第15話:クライアント①——自己否定の声
数日が過ぎた。
僕は街を歩き続けていた。
路地裏から路地裏へ。公園から公園へ。
見つけられるのを、待ちながら。
あの女性のことを、何度も思い出した。
疲れた目。僕と同じ目。
目が合って、すぐに逸らされた。
また会えるだろうか。
会えなかったら——どうなるんだろう。
答えは出ないまま、足だけが動いていた。
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その日、公園を通りかかった。
小さな公園だった。ベンチが三つ。錆びたブランコ。砂場。
人影はほとんどない。
一つのベンチに、誰かが座っていた。
女性だった。
一人で、スマートフォンを見ている。
——あの人だ。
心臓が跳ねた。
間違いない。あの日、目が合った女性。
同じ服じゃない。髪型も少し違う。でも、わかる。
あの目。あの背中の丸め方。
女性はスマートフォンの画面をスクロールしている。
でも、何も見ていない。指だけが動いている。
時々、深くため息をつく。
僕は近づいた。
足音を立てないように。でも、隠れるわけでもなく。
ベンチの端に座った。
女性がこちらを見た。
「……猫」
声は平坦だった。驚きもない。興味もない。
ただ、事実を確認しただけ。
でも——見えている。
僕が、見えている。
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女性は視線を戻した。
スマートフォンを膝の上に置いて、空を見上げる。
「あんたは気楽でいいね」
独り言のように言った。
「何も考えなくていいでしょ。餌食べて、寝て、起きて。それだけで一日終わるんでしょ」
僕は答えなかった。
ただ、そこにいた。
女性は続けた。
「私、何やってもダメなんだよね」
声が少し震えた。
「仕事もうまくいかない。頑張っても結果出ない。人間関係もダメ。友達いないし、彼氏もいない」
空を見たまま、話している。
僕に話しているのか、自分に話しているのか、わからない。
きっと、どちらでもない。ただ、吐き出しているだけ。
「頑張っても頑張っても——何も変わらない」
「私なんか、いない方がいいのかな」
耳がぴくりと動いた。
——あの光と、同じ声。
猫の国で出会った、傷ついた魂。
「私なんか、いない方がいい」と言っていた、あの光。
胸が締めつけられた。
僕も、そう思ってた。
凍える夜、段ボールの中で。
「僕なんか、いない方がいい」と。
誰にも必要とされてない。何の価値もない。消えた方がいい。
そう思っていた。
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女性はまだ空を見ている。
涙は出ていない。泣く気力もないみたいだった。
僕は——動いた。
ベンチを歩いて、女性の隣に行く。
前足を、女性の膝に乗せた。
女性が驚いてこちらを見る。
「……なに、この猫」
僕は女性の目を見た。
疲れた目。諦めた目。でも、まだ光が消えてない目。
言葉が出た。
「いない方がいい人なんて、いないにゃ」
——にゃ。
自分でも驚いた。
そんな言い方、したことなかった。
でも、自然に出てきた。作った言葉じゃない。僕の中から出てきた言葉。
女性は固まった。
「……え、今……」
「聞こえてるにゃ」
声が震えていた。
でも、止まらなかった。
「頑張っても結果が出ない時は、頑張り方が間違ってるんじゃなくて——」
言葉を探す。
押し付けたくない。決めつけたくない。
「——休みが足りてないだけかもしれないにゃ」
女性の目が、大きく開いた。
「なんで……猫が……」
涙がこぼれた。
堪えていたものが、溢れ出すみたいに。
「なんで……そんなこと……」
僕は答えなかった。
答えられなかった。
女性は両手で顔を覆った。
肩が震えている。声を殺して泣いている。
僕はそこにいた。
何も言わずに、隣にいた。
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どのくらい時間が経っただろう。
女性は泣き止んで、顔を上げた。
目が赤くなっている。でも、さっきより——少しだけ、軽くなった気がした。
「ごめんね」
女性は僕を見て、少し笑った。
「変だよね、猫に泣いちゃって」
「変じゃないにゃ」
僕は言った。
「泣きたい時は泣いていいにゃ」
女性は僕を撫でた。
頭から背中にかけて、ゆっくりと。
温かかった。
人間の手の温もり。久しぶりだった。
喉がごろごろと鳴った。
止められなかった。止めようとも思わなかった。
「……あんた、変な猫」
女性はまた笑った。今度は、目も少しだけ笑っていた。
「野良猫?ここに住んでるの?」
僕は答えなかった。
説明できることじゃない。
女性は立ち上がった。
スマートフォンをポケットにしまう。
「……ありがとう」
小さな声だった。
僕に言ったのか、自分に言ったのか、わからない。
女性は歩き出した。
公園の出口に向かって。
途中で振り返った。
「また来るね」
そう言って、去っていった。
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僕は一人、ベンチに座っていた。
女性の後ろ姿が見えなくなっても、動けなかった。
これが——僕の、仕事か。
話を聴いて、寄り添う。
それだけ。
それだけのことが——こんなに難しいなんて。
「にゃ」
さっき、自分の口から出た言葉を思い出す。
あんな言い方、したことなかった。
でも、自然だった。作ったんじゃない。出てきたんだ。
あれが——僕の言葉なのかもしれない。
夕暮れが近づいていた。
空がオレンジに染まり始める。
「また来るね」
女性の言葉が、頭の中で響いている。
また会える。
きっと、また会える。
僕はベンチから降りて、歩き出した。




