第14話:人間界
光が、体を包んだ。
温かかった。猫の国の、あの柔らかな光。
ミーヤが言った。
「行ってこい」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
目を閉じる。
体が引っ張られる。軽くなる。重くなる。
どこかへ運ばれていく。
——母さん。僕、行ってくるよ。
心の中で、もう一度呟いた。
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目を開けた。
最初に来たのは、音だった。
車のエンジン音。クラクション。人の声。電子音。工事の音。
全部が、同時に押し寄せてきた。
耳が倒れた。
毛が逆立った。
息が詰まりそうになる。
路地裏だった。
ビルとビルの間の、狭い隙間。ゴミ袋が積まれている。水たまりがある。壁には落書き。
匂いも、違う。
排気ガス。生ゴミ。雨に濡れたコンクリート。人間の匂い。
猫の国の匂いじゃない。
草の匂いも、土の匂いもない。
あの甘い匂いは、どこにもない。
「これが……人間界」
声が漏れた。
路地の先に、街が見えた。
人間たちが行き交っている。スーツ姿の男。制服の学生。スマートフォンを見ながら歩く女性。誰も立ち止まらない。誰も周りを見ていない。
一歩、踏み出した。
足がすくんだ。
また一歩。
路地を出る。
人混みの端に立つ。
人間たちが、僕のすぐ横を通り過ぎていく。
誰も、見ない。
誰も、気づかない。
僕は透明だった。
ここにいるのに、いないみたいだった。
懐かしいはずだった。
僕はここで生まれて、ここで生きて、ここで死んだ。
でも——違う。
同じ場所なのに、見え方が違う。
あの頃は「生きる」ので精一杯だった。
餌を探すこと。寒さを凌ぐこと。危険を避けること。
それだけで一日が終わっていた。
今は「見る」余裕がある。
人間たちの顔が見える。表情が見える。疲れた目。急いだ足取り。下を向いた背中。
見えすぎて、苦しい。
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人混みを避けて、ビルの影に入った。
座る。体を丸める。
ミーヤの言葉が、頭の中で響く。
「お前は人間の姿を取ることもできる。でも最初は猫のままでいい」
「心の傷を持つ者は、猫の姿のお前を見つける」
「見つけられた時、お前の仕事が始まる」
見つけられるのを、待つ。
それが、僕の仕事。
でも——待つことしかできないのか。
僕から関わっちゃいけないのか。
通り過ぎる人間たちを見る。
疲れた顔。作り笑い。俯いた目。
この中に、傷を抱えた人がいる。
話を聴いてほしい人がいる。
でも、僕からは近づけない。
見つけられるまで、待つしかない。
もどかしかった。
猫の国で「自分で決めた」と思った。能動的に、一歩を踏み出した。
なのに今は、また待つことを求められている。
「……どうすればいい」
答えは返ってこなかった。
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夕方になった。
空がオレンジに染まっていく。
人の流れが変わった。駅に向かう人が増える。帰宅ラッシュ。
僕は路地の入り口に座っていた。
ビルの影に隠れるように、でも街は見える位置に。
人間たちが通り過ぎていく。
誰も僕を見ない。
一人。
二人。
三人。
数えるのをやめた頃——。
一人の女性が、足を止めた。
こちらを見ている。
目が合った。
時間が止まったような気がした。
女性の目。
疲れている。何かを諦めたような目。光がない。
——どこかで見た。
この目を、僕は知っている。
僕と同じ目だ。
死ぬ前の、あの頃の僕と同じ。
何もかもが嫌になって、でも逃げ場もなくて、ただ息をしているだけだった頃の目。
女性はすぐに目を逸らした。
何事もなかったように、歩き出す。
人混みに紛れて、見えなくなっていく。
僕は動けなかった。
追いかけることもできなかった。
後ろ姿が、小さくなっていく。
角を曲がって、消えた。
「見えた——僕が、見えた」
心臓がまだ速く打っている。
尻尾が小さく揺れている。
あの女性には、僕が見えていた。
他の誰にも見えないのに、あの人には見えた。
「見つけられた」のか。
「見つけた」のか。
わからない。
でも——あの目が、頭から離れない。
また会えるだろうか。
会えたら、話を聴けるだろうか。
わからない。
でも、待つしかない。
僕にできるのは、ここにいること。
見つけられるのを、待つこと。
夕焼けが、夜に変わっていく。
街灯が点き始める。
僕はそこに座ったまま、女性が消えた方向を見ていた。




