第19話:変化の兆し
人間界に来て、どのくらい経っただろう。
日数を数えるのをやめていた。朝が来て、夜が来て、また朝が来る。その繰り返しの中で、僕は街を歩き続けていた。
美咲さんとも、健一さんとも、しばらく会っていない。
会いに行こうと思えば、行ける。美咲さんはあの公園に来るかもしれない。健一さんはあのコンビニの前にいるかもしれない。
でも、行かなかった。
毎日会う必要はない。僕がいなくても、二人は自分の人生を歩いている。それでいい。それが、いい。
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その日、街を歩いていた時だった。
見覚えのある後ろ姿が見えた。
美咲さんだ。
でも——一人じゃなかった。誰かと一緒にいる。同僚らしき女性と並んで、カフェの前で話していた。
「じゃあ週末、一緒に行こうよ」
「うん、楽しみ」
美咲さんが笑っていた。
あの公園で会った時とは違う笑顔だった。目が笑っている。体が軽い。誰かと一緒にいることを、楽しんでいる。
僕は足を止めた。遠くから、見ていた。
声をかけようか、と思った。
でも、やめた。
今の美咲さんには、僕は必要ない。美咲さんは美咲さんの世界で、ちゃんと生きている。僕が隣にいなくても、笑えている。
それがわかって、嬉しかった。少しだけ寂しかったけど、それでいいと思った。
美咲さんは友人と一緒にカフェに入っていった。僕はその場を離れた。振り返らなかった。
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夜になった。
あのコンビニの前を通りかかった。健一さんと会った場所。
店の中から、店員の声が聞こえた。
「最近、あのスーツの常連さん、来なくなったね」
「ああ、あの疲れた顔の人?この前見たよ、笑ってた」
「マジ?あの人が?」
「マジマジ。なんか、顔つき変わってた」
健一さんのことだろうか。
深夜に缶コーヒーを買いに来なくなったのなら、それはいいことだ。早く帰れるようになったのかもしれない。「本当は疲れてる」と認められるようになったのかもしれない。
小さな変化。でも、確かな変化。
直接会わなくても、変化は伝わる。それで十分だと思った。
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屋根の上に登った。
人間界に来てから、ここが僕の居場所になっていた。街を見下ろせる、古いビルの屋上。誰も来ない。静かで、風が気持ちいい。
空を見上げた。星は少ししか見えない。街の明かりが強すぎる。でも、雲の切れ間から、いくつかの光が覗いていた。
僕がしたことは、意味があったんだろうか。
美咲さんも、健一さんも、自分で変わった。僕はきっかけに過ぎない。話を聴いて、少し言葉をかけて、それだけ。変わったのは、二人自身の力だ。
でも——きっかけになれた。
それは、嬉しいことだった。誰かの変化のきっかけに、僕がなれた。小さなことかもしれない。でも、僕にとっては大きなことだった。
僕は、変わってきてるのかな。
風が吹いた。冷たくない、穏やかな風。
湖の映像を思い出した。
猫の国の、無意識の湖。水面に映った、あの映像。
ソラの目。裏切る直前の、怯えた目。
子供の目。僕を段ボールに入れて捨てた時の、泣いた目。
あの時、僕は叫んだ。「嘘だ」と。「湖が壊れてる」と。認めたくなかった。認めたら、僕の憎しみが崩れてしまう気がした。
今は——どうだろう。
「本当かもしれない」と思える自分がいた。ソラも怯えていたのかもしれない。あの子供も泣いていたのかもしれない。僕を傷つけた側にも、何かがあったのかもしれない。
でも、認めるのはまだ怖い。
認めたら、僕の憎しみは何だったのかわからなくなる。あの怒りは、あの痛みは、全部嘘だったのか。そんなはずはない。僕は確かに傷ついた。それは本当のことだ。
答えは、まだ出ない。
でも、前より——楽になってる気がする。憎しみが消えたわけじゃない。でも、それだけじゃなくなった。憎しみの隣に、別の何かが生まれている。
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風に乗って、声が聞こえた気がした。
ミーヤの声。
「大事なのは、これがお前のすべてではないと知ることだ」
そうだ。憎しみも僕の一部。でも、それだけが僕じゃない。
今、僕の中には——憎しみがある。共感がある。迷いがある。嬉しさがある。寂しさがある。
全部が僕だ。どれか一つだけが本当の僕、なんてことはない。
目を閉じた。
僕は、もう少しここにいよう。もっと知りたい。人間のことを。そして——自分のことを。
まだ終わってない。まだ、途中だ。
目を開けた。
街の明かりが見えた。その下に、たくさんの人間がいる。眠っている人。働いている人。泣いている人。笑っている人。
傷を抱えた人が、まだいる。僕を見つけてくれる人が、まだいるかもしれない。
次は——誰に会うんだろう。
静かな予感があった。何かが近づいている。いい予感なのか、悪い予感なのか、わからない。
でも、逃げない。
僕はここにいる。




