第18話:クライアント②——仮面の男
夜だった。
美咲さんと会わなくなって、数日が経っていた。
美咲さんは「またね」と言ってくれた。でも、毎日会う必要はない。
美咲さんは美咲さんの人生を歩いている。僕が隣にいなくても。
それでいい。それが、いい。
僕は街を歩いていた。
夜の街。昼間とは違う顔がある。
深夜のコンビニが見えた。
明るい光が、暗い街に漏れている。
店の前に、一人の男性が立っていた。
スーツ姿。ネクタイは緩んでいる。髪は少し乱れている。
缶コーヒーを持って、どこも見ていない。
目が虚ろだった。
美咲さんとは違う種類の疲れ。もっと張り詰めている。何かを必死に保っているような。
僕は近づいた。
男性がこちらを見た。
「……猫か」
声は低かった。感情がない。
でも——見えている。
この人にも、僕が見えている。
---
男性はコンビニの前のベンチに座った。
僕も隣に座った。
男性は缶コーヒーを見つめていた。開けていない。ただ、持っているだけ。
「なんで猫がこんな時間にいるんだ」
独り言のように言った。
僕は答えなかった。
しばらく沈黙が続いた。
男性がぽつりと言った。
「俺、ずっと『できる奴』を演じてきたんだ」
僕は耳を傾けた。
「期待に応える。結果を出す。弱音を吐かない」
缶コーヒーを握る手に、力が入っていた。
「それが俺の生き方だった。会社でも、家でも、友達の前でも」
「『健一は頼りになる』『健一なら大丈夫』」
「そう言われるのが、誇りだった」
声が小さくなった。
「でも最近、限界で」
缶コーヒーが、少し潰れた。
「本当は全然できてない。ハリボテなんだ」
「上に立てば立つほど、ボロが出そうで怖い」
「バレたら終わりだと思うと——」
声が震えた。
「怖くて、仕方ない」
僕は黙って聴いていた。
自分と重なっていた。
僕も——「いい子」を演じていた。本当の自分を見せたら、捨てられると思っていた。
人間の子供に可愛がられていた頃。飽きられないように、必死だった。
でも、今は口に出さない。
今はこの人の話を聴く時間だ。
---
男性は続けた。
「誰にも言えなかった。言ったら、失望される」
苦笑した。
「猫に話してるなんて、笑えるよな」
僕は言った。
「笑わないにゃ」
男性が僕を見た。驚いた顔。
「お前……喋れるのか」
「聞こえる人には、聞こえるにゃ」
男性は目をこすった。疲れすぎて幻聴が聞こえてるのか、という顔だった。
でも、否定はしなかった。
「名前、聞いてもいいにゃ?」
男性は少し迷った。
それから、小さく言った。
「……健一」
名前を言った。
仮面の下の、本当の名前を。
「健一さんは、誰かの期待に応えようとしてきたんだにゃ」
僕は言った。
「ずっと、頑張ってきたんだにゃ」
健一さんは黙っていた。
「でも——」
僕は続けた。
「健一さん自身は、どうしたいにゃ?」
健一さんは固まった。
「……わからない」
長い沈黙。
「考えたことなかった。いつも、誰かの期待に応えることばっかりで」
僕は言った。
「仮面を外すのが怖いなら、少しずつでいいにゃ」
「最初は、自分だけに見せればいいにゃ」
「『本当は疲れてる』って、自分に言ってみるにゃ」
健一さんは缶コーヒーを見つめていた。
握りしめた手が、少しだけ緩んだ。
---
長い沈黙が続いた。
コンビニの自動ドアが開いて、誰かが出てきた。健一さんには目もくれずに去っていく。
健一さんは缶コーヒーを見つめたまま、小さく言った。
「本当は……疲れてる」
声に出した瞬間、健一さんの肩から力が抜けた。
「……なんだこれ」
健一さんは自分の肩を見た。
「言っただけなのに。なんか、楽になった」
僕は何も言わなかった。
健一さんは缶コーヒーを開けた。一口飲んだ。
「猫に説教されるとは思わなかった」
苦笑した。でも、さっきまでとは違う笑い方だった。
「でも……ありがとな」
健一さんは立ち上がった。缶コーヒーを飲み干して、ゴミ箱に捨てた。
「また会えるかな」
僕を見下ろして、少しだけ笑った。
「今度はもうちょっと早い時間に」
去っていく健一さん。足取りは重い。でも、少しだけ背筋が伸びていた。
---
一人になった。
僕も、仮面をかぶっていたにゃ。
そう思った。
人間が嫌いだ。憎い。
ずっとそう思っていた。
でも——それも、仮面だったのかもしれない。
本当は——何だったんだろう。
わからない。まだわからない。
でも、何かが動き始めている。
夜空を見上げた。
星は見えない。街の明かりが強すぎる。
でも——どこかにあるはずにゃ。
雲の向こうに、光の向こうに。
見えなくても、ある。
僕は歩き出した。
次の誰かを、探しに。




