第5話:檻の中の序列
ソラについていった。
あの夜から、何日か経っていた。ソラは時々どこかに消えて、また戻ってきた。僕は段ボールの近くで待っていた。他に行く場所もなかった。
「ついてこい」
ある朝、ソラがそう言った。
「どこに」
「お前、一人じゃ生きていけないだろ」
優しい言葉じゃなかった。でも、事実だった。
僕は何も言えなかった。
「俺が話をつけてやる」
ソラは歩き出した。僕はその後を追った。
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路地を何本も曲がった。知らない匂いが増えていく。猫の匂い。何匹もの、知らない猫の匂い。
毛が逆立った。体が強張った。
ソラが振り返った。
「怖いか」
「……少し」
「まあ、そうだろうな」
それだけ言って、ソラはまた歩き出した。
やがて、広い空き地に出た。廃材が積まれていて、あちこちに猫がいた。五匹、六匹。もっといるかもしれない。
みんながこちらを見た。
僕は足が止まりそうになった。でも、ソラが前にいる。ソラについていけば、大丈夫だと思った。
空き地の奥に、一匹の大きな猫がいた。
傷だらけだった。耳が欠けていて、顔に古い傷跡があった。目つきが鋭くて、僕を見た瞬間、体が縮んだ。
「ソラ、そいつは誰だ」
低い声だった。唸るような声。
「拾った」
ソラは淡々と言った。
「使えると思う」
使える。
その言葉が、少しだけ引っかかった。でも、考える余裕はなかった。
ボス猫が僕に近づいてきた。匂いを嗅がれた。値踏みするように、ぐるりと周りを歩かれた。
「……ひょろいな」
鼻で笑われた。
「まあいい。最下層からだ」
それが、僕の居場所になった。
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野良猫の社会には、序列があった。
強い者が先に食べる。弱い者は残り物。逆らえば、制裁される。
僕は最下層だった。
餌を食べられるのは、全員が食べ終わった後。残っていればの話だ。残っていないことも多かった。
それでも、居場所があった。
一人じゃなかった。
夜、みんなが眠った後、ソラがそっと近づいてきた。
口に何かをくわえていた。小さな肉片。
「食え」
僕の前に落とした。
「……いいの?」
「いいから食え。お前、痩せすぎだ」
僕は食べた。久しぶりに、まともな餌だった。
「なんで、僕なんかに」
食べ終わって、聞いた。
ソラは答えなかった。しばらく黙って、それから言った。
「……さあな。お前を見てたら、昔の自分を思い出すだけだ」
昔の自分。
ソラにも、何かがあったんだ。
僕みたいに、捨てられたのかもしれない。僕みたいに、裏切られたのかもしれない。
聞きたかった。でも、聞かなかった。
聞いてほしくないことが、自分にもあるから。
二匹で並んで座った。空を見上げた。月が出ていた。
「ソラって名前、空から取ったの」
「……さあな」
ソラは答えなかった。
でも、少しだけ、表情が緩んだ気がした。
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何日かが過ぎた。
ある日、縄張りに見知らぬ猫が迷い込んできた。
子猫だった。
生まれて間もない。痩せていて、汚れていて、震えていた。
僕は、息を呑んだ。
あれは、僕だ。
段ボールの中で震えていた頃の僕だ。路地裏で兄弟と再会した時の僕だ。捨てられて、独りで、どこにも行けなかった僕だ。
子猫は空き地の隅で、小さな餌を見つけたらしい。必死にそれを食べようとしていた。
「おい」
ボス猫の声がした。
僕を呼んでいた。
「お前、あいつの餌取ってこい」
心臓が跳ねた。
「取れたら、お前の序列上げてやる」
周りの猫たちが、僕を見ていた。試すような目。値踏みするような目。
ソラも見ていた。
何も言わなかった。ただ、見ていた。
僕は子猫を見た。
震えている。怯えている。餌を抱え込むようにして、周りを警戒している。
あの目を、僕は知っている。
兄弟を置いていった時の、僕の目。段ボールに捨てられた時の、僕の目。置いていかれる側の目。奪われる側の目。
「僕には関係ない」
心の中で言った。
「僕だって生きなきゃいけない」
言い聞かせた。
「僕だって、ずっと奪われてきた」
自分を捨てた人間。僕を選ばなかった人間。ゲームの方が大事だった子供。
「奪われる側から、奪う側に行くだけだ」
それの何が悪い。
僕は歩き出した。
子猫が僕に気づいた。目が合った。怯えた目。逃げようとして、でも餌を離したくなくて、動けないでいる。
僕は手を伸ばした。
子猫が小さく鳴いた。
「にゃあ」と。
僕は動けなくなった。
一瞬だけ。
すがるような声だった。助けを求めるような声だった。誰かに聞いてほしいという、必死な声だった。
僕もあんなふうに鳴いた。連れて帰って、と。僕を置いていかないで、と。
でも、届かなかった。
僕の足は、止まらなかった。
餌を奪った。子猫の前から、かっさらった。
子猫は何もできなかった。ただ、僕を見ていた。
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餌を持って帰った。ボス猫の前に差し出した。
「やるじゃねえか」
ボス猫が笑った。
「明日から、一つ上だ」
周りの猫たちが、少しだけ僕を見る目を変えた。認められた。序列が上がった。
ソラが近づいてきた。
何か言われると思った。責められると思った。お前、何やってんだ、と。あの子猫が可哀想だと思わなかったのか、と。
ソラは言った。
「……お前は、生き延びた」
それだけだった。
表情は読めなかった。責めているようにも、褒めているようにも見えなかった。
ただ、事実を言っただけのように聞こえた。
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夜、眠れなかった。
目を閉じると、子猫の顔が浮かんだ。震える体が浮かんだ。あの鳴き声が、頭の中で響いた。
「にゃあ」
すがるような声。
助けを求めていた声。
僕は、それを無視した。
僕は……何をしたんだ。
僕は、あいつらと同じになったのか。
僕を捨てた人間。ゲームの方が大事だった子供。僕を選ばなかった母親。
僕を置いていった兄弟。いや、僕が置いていった兄弟。
餌を奪われた僕。餌を奪った僕。
どこに違いがある。
何が違う。
目を開けた。
空を見上げた。星が見えた。冷たい星だった。
ソラは少し離れたところで眠っていた。
「お前は、生き延びた」
その言葉が、頭の中で繰り返された。
ソラも、同じことをしてきたのだろうか。
生き延びるために、誰かから奪ってきたのだろうか。
聞けなかった。
聞いたら、何かが壊れる気がした。




