第13話:一歩
あの光を見てから、何日か経った。
眠れない夜が続いていた。
目を閉じると、あの光が浮かぶ。あの声が聞こえる。
「私なんか、いない方がいい」
自分の声と重なる。段ボールの中で震えていた夜の声。凍える冬の中で倒れた夜の声。
湖の映像も消えない。ソラの怯えた目。子供の泣いた目。
認めたくない。でも否定もできない。
宙ぶらりんのまま、日々が過ぎていく。
体は疲れていないのに、心が重かった。食べ物を前にしても、あまり食欲がなかった。
草原を歩いた。丘を越えた。川沿いを歩いた。
答えは出なかった。
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ミーヤを探した。
避けていた。湖の日から、ずっと避けていた。
でも、今は——話したかった。
誰かに聞いてほしかった。この胸の中でぐちゃぐちゃになっているものを、言葉にしたかった。
ミーヤを見つけた。草原の端で、静かに座っている。いつもの場所。いつもの姿勢。
近づいた。
「話がある」
ミーヤは振り返った。何も言わなかった。ただ、待っている。
隣に座った。同じ方向を見た。草原が広がっている。遠くに感情の森が見える。
「……わからないんだ」
言葉が出た。絞り出すように。
ミーヤは黙っていた。
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「僕は……」
言葉が出ない。喉に何かが詰まっている。
言葉にしたことがなかった。誰かに話したことがなかった。自分の中でぐるぐる回っていただけで、声に出したことがなかった。
「……人間が、嫌いだ」
やっと、出た。
「今でも。捨てた人間を許せない。ソラも許せない」
声が震えた。でも、止まらなかった。
「憎しみは消えていない。消したくもない」
ミーヤは何も言わなかった。ただ、聴いていた。
「でも——」
また、詰まった。
「でも?」
ミーヤが初めて口を開いた。促すように。でも、急かすようには聞こえなかった。
「……あの光を見た時、放っておけないと思った」
「なんでかわからない。嫌いなのに。人間なのに」
「あの声が——僕と同じだったから」
言葉にすると、胸が痛かった。
「それに……湖で見たことが、頭から離れない」
「あれは嘘だって思った。思いたかった」
「でも、もしあれが本当だったら——」
言葉が止まった。その先を言いたくなかった。
「——彼らも、傷ついていたかもしれない?」
ミーヤが言った。静かに。
答えなかった。答えたくなかった。
でも、否定もできなかった。
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風が吹いた。草が揺れた。
ミーヤが言った。
「お前は今、とても苦しい場所にいる」
「……」
「憎しみを持ったまま、その正しさが揺らいでいる」
「それは——成長の痛みだ」
成長。そんな言葉で片付けられるものなのか。
「お前の中に、憎しみと共感が同時にある」
「人間を憎んでいる。でも、あの光を見捨てられなかった」
「それを抱えたまま生きるのは、辛い」
「……辛い」
そうだ。辛い。どっちかに決められたら楽なのに。憎み続けるか、赦すか。どちらかに振り切れたら、こんなに苦しくない。
「でも、それが生きるということだ」
ミーヤは草原を見ていた。
「矛盾を抱えたまま、それでも歩く。それが、生きるということだ」
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長い間、黙っていた。
ミーヤも黙っていた。待っていた。
空が少しずつ明るくなっていく。夜明けが近い。
「僕は、まだ人間を許せない」
口を開いた。
「救いたいとも思わない」
正直に言った。嘘をつきたくなかった。
ミーヤは頷いた。
「でも——知りたい」
「何を?」
「あいつらが、何を考えてるのか」
「なぜ傷つけるのか、なぜ傷つくのか」
「知ったら——この憎しみが、どうにかなるかもしれない」
「どうにか、とは?」
「わからない」
わからなかった。消えるのか、変わるのか、それとも何も変わらないのか。
「でも、このままじゃ——手が疲れる」
言ってから、気づいた。
トムの言葉だった。
「握りしめてる手、そのうち痛くなる」——あの言葉が、自分の口から出ていた。
ミーヤが微笑んだ。初めて見る表情だった。
「それは、立派な理由だ」
「……立派?」
「赦すためでも、救うためでもない」
「自分のために行く。それでいい」
自分のために。
赦すためじゃない。救うためでもない。
ただ、この憎しみを——どうにかしたい。握りしめ続けるのが、疲れた。
それだけだ。
それだけで、いいのか。
「それだけで、いい」
ミーヤが言った。心を読んだみたいに。
「完璧な理由なんて、いらない」
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派遣の準備が始まった。
「心の糸解き師」としての訓練。人間界での振る舞い方。傷ついた魂への寄り添い方。
ミーヤが教えてくれた。トムも時々来た。
「お、行くことにしたんだな」
トムは笑った。
「俺も最初はボロボロだったよ。でもまあ、なんとかなる」
なんとかなる。そう言えるトムが、少しだけ眩しかった。
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最後の夜だった。
草原で、空を見上げていた。
星が見える。人間界で見た、あの冷たい星空とは違う。温かい光。
「僕は、何を見つけるんだろう」
答えはなかった。
憎しみは消えていない。湖の映像を受け入れたわけでもない。ソラを許したわけでもない。
何も解決していない。
でも、一歩を踏み出そうとしている。
初めて——自分で決めた。
誰かに連れていかれるんじゃない。見せられるんじゃない。自分で、行くと決めた。
「母さん」
声に出した。
「僕、行ってくるよ」
返事はない。母さんはここにはいない。どこにいるかもわからない。
「まだ何も解決してないけど——」
風が吹いた。草が揺れた。
「見てて」
空を見上げた。星が瞬いている。
明日、人間界へ行く。
憎んだまま、迷ったまま、矛盾を抱えたまま。
それでも——行く。




