第20話:失敗
夜だった。
街を歩いていた。いつものように、誰かを探しながら。
カフェが見えた。夜遅くまで開いている、小さな店。テラス席に明かりが灯っている。
一人の女性が座っていた。
20代後半くらい。髪が少し乱れている。テーブルの上のコーヒーは、もう冷めているみたいだった。湯気が立っていない。
女性はスマートフォンを握りしめていた。時々画面を見て、また伏せる。誰かからの連絡を待っているような仕草だった。
目が赤い。泣いた後だとわかる。
僕は近づいた。
女性がこちらを見た。
「……猫?」
見えている。この人にも、僕が見えている。
でも——何かが違う。美咲さんや健一さんとは違う空気。もっと生々しい。もっと熱い。傷が新しい。
---
テラス席の椅子に飛び乗った。女性の向かい側。
女性は僕を見て、少し笑った。でも、すぐに笑顔が消えた。
「こんな時間に猫か。野良?」
僕は答えなかった。
女性はスマートフォンをテーブルに置いた。画面を下にして。見たくないみたいだった。
「ねえ、聞いてくれる?猫に話すなんて変だけど」
僕は耳を傾けた。
堰を切ったように、女性は話し始めた。
「彼氏と喧嘩したの」
声が震えていた。
「三年付き合ってる。でも最近、ひどくて」
女性は冷めたコーヒーのカップを見つめていた。
「約束すっぽかされる。連絡も全然返ってこない。既読つくのに、返事は次の日とか」
指がカップの縁をなぞる。
「この前なんか、私との約束より友達との飲み会を優先されて。ドタキャン。謝りもしない」
声が小さくなった。
「私のこと、どうでもいいのかなって」
胸がざわついた。
「友達にも言われたの。『もう別れた方がいいよ』って。『あんた大事にされてないじゃん』って」
女性は顔を上げた。目に涙が滲んでいた。
「わかってる。わかってるけど——」
声が詰まった。
「でも、好きなの。まだ、好きなの」
僕は聴いていた。
でも——何かがチラついた。
「信じてたのに」
女性の言葉が、頭の中で反響する。
ソラの顔が浮かんだ。信じてたのに、裏切られた。あの夜。あの指。あの目。
振り払った。今は聴く時間だ。この人の話を聴く時間だ。
---
女性は続けた。
「私が悪いのかな」
涙を拭いながら、言った。
「もっと可愛くしてれば、もっと尽くしてれば——」
声が震える。
「捨てられずに済んだのかな」
——捨てられる。
その言葉が、胸に刺さった。
段ボールの記憶が蘇る。人間の子供に可愛がられていた頃。飽きられた日。段ボールに入れられて、知らない場所に置いていかれた日。
「飽きたら捨てられる」
あの時、僕もそう思った。僕が悪いのかな。もっと可愛ければ、捨てられなかったのかな。
女性が泣き始めた。
「でも、私、何も悪いことしてないのに」
嗚咽が漏れる。
「なんでこんな目に遭わなきゃいけないの」
見ていられなかった。
この人は苦しんでる。こんなに苦しんでる。大事にされてないのに、まだ好きだって言って、自分を責めて。
助けたい。
この人を助けたい。
友達の言う通りだ。別れた方がいい。こんなに苦しむ必要ない。大事にしてくれない人と一緒にいても、傷つくだけだ。
僕は——僕は知ってる。大事にされないことの辛さを。捨てられることの痛みを。だから、わかる。この人は早く離れた方がいい。
言葉が出た。
「……別れた方がいいと思うにゃ」
女性が顔を上げた。
止まらなかった。
「その人は、あなたを大事にしてないにゃ」
「大事にしてくれない人と一緒にいても、苦しいだけにゃ」
「あなたは何も悪くないにゃ。悪いのは、あなたを大事にしない相手にゃ」
言いながら、どこかで気づいていた。
これは「聴く」じゃない。
でも、止められなかった。助けたかった。この人に、これ以上苦しんでほしくなかった。
言い終わった時、空気が変わっていた。
---
女性は黙っていた。
涙が止まっている。でも、表情が変わっていた。
長い沈黙。
やがて、女性は小さく言った。
「……なんにもわかってないね」
怒りじゃなかった。諦めた声だった。
「私が聞きたかったのは、そういうことじゃない」
女性は立ち上がった。
「みんなそう。『別れなよ』『やめなよ』『あんたは悪くない』」
声が平坦だった。感情が抜けていた。
「そんなの、わかってるの。わかってるけど、できないから苦しいの」
僕を見た。諦めた目だった。
「……もういい」
女性は歩き出した。振り返らなかった。
テラス席を離れて、街の中に消えていった。
僕は動けなかった。
冷めたコーヒーのカップだけが、テーブルに残っていた。
---
しばらく、そこに座っていた。
僕は——何を間違えた。
助けたかっただけだ。苦しんでるのを見て、助けたかっただけだ。
「別れた方がいい」。それは正しいことだと思った。友達も言ってた。客観的に見れば、正しい。
でも——届かなかった。
「私が聞きたかったのは、そういうことじゃない」
あの言葉が、頭の中で響いている。
あの人は、「別れた方がいい」と言ってほしかったわけじゃない。正しい答えを求めてたわけじゃない。
聴いてほしかっただけだ。苦しいって言いたかっただけだ。好きなのに辛いって、誰かに聞いてほしかっただけだ。
なのに僕は——答えを出そうとした。
「聴く」と「言う」は違う。
頭ではわかってた。美咲さんの時も、健一さんの時も、僕は聴いていた。答えを押し付けなかった。
なのに、今日は——できなかった。
「捨てられる」という言葉を聞いた瞬間、自分の傷が疼いた。冷静でいられなくなった。助けたいという気持ちが、暴走した。
「見放された」
あの女性の諦めた目。「もういい」という声。
昔、人間の子供が僕を段ボールに入れた時と同じだ。興味を失った目。「もういい」という顔。
また——見放された。
今度は、僕が悪い。
「僕は——まだ、未熟だ」
冷たい風が吹いた。
カフェの明かりが消えた。閉店の時間らしい。
僕は椅子から降りて、歩き出した。
「聴く」と「言う」は違う。相手の準備ができてない時に答えを出しても、届かない。
わかった。今日、わかった。
でも——わかったからって、傷つけた事実は消えない。
あの女性の諦めた顔が、頭から離れなかった。




