第2話:選ばれる罪悪感
朝、目を開けた。
雨が止んでいた。
段ボールはぐずぐずに濡れて、もう形を保っていなかった。僕の寝床だったもの。母さんの匂いがあった場所。それが、ただの濡れた紙くずになっていた。
立ち上がる。
足がふらついた。何日も食べていない体は、自分のものじゃないみたいに重かった。
動かなきゃ。
昨夜、そう思った。ここにいても誰も来ない。母さんは帰ってこない。
段ボールの縁をまたいで、外に出た。
知らない匂いばかりだった。
湿ったコンクリート。腐った生ゴミ。遠くから漂ってくる、何かの煙。どれも母さんの匂いじゃない。どれも、僕の知っている匂いじゃない。
どこに行けばいいんだろう。
あてもなく歩いた。匂いを頼りに、少しでも食べ物がありそうな方へ。でも視界がぼやけて、まっすぐ歩けなかった。
何度も転んだ。
そのたびに立ち上がって、また歩いた。
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どれくらい歩いただろう。
路地を曲がった時、嗅ぎ覚えのある匂いがした。
体が止まった。
知っている。この匂い。
段ボールの中で、いつも隣にあった匂い。押し合って、ぶつかり合って、それでも一緒に眠った時の匂い。
兄弟だ。
路地の奥に、一匹の猫がいた。
僕と同じくらい痩せていた。僕と同じくらい汚れていた。
目が合った。
「——」
声にならない声を出した。向こうも同じように鳴いた。
駆け寄った。足がもつれたけど、転ばなかった。
兄弟の体に、頭を押しつけた。兄弟も僕に体を寄せてきた。
温かかった。
母さんとは違う。でも、温かかった。
二匹で丸くなった。互いの体温を分け合うように、ぴったりとくっついた。兄弟の心音が聞こえた。とくとくと、小さく、でも確かに動いている。
一人じゃない。
そう思ったら、涙が出そうになった。猫に涙があるのかわからないけど、目の奥が熱くなった。
でも、餌はなかった。
二匹とも弱っていた。寄り添うことしかできなかった。
それでも、一人じゃないだけで、少しだけ息ができた。
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人間の声がした。
高い声。子供の声。
「ママ、見て!猫がいる!」
顔を上げた。
路地の入り口に、小さな人間が立っていた。後ろに、大きな人間——母親らしき人がいる。
子供が近づいてくる。
僕と兄弟は、並んだまま動けなかった。逃げる力も残っていなかった。
子供がしゃがんで、僕たちを見た。
「二匹いる」
じっと見比べている。僕と、兄弟を。
「どっちがいい?」
母親の声がした。
「一匹だけだからね。ちゃんと選びなさい」
子供の目が、僕と兄弟の間を行き来する。
長い時間に感じた。
「こっちの子がいい」
子供の指が、僕を指した。
「目が可愛い」
手が伸びてきた。
僕は兄弟を見た。
兄弟の目。
あの目を、僕は知っていた。
母さんを待っていた時の、僕の目。段ボールの中で、一人残された時の、僕の目。置いていかれる側の目。
——違う。
声を出した。できる限り大きく。
この子も連れて行って。二匹一緒に。お願い。この子も。この子も——。
「あら、この子鳴いてる。元気ね」
子供が笑った。
届かなかった。
僕の声は、人間には届かなかった。
ただの鳴き声にしか聞こえていない。どれだけ叫んでも、言葉にならない。意味を持たない音でしかない。
持ち上げられた。
人間の手は大きくて、温かかった。抱え上げられる感覚。足が地面を離れる。
兄弟を見下ろす形になった。
兄弟は動かなかった。路地の地面に座ったまま、僕を見上げていた。
僕は上にいて、兄弟は下にいた。
ごめん。
心の中で言った。声には出せなかった。出したところで、届かない。
ごめん。
ごめん——。
でも、僕は、生きたい。
子供が歩き出す。母親と一緒に、路地を出ていく。
振り返った。
兄弟はまだそこにいた。座ったまま、こちらを見ていた。
何も言わなかった。責めなかった。
ただ、見ていた。
路地の角を曲がる瞬間まで、その目が見えていた。
そして、見えなくなった。
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温かい部屋だった。
柔らかい布。小さな皿に盛られた餌。きれいな水。
子供が僕を撫でた。
「可愛い」
何度もそう言った。
嬉しいはずだった。
餌を食べた。体が求めるまま、夢中で食べた。何日ぶりだろう。お腹が満たされていく感覚。
でも、兄弟の目が頭から離れなかった。
僕だけ助かった。
僕だけ、温かい場所にいる。僕だけ、餌を食べている。僕だけ——。
子供が僕を抱き上げて、自分の部屋に連れていった。ふかふかのベッドの上に置かれた。
「今日から一緒だよ」
子供が笑った。
僕は、喉が詰まったみたいに、うまく鳴けなかった。
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夜、眠りについた。
夢を見た。
暗がりの中にいた。
どこかの路地裏。知らない場所。でも、空気は冷たくて、湿っていて、段ボールの中みたいだった。
目の前に、兄弟がいた。
座っている。僕を見ている。
何も言わなかった。
責めるでもなかった。怒るでもなかった。
ただ、じっと、見ていた。
僕は声を出そうとした。ごめん、と。仕方なかったんだ、と。
でも声が出なかった。
兄弟は見ていた。ただ、見ていた。
その目が、僕を貫いていた。
目が覚めた。
温かいベッドの上だった。柔らかい布。安全な部屋。
でも、あの目が消えなかった。
目を開けていても、閉じていても、あの目が見えていた。
僕を見ている。
ずっと、見ている。




