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第21話:クライアント③——見て見ぬふりをした女

数日が経っていた。


あの夜のことが、まだ頭に残っている。カフェのテラス席。冷めたコーヒー。諦めた目。「なんにもわかってないね」という声。


僕は間違えた。答えを出そうとして、失敗した。


今度は——ちゃんと聴こう。答えを出さない。相手の準備ができるまで、待つ。


そう思いながら、街を歩いていた。


---


カフェが見えた。


あの夜とは違う店。もっと静かな、路地裏にある小さなカフェ。


窓から中が見えた。隅の席に、一人の女性が座っている。


30代半ばくらい。仕事帰りの服装。目の下にクマがある。ノートパソコンを開いているけど、画面を見ていない。どこか虚ろな目をしていた。


店に入った。


女性がこちらを見た。


「猫……?」


驚いた顔。でも、追い払おうとはしなかった。じっと僕を見ている。


見えている。この人にも、僕が見えている。


女性の空気は重かった。疲弊している。でも、それだけじゃない。もっと重い何か。罪悪感のような、ずっと抱えてきた何か。


僕は女性の向かいの椅子に飛び乗った。


---


女性は僕を見つめていた。しばらく黙っていた。


やがて、小さくため息をついた。


「猫に話すなんて、おかしいよね。でも——誰にも言えなくて」


僕は何も言わなかった。聴く。今度は、聴くだけだ。


女性は窓の外を見た。


「私、昔……同僚を見捨てたことがあるの」


声が低かった。ずっと飲み込んできた言葉を、やっと吐き出すような声。


「前の職場で、同僚がパワハラを受けてた」


僕は耳を傾けた。


「上司からの執拗な叱責。みんなの前で怒鳴られて、無視されて、誰もやりたがらない仕事を押し付けられて」


女性の指が、テーブルの上で握りしめられた。


「私は見て見ぬふりをした」


声が震えた。


「自分に火の粉が来るのが怖かった」


——自分に火の粉が来るのが怖かった。


その言葉が、胸に引っかかった。何かがざわつく。


「その人、半年で辞めた。メンタル壊して」


女性は目を伏せた。


「最近、共通の知人から聞いたの。『まだ働けてないらしい』って。もう三年も経つのに」


声が詰まった。


「夢に出てくるの。あの子が。『どうして助けてくれなかったの』って」


僕は聴いていた。


聴いていたはずだった。


でも——頭の中で、別の顔がチラついていた。


ソラの顔。


「自分に火の粉が来るのが怖かった」——その言葉が、頭の中で反響していた。


---


女性は続けた。


「最近、また同じことが起きてるの」


顔を上げた。目が潤んでいた。


「今の職場で、後輩が上司に詰められてる。毎日毎日、みんなの前で」


声が震えた。


「私、また見て見ぬふりをしてる」


涙がこぼれた。


「私、何も変わってない。あの時から、何も」


女性は顔を覆った。


「自分を守ることしか考えられない。最低だ。私は最低だ」


——自分を守ることしか考えられない。


その言葉が、頭の中で弾けた。


ソラの顔が浮かんだ。


「——こいつです」


あの夜。ボス猫の前で。僕を指差したソラ。


ソラも——自分を守るために、僕を差し出した。


同じだ。


この女性と、ソラは——同じだ。


心臓が早くなった。息が苦しい。


女性の顔が見える。泣いている。自分を責めている。


でも——ソラの顔が重なる。消えない。


フラッシュバックが始まった。


ソラの指。僕を指差した指。


ボス猫の目。鋭い、冷たい目。


周りの猫たちの声。「裏切り者が」「出ていけ」「二度と来るな」。


噛まれた。首の後ろを。蹴られた。何度も。血が出た。体中から。


這うように逃げた。振り返った。


ソラと目が合った。


ソラは——目を逸らした。


何も言わなかった。ただ、目を逸らした。


「どうして」


声にならなかった。あの時も、今も。


どうして、ソラ。僕たちは——。


女性の声が聞こえた。遠い声だった。


「私、どうすればいいの……」


見えなかった。


女性が泣いていることは見えていた。苦しんでいることも見えていた。


でも——それが、見えなかった。


ソラの顔しか見えなかった。


感情が溢れた。黒い感情が。止められなかった。


「——知らないにゃ」


声が出た。冷たい声だった。自分の声じゃないみたいだった。


女性が顔を上げた。涙で濡れた目が、僕を見ていた。


「僕に聞かないでほしいにゃ」


違う。こんなこと言いたいんじゃない。


この人は苦しんでる。自分のしたことに苦しんでる。助けを求めてる。


でも——止まらなかった。


女性は傷ついた顔をしていた。


「……え」


その顔を見ていられなかった。


立ち上がった。椅子から飛び降りた。


逃げた。


カフェのドアを押して、外に出た。走った。


背後で女性の声がした気がした。でも、聞こえなかった。聞きたくなかった。


---


路地裏に入った。


うずくまった。


息が荒い。体が震えている。


「なんで……」


声が漏れた。


「僕は、何を……」


女性の顔が浮かんだ。傷ついた顔。涙で濡れた顔。


僕が傷つけた。


あの夜の女性とは違う。あの時は、答えを出そうとして失敗した。


今回は違う。


感情が制御できなかった。


「自分を守るために誰かを差し出した」——この女性もソラも同じだ。


わかってる。


この女性は、この女性だ。ソラじゃない。


この女性は苦しんでる。自分のしたことに苦しんでる。「最低だ」と自分を責めてる。


ソラは——どうだったんだろう。


目を逸らした、あの時。ソラも苦しんでたのか。わからない。


でも——関係ない。


感情が言うことを聞かない。


「自分を守るために誰かを差し出した」。それだけが見えて、他の何も見えなくなった。


この女性の苦しみも、見えなかった。


「僕は、どうすれば……」


答えは出なかった。


立ち上がれなかった。


夜が深くなっていった。冷たい風が吹いていた。


あの夜と同じだ。路地裏で一人、震えていたあの夜と。


でも今度は——僕が誰かを傷つけた側だ。

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