第24話:再会
あのカフェの前に来た。
何度目だろう。数えていない。毎日来ている。でも、あの女性はいなかった。
当たり前かもしれない。あんなことがあったのに、同じ場所に来るわけがない。僕が逃げたあの場所に。
でも、待つしかない。他に手がかりがない。あの女性がどこに住んでいるのか、どこで働いているのか、何も知らない。名前すら知らない。
今日も——いないかもしれない。
そう思いながら、カフェの窓から中を覗いた。
いた。
隅の席に、あの女性が座っている。ノートパソコンを開いて、何か作業をしている。
心臓が跳ねた。足が止まった。
「会わなきゃいけない」——そう思ってここに来た。何度も来た。
でも、いざ目の前にすると、動けない。
僕を見たら、逃げるかもしれない。怒るかもしれない。「あんた、あの時の猫でしょ」と睨まれるかもしれない。
それでも——。
「逃げるな」
自分に言い聞かせた。
「ここで逃げたら、何も変わらない」
足を動かした。カフェのドアを押した。
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中に入った。
女性がこちらを見た。
目が合った。
女性の表情が固まった。わかる。あの時の猫だと気づいた。
逃げたい。体がそう叫んでいる。でも、動かない。逃げない。
女性の席に近づいた。テーブルの前で止まった。
「……あの時は、ごめんなさい」
頭を下げた。
「僕、逃げた。話を聴かないで、逃げた」
声が震えた。でも、続けた。
「ひどいこと言った。『知らない』なんて。『聞かないでほしい』なんて」
頭を下げたまま、動けなかった。女性の視線を感じていた。
「僕に話してくれたのに。苦しんでたのに。僕は——聴けなかった」
長い沈黙が続いた。
やがて、女性が口を開いた。
「……なんで、戻ってきたの」
怒っていない声だった。でも、警戒している。当たり前だ。一度逃げた猫が、また来たのだから。
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顔を上げた。
女性と目が合った。
「聴きたかったから」
そう答えた。
「あの時、聴けなかった話を。ちゃんと、聴きたかったから」
女性は黙っていた。しばらく、僕を見ていた。
やがて、小さく笑った。疲れた笑い方だった。
「変な猫。一回逃げたのに、また来るなんて」
女性は向かいの椅子を引いた。座っていいよ、という仕草だった。
椅子に飛び乗った。女性の向かいに座った。
「私、由美っていうの」
女性が言った。
「あなたは?」
「……ニャンタル」
由美は少し笑った。
「ニャンタル。変な名前」
「でも、可愛いかも」
美咲さんと同じ反応だった。でも、今は笑えなかった。笑う資格がなかった。
由美はコーヒーカップを両手で包んだ。
「あの後さ、ずっと考えてた」
声が低くなった。
「なんで猫に逃げられたんだろうって」
胸が痛んだ。
「私の話、そんなにひどかったのかなって。聞いてられないくらい、ひどいことしたのかなって」
「違う」
首を振った。
「由美さんの話がひどかったんじゃない。僕が——聴けなかっただけ」
由美は僕を見た。何かを探るような目だった。
「……聴けなかった?」
「僕の中で、何かが——」
言葉が詰まった。説明できない。自分でもわからない。
「……うまく言えない。でも、由美さんのせいじゃない。それだけは、本当」
由美は黙っていた。しばらくして、小さく頷いた。
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「……聴いてくれる?続き」
由美が言った。
頷いた。
由美が話し始めた。
あの同僚のこと。パワハラを受けていた同僚。見て見ぬふりをしたこと。その人が会社を辞めたこと。今も働けていないこと。
前に聴いた話だった。でも、今度は違った。
前は、由美の言葉がソラと重なって、何も入ってこなかった。「自分を守るために誰かを差し出した」という構造だけが見えて、由美の顔が見えなくなった。
今は——由美の顔が見えている。
由美の目。疲れている。でも、まだ諦めていない。
由美の声。震えている。でも、話そうとしている。
由美の手。カップを握りしめている。爪が白くなるほど。
「今の職場でも、同じことが起きてるの」
由美は続けた。
「後輩が、同じ上司に詰められてる。毎日」
声が小さくなった。
「私、また見て見ぬふりをしてる。何も変わってない」
ソラの顔がチラついた。
「自分を守ることしか考えられない」——あの言葉が蘇る。
でも——振り払った。
今は由美の話を聴く。由美を見る。ソラじゃなくて、由美を。
「私、どうすればいいんだろう」
由美は目を伏せた。
「今からでも、あの子に謝れるのかな。連絡先も知らないのに」
「後輩を、助けられるのかな。自分が標的になるのが怖いのに」
由美は泣いていた。静かに。声を出さずに。涙だけが頬を伝っていた。
答えを求められている。どうすればいい、と聞かれている。
前の僕なら——答えを出そうとしたかもしれない。「こうすればいい」と言おうとしたかもしれない。
でも、今は違う。
「わからない」
そう言った。
「僕には、わからない...」
由美が顔を上げた。
「でも——由美さんが苦しんでるのは、伝わったにゃ」
由美の目を見た。
「それだけで、いいのかもしれないにゃ」
由美は泣いていた。さっきより、少しだけ楽な泣き方だった。堪えていたものが溢れる、というより、溜まっていたものが流れていく、という泣き方。
「……ありがとう」
由美は涙を拭いた。
「聴いてくれて」
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由美は帰っていった。
「またね、変な猫」と言って。
僕は一人、カフェに残っていた。
「聴けた——のかな」
わからない。由美の苦しみが消えたわけじゃない。答えを出せたわけでもない。
でも、今度は逃げなかった。
最後まで、由美の話を聴いた。由美の顔を見た。ソラじゃなくて、由美を。
それだけが、確かなこと。
「僕は——少しだけ、前に進めたのかもしれない」
窓の外を見た。夕焼けが広がっていた。
ソラは——まだ、僕の中にいる。消えていない。赦せてもいない。
でも、由美は由美だった。ソラとは、違う人だった。
同じ構造でも、同じ人じゃない。
それがわかっただけでも——前に進めたのかもしれない。
立ち上がった。カフェを出た。
夕焼けの街を、歩き始めた。




