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第4話:段ボールの記憶

ある朝、目を覚ますと、家の中が騒がしかった。


人間たちが動き回っている。家具が動かされている。何かを箱に詰めている。


段ボールが、たくさん積まれていた。


その匂いを嗅いだ瞬間、体が強張った。


知っている。この匂い。


湿った紙の匂い。埃っぽい、古い匂い。


最初の記憶の匂い。母さんと過ごした、あの場所の匂い。


でも、違う。


あの段ボールには、母さんの匂いがあった。土と、草と、少しだけ甘い匂い。兄弟たちの体温があった。


ここには、何もない。


ただの段ボールの匂いだけが、鼻についた。


僕は部屋の隅で丸くなった。何が起きているのかわからなかった。でも、空気が変わったことはわかった。


毛が逆立っていた。落ち着かなかった。


「引っ越し」


その言葉が、何度も聞こえた。


---


夕方、母親と子供が話しているのが聞こえた。


「新しいマンション、ペット不可なんだって」


母親の声は、事務的だった。


「えっ」


子供の声が揺れた。


「じゃあ、ミーは?」


「連れていけないの」


「やだ!」


子供が泣き出した。


「ミーも連れて行きたい!」


僕は耳を立てた。


泣いてくれている。僕のために、泣いてくれている。


胸の奥が、少しだけ温かくなった。


「でもね」


母親の声が続いた。


「新しい部屋、あんたの部屋すごく広いよ。ゲームたくさん置けるよ。友達も呼べるよ」


沈黙があった。


「……ほんと?」


子供の声が変わった。涙声が、消えていた。


「うん。あんたの好きにしていいよ」


「じゃあ、ゲームの機械、全部置ける?」


「置けるよ」


「やったあ!」


子供が笑った。


さっきまで泣いていたのに。僕のために泣いていたのに。


もう、笑っている。


僕のことなんか、忘れている。


心臓が冷たくなった。


体の芯から、凍っていくような感覚。


ゲームの方が、僕より大事なんだ。


広い部屋の方が、僕より大事なんだ。


僕は——その程度だったんだ。


---


引っ越しの日が来た。


朝から人間たちは忙しそうに動いていた。段ボールを運んで、家具を運んで、家の中がどんどん空っぽになっていく。


僕は、段ボールに入れられた。


暗かった。


蓋を閉められて、持ち上げられて、揺れながらどこかに運ばれた。


車に乗せられたらしい。エンジンの音がして、振動が続いた。


段ボールの中で、僕は丸くなっていた。


匂いを探した。


何か、安心できる匂いを。母さんの匂いを。あの温かさの欠片を。


何もなかった。


段ボールの匂いだけがあった。紙と、埃と、少しだけ湿った匂い。


土の匂いはない。草の匂いもない。甘い匂いも、何もない。


ただの箱だった。


僕を運ぶための、ただの箱。


どれくらい揺られただろう。


車が止まった。


段ボールが持ち上げられた。外に出たらしい。風の音がした。鳥の声がした。


そして、地面に置かれた。


どさり、と。


---


蓋が開いた。


光が差し込んできた。眩しくて、目を細めた。


子供の顔が見えた。


上から、僕を覗き込んでいた。


目が合った。


僕は声を出した。


連れて帰って。


お願い。


僕、いい子にするから。何でもするから。


連れて帰って——。


精一杯、鳴いた。可愛く、必死に。届くように。


子供は僕を見ていた。


しばらく、見ていた。


そして——。


「ミー、元気でね」


手を振った。


立ち上がって、振り返って、歩き出した。


待って。


声を出した。でも、子供は振り返らなかった。


待って。行かないで。僕を置いていかないで——。


子供の背中が、遠ざかっていく。


車のドアが開く音がした。閉まる音がした。


エンジンがかかった。


車が動き出した。


遠ざかっていく。


小さくなっていく。


見えなくなった。


---


段ボールの中で、僕は動けなかった。


周りを見る気力もなかった。ここがどこかも、わからなかった。わかろうともしなかった。


僕が何かしたの。


いい子にしてたのに。


鳴かなかったのに。粗相しなかったのに。毎日、玄関に走っていったのに。


何が足りなかったの。


何が——。


夕暮れになっていた。


空がオレンジ色に染まっているのが、段ボールの縁から見えた。


その縁に、影が落ちた。


顔を上げた。


一匹の猫が、段ボールの縁に座っていた。


知っている。


あの猫だ。


雨の夜、路地裏でこちらを見ていた猫。窓の外から、僕を見ていた猫。


ずっと、僕を見ていた猫。


「……お前、ずっと見てたのか」


声が掠れた。


猫は答えなかった。


僕を見下ろして、それから、ゆっくりと段ボールの横に降りてきた。


何も言わなかった。


ただ、そこに座った。


僕の隣に。


---


夜になった。


気温が下がって、段ボールの中が冷えてきた。


でも、隣に猫がいた。


温かくはなかった。体をくっつけているわけじゃないから。でも、いた。そこにいた。


「お前、名前は」


僕は聞いた。


しばらく間があった。


「……ソラ」


低い声だった。


それだけだった。


ソラは多くを語らなかった。どこから来たのか、なぜ僕を見ていたのか、何も言わなかった。


でも、そこにいてくれた。


この夜、僕は初めて独りじゃなかった。


段ボールの中で、空を見上げた。


星が見えた。冷たい星だった。


でも、隣に誰かがいた。


この猫だけは、信じてもいいのかもしれない。


そう思った。

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