表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/15

第2話:選ばれる罪悪感

朝、目を開けた。


雨が止んでいた。


段ボールはぐずぐずに濡れて、もう形を保っていなかった。僕の寝床だったもの。母さんの匂いがあった場所。それが、ただの濡れた紙くずになっていた。


立ち上がる。


足がふらついた。何日も食べていない体は、自分のものじゃないみたいに重かった。


動かなきゃ。


昨夜、そう思った。ここにいても誰も来ない。母さんは帰ってこない。


段ボールの縁をまたいで、外に出た。


知らない匂いばかりだった。


湿ったコンクリート。腐った生ゴミ。遠くから漂ってくる、何かの煙。どれも母さんの匂いじゃない。どれも、僕の知っている匂いじゃない。


どこに行けばいいんだろう。


あてもなく歩いた。匂いを頼りに、少しでも食べ物がありそうな方へ。でも視界がぼやけて、まっすぐ歩けなかった。


何度も転んだ。


そのたびに立ち上がって、また歩いた。


---


どれくらい歩いただろう。


路地を曲がった時、嗅ぎ覚えのある匂いがした。


体が止まった。


知っている。この匂い。


段ボールの中で、いつも隣にあった匂い。押し合って、ぶつかり合って、それでも一緒に眠った時の匂い。


兄弟だ。


路地の奥に、一匹の猫がいた。


僕と同じくらい痩せていた。僕と同じくらい汚れていた。


目が合った。


「——」


声にならない声を出した。向こうも同じように鳴いた。


駆け寄った。足がもつれたけど、転ばなかった。


兄弟の体に、頭を押しつけた。兄弟も僕に体を寄せてきた。


温かかった。


母さんとは違う。でも、温かかった。


二匹で丸くなった。互いの体温を分け合うように、ぴったりとくっついた。兄弟の心音が聞こえた。とくとくと、小さく、でも確かに動いている。


一人じゃない。


そう思ったら、涙が出そうになった。猫に涙があるのかわからないけど、目の奥が熱くなった。


でも、餌はなかった。


二匹とも弱っていた。寄り添うことしかできなかった。


それでも、一人じゃないだけで、少しだけ息ができた。


---


人間の声がした。


高い声。子供の声。


「ママ、見て!猫がいる!」


顔を上げた。


路地の入り口に、小さな人間が立っていた。後ろに、大きな人間——母親らしき人がいる。


子供が近づいてくる。


僕と兄弟は、並んだまま動けなかった。逃げる力も残っていなかった。


子供がしゃがんで、僕たちを見た。


「二匹いる」


じっと見比べている。僕と、兄弟を。


「どっちがいい?」


母親の声がした。


「一匹だけだからね。ちゃんと選びなさい」


子供の目が、僕と兄弟の間を行き来する。


長い時間に感じた。


「こっちの子がいい」


子供の指が、僕を指した。


「目が可愛い」


手が伸びてきた。


僕は兄弟を見た。


兄弟の目。


あの目を、僕は知っていた。


母さんを待っていた時の、僕の目。段ボールの中で、一人残された時の、僕の目。置いていかれる側の目。


——違う。


声を出した。できる限り大きく。


この子も連れて行って。二匹一緒に。お願い。この子も。この子も——。


「あら、この子鳴いてる。元気ね」


子供が笑った。


届かなかった。


僕の声は、人間には届かなかった。


ただの鳴き声にしか聞こえていない。どれだけ叫んでも、言葉にならない。意味を持たない音でしかない。


持ち上げられた。


人間の手は大きくて、温かかった。抱え上げられる感覚。足が地面を離れる。


兄弟を見下ろす形になった。


兄弟は動かなかった。路地の地面に座ったまま、僕を見上げていた。


僕は上にいて、兄弟は下にいた。


ごめん。


心の中で言った。声には出せなかった。出したところで、届かない。


ごめん。


ごめん——。


でも、僕は、生きたい。


子供が歩き出す。母親と一緒に、路地を出ていく。


振り返った。


兄弟はまだそこにいた。座ったまま、こちらを見ていた。


何も言わなかった。責めなかった。


ただ、見ていた。


路地の角を曲がる瞬間まで、その目が見えていた。


そして、見えなくなった。


---


温かい部屋だった。


柔らかい布。小さな皿に盛られた餌。きれいな水。


子供が僕を撫でた。


「可愛い」


何度もそう言った。


嬉しいはずだった。


餌を食べた。体が求めるまま、夢中で食べた。何日ぶりだろう。お腹が満たされていく感覚。


でも、兄弟の目が頭から離れなかった。


僕だけ助かった。


僕だけ、温かい場所にいる。僕だけ、餌を食べている。僕だけ——。


子供が僕を抱き上げて、自分の部屋に連れていった。ふかふかのベッドの上に置かれた。


「今日から一緒だよ」


子供が笑った。


僕は、喉が詰まったみたいに、うまく鳴けなかった。


---


夜、眠りについた。


夢を見た。


暗がりの中にいた。


どこかの路地裏。知らない場所。でも、空気は冷たくて、湿っていて、段ボールの中みたいだった。


目の前に、兄弟がいた。


座っている。僕を見ている。


何も言わなかった。


責めるでもなかった。怒るでもなかった。


ただ、じっと、見ていた。


僕は声を出そうとした。ごめん、と。仕方なかったんだ、と。


でも声が出なかった。


兄弟は見ていた。ただ、見ていた。


その目が、僕を貫いていた。


目が覚めた。


温かいベッドの上だった。柔らかい布。安全な部屋。


でも、あの目が消えなかった。


目を開けていても、閉じていても、あの目が見えていた。


僕を見ている。


ずっと、見ている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ