第16話:美咲の過去
-数日後。
僕は公園にいた。
あのベンチが見える場所で、待っていた。
また来てくれるだろうか。
「また来るね」と言ってくれた。でも、本当に来るかはわからない。
人間は——約束を破ることがある。
そう思いながら、待っていた。
夕方になった頃——美咲が来た。
公園の入り口に立って、きょろきょろしている。
僕を探している。
見つけた瞬間、美咲は手招きした。
「いた。こっちおいで」
体が自然と動いた。
ベンチまで歩いて、飛び乗る。美咲の隣に座る。
「また来たの。あんた、本当にここに住んでるの?」
僕は答えない。答えられない。
美咲は気にしていないみたいだった。
「私、美咲っていうの。あんたは?名前あるの?」
名前。
少し迷った。
猫の国でもらった名前。人間に言うのは初めてだ。
「……ニャンタル、にゃ」
美咲は目を丸くした。
それから、笑った。
「ニャンタル?変な名前」
笑っている。前に会った時より、笑っている。
「でも、可愛いかも」
美咲は僕の頭を撫でた。
温かかった。
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しばらく、二人で黙っていた。
美咲はスマートフォンを見ていない。ただ、空を見ている。
僕は隣にいる。
やがて、美咲がぽつりと言った。
「私さ、妹がいるの」
僕は耳を傾けた。
「二つ下。何でもできる子だった」
美咲の声は平坦だった。感情を抑えているみたいだった。
「勉強もできる。運動もできる。友達も多い。先生にも好かれる」
僕は小さく頷いた。聴いている、という合図。
「私は全部、妹より下だった」
美咲は空を見たまま、続けた。
「テストで80点取っても、『妹は90点だったのに』って言われた」
胸が締めつけられた。
「リレーの選手に選ばれても、『妹は去年アンカーだったのに』って」
耳が伏せた。美咲の痛みが、伝わってくる。
「何をしても、妹が基準だった。私は私じゃなくて、『妹より劣ってる姉』だった」
美咲の手が、膝の上で握りしめられていた。
「一回も——」
声が小さくなった。
「一回も、『美咲は美咲でいい』って言われたことない」
僕は何も言わなかった。
言えなかった。
自分と重なっていた。
僕も——条件付きでしか愛されなかった。可愛ければ。いい子なら。役に立てば。
人間の子供は、僕が可愛い間だけ可愛がった。飽きたら、捨てた。
でも、今は口に出さない。
今は美咲の話を聴く時間だ。
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美咲は続けた。
「親はいつも言ってた」
声が少し震えた。でも、泣いてはいない。
「『お姉ちゃんなんだから、しっかりしなさい』」
僕は尻尾を美咲の腕に軽く触れさせた。ここにいる、という合図。
「『なんで美咲はできないの』」
美咲は気づいていないみたいだった。でも、声は少しだけ柔らかくなった。
「『妹を見習いなさい』」
長い沈黙。
「だから頑張った。ずっと頑張った」
美咲は膝の上の手を見つめていた。
「勉強も、仕事も、人間関係も。頑張れば認めてもらえると思った」
僕は黙って聴いていた。
「でも——」
美咲の声が途切れた。
「どれだけ頑張っても、足りないって言われる」
空を見上げた。目が乾いていた。泣いていない。泣く気力もない、という顔だった。
「今の会社でもそう。頑張っても評価されない。結果が出ないと、何も認めてもらえない」
「結局、私は何やってもダメなんだ」
美咲は笑った。自分を嘲るような笑い方だった。
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僕は——何か言いたかった。
「違う」と言いたかった。「美咲さんは頑張ってきた」と言いたかった。
でも、今言っても届くだろうか。
美咲は今、自分の中にいる。自分の傷の中にいる。
外からの言葉が入る隙間がない。
それでも——言わなきゃいけない気がした。
「美咲さんは、ずっと頑張ってきたんだにゃ」
美咲は首を振った。
「頑張っても意味ないよ。結果出てないし」
「結果は、美咲さんの価値じゃないにゃ」
美咲は僕を見た。
それから、苦笑した。
「……そうだといいけどね」
信じていない目だった。
頭ではわかる、でも心がついていかない。そういう目だった。
届かなかった——のかな。
美咲は立ち上がった。
「ごめんね、暗い話ばっかり」
スカートの埃を払う。いつもの仕草。
「聞いてくれてありがとう。ニャンタル」
名前を呼ばれた。
それだけで、胸が少し温かくなった。
「また来るね」
美咲は歩き出した。公園の出口に向かって。
振り返らなかった。
でも、足取りは——前回より、少しだけ軽い気がした。
気のせいかもしれない。
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僕は一人、ベンチに座っていた。
美咲の後ろ姿が見えなくなっても、動けなかった。
届かなかった——のかな。
「そうだといいけどね」
美咲の言葉が、頭の中で繰り返される。
でも、聴くことはできた。
美咲の話を、最後まで聴くことはできた。
それだけで、いいのかな。
わからない。
「次は——届くだろうか」
答えは出なかった。
でも、美咲は「また来る」と言ってくれた。
名前を呼んでくれた。
それは——何かが繋がっている、ということだと思う。
夕焼けが、夜に変わり始めていた。
僕はベンチから降りて、歩き出した。




