第3話:条件付きの愛
最初の数週間は、幸せだった。
子供は毎日、僕と遊んでくれた。
紐を揺らして、僕が飛びつくのを笑って見ていた。小さなボールを転がして、僕が追いかけるのを楽しそうに見ていた。
「ミー」
それが、僕の名前になった。
「ミー、おいで」
呼ばれると、走っていった。子供の膝に飛び乗ると、頭を撫でてくれた。
「ミー、可愛い」
何度もそう言ってくれた。
夜は一緒に眠った。子供の腕の中で丸くなると、温かくて、安心で、喉がごろごろと鳴った。
お腹はいつも満たされていた。柔らかいベッドがあった。撫でてくれる手があった。
「愛されている」
そう思った。
僕を選んでくれた。僕を「可愛い」と言ってくれた。僕は、ここにいていいんだ。
あの路地裏に残してきた兄弟のことを、時々思い出した。
でも、すぐに子供が僕を呼んで、遊んでくれて、その記憶は薄れていった。
ごめん、と心の中で言った。
僕は幸せだよ、とも思った。
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一ヶ月が過ぎた頃、変化が始まった。
ある日、子供が大きな箱を抱えて帰ってきた。
「ゲーム機だ!」
子供は興奮していた。箱を開けて、中身を取り出して、テレビに何かを繋いでいる。
僕は子供の足元に行って、体をすり寄せた。
遊ぼう、と鳴いた。
「ミー、あとでね」
子供は僕を見なかった。画面を見ていた。
あとで。
その言葉を、僕は信じた。
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「あとで」は来なかった。
次の日も、子供は画面を見ていた。僕が足元に行っても、「あとでね」と言うだけだった。
三日目、僕は紐のおもちゃを咥えて、子供の前に持っていった。
遊ぼう。これ、好きでしょう。前は笑ってくれたでしょう。
「ミー、今忙しいの」
子供は僕を見なかった。
「明日ね」
明日。
明日が来た。でも「明日ね」はまた「明日ね」になった。
「今度ね」
今度。
今度は、来なかった。
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餌を忘れる日が増えた。
朝、空っぽの皿の前で待っていた。子供が起きてくるのを待った。でも子供は僕の前を素通りして、画面の前に座った。
「お腹空いた」と鳴いた。
「あー、はいはい」
母親が気づいて、餌を入れてくれた。子供ではなく、母親が。
水が空っぽの日もあった。
喉が渇いて、空の器を何度も舐めた。舌がざらざらと乾いた陶器をこすった。
思い出した。
路地裏にいた時のこと。空腹で、喉が渇いて、体に力が入らなかった時のこと。
あの頃に、戻っていくような気がした。
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僕は「いい子」になろうとした。
鳴かないようにした。うるさいと思われたくなかった。
粗相しないようにした。嫌われたくなかった。
毎日、子供が帰ってくる時間を覚えた。
玄関のドアが開く音がすると、走っていった。全速力で。足がもつれそうになりながら。
「おかえり」と鳴いた。体をすり寄せた。尻尾を立てて、精一杯の歓迎を見せた。
子供は僕を見下ろした。
「ミー、どいて」
そう言って、僕をまたいで、自分の部屋に行った。
次の日も、走っていった。
「おかえり」と鳴いた。
「邪魔」
次の日も。
次の日も。
そのうち、足音を聞いても、体が動かなくなった。
走っていっても、素通りされる。それがわかっていて、それでも期待してしまう。期待して、裏切られる。その繰り返しに、体が耐えられなくなった。
玄関に走っていくことを、やめた。
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ある日、窓の外に猫がいた。
日当たりのいい窓辺で丸くなっていた僕は、ふと視線を感じて顔を上げた。
塀の上に、一匹の猫が座っていた。
じっと、こちらを見ていた。
知っている。
この感覚を、知っている。
雨の夜。段ボールの中から見上げた、あの影。路地の暗がりに消えていった、あの猫。
同じだ。
「……誰?」
声に出した。窓ガラス越しに、聞こえるはずもないのに。
その猫は答えなかった。
しばらく僕を見つめて、それから、ゆっくりと塀を降りて、姿を消した。
何だったんだろう。
窓ガラスに額を押しつけた。冷たかった。外の空気が、ガラス越しに伝わってくる。
あの猫は、何を見ていたんだろう。
僕を見ていた。ずっと見ていた。
何かを待っているような。何かを見届けようとしているような。
その視線が、妙に心に残った。
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夜、声が聞こえた。
母親と子供が、リビングで話していた。僕はケージの中で耳を立てた。
「あんたが飼いたいって言ったんでしょ。ちゃんと世話しなさい」
母親の声は苛立っていた。
「でもママ、ゲームの方が楽しいもん」
「じゃあ何のために飼ったの」
「だって……最初は可愛かったんだもん」
最初は。
その言葉が、胸に刺さった。
「……じゃあどうするの、この子」
沈黙があった。
長い、長い沈黙。
僕は息を止めて、答えを待った。
「……わかんない」
子供の声は、小さかった。
それきり、会話は聞こえなくなった。
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ケージの中で、僕は丸くなった。
心臓が冷たかった。体の芯から、冷えていくような感覚。
もっといい子にならなきゃ。
そう思った。
もっと可愛くならなきゃ。もっと静かにしなきゃ。もっと——。
そうすれば、捨てられない。
そうすれば、ここにいられる。
僕が悪いんだ。僕がもっと可愛ければ。僕がもっといい子なら。
僕が——。
窓の外を見た。
あの猫は、もういなかった。
でも、どこかで見ている気がした。
僕がどうなるのか。僕がどこに行き着くのか。
見届けようとしている気がした。




