」


足が止まった。


あの子猫。震えていた子猫。餌を奪われて、「にゃあ」と鳴いた子猫。


僕は奪った。


僕も、誰かを犠牲にした。


「僕がソラを責める資格なんてない」


声に出した。誰もいない路地裏で。


憎しみと、自己嫌悪が、同時に押し寄せてきた。


どっちも本当だった。


ソラを憎んでいる。それは本当だ。


でも、僕も同じことをした。それも本当だ。


どっちも消せなかった。


どっちも、僕の中にあった。


雨が降り始めた。


冷たい雨だった。傷に染みた。体温が奪われていく。


「僕は、醜い」


声が震えた。


「人間を憎んで」


「ソラを憎んで」


「でも僕も同じことをして」


「僕は——何なんだ」


誰も答えてくれなかった。


雨だけが、降り続いていた。

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