第12話:傷ついた光
トムと話してから、数日が経った。
「握りしめてる手、そのうち痛くなる」
その言葉が、頭から離れなかった。
手を見る。何も握っていない。でも、確かに痛い。ずっと握りしめていて、指が痺れている。
向き合ってみよう。
そう思った。
湖に向かった。森を抜ける。足が重い。でも、進んだ。
湖が見えた。
あの静かな水面。深い青。波一つない。
一歩、近づいた。もう一歩。
水面の前に立った。
覗こうとした。
——足がすくんだ。
体が動かない。心臓が速くなる。呼吸が浅くなる。
あの映像がまた見えたら。ソラの目。子供の目。子猫の目。
また否定することになったら。また逃げることになったら。
「無理だ」
声が出た。自分の声が、遠くに聞こえる。
背を向けた。逃げ帰った。
「やっぱり、僕には無理だ」
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草原をさまよった。
向き合おうと思った。でもできなかった。
トムは手放せたのに。僕は握りしめたまま、覗くことすらできない。
情けない。弱い。
「僕はずっとこのままなのか」
座り込んだ。空を見上げた。
淡い金色と青。猫の国の空。温かいはずなのに、何も感じなかった。
答えはなかった。
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ふと、光が見えた。
草原の片隅に、小さな光が漂っている。
淡く、不安定に明滅している。消えそうで、消えない。
近づいた。何だろう。
泉のような場所があった。水が静かに湧いている。その上に、光が浮かんでいる。
ミーヤがいた。光を見つめている。
「これは何だ」
「人間界から来た傷ついた魂だ」
ミーヤは光から目を離さなかった。
「まだ死んではいない。でも、心が壊れかけている」
光は小さかった。弱々しかった。
明滅している。点いて、消えて、また点いて。
温かくもなく、冷たくもない。ただ、悲しかった。
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光に近づいた。
声が聞こえた。
「私なんか、いない方がいい」
——僕が弱いから。
「誰にも必要とされてない」
——何が足りなかったの。
「消えてしまいたい」
——寒いにゃ……
足が止まった。
同じだ。
同じ声だ。
段ボールの中で震えていた夜。母さんの匂いが消えていく夜。窓の外を見つめていた日々。凍える冬の中で倒れた夜。
全部、僕だった。
「こいつは……」
声が出なかった。
この光は、僕だ。
僕と同じ傷を持っている。誰かに捨てられた傷。自分を責める傷。消えたいという願い。
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光を見つめていた。
この人間も、そうだったのか。
誰かに捨てられて、誰かに裏切られて、それで壊れかけている。
——湖の映像がよぎった。
ソラの目。怯えていた目。
子供の目。泣いていた目。
子猫の目。悲しそうな目。
「……」
言葉にならなかった。
認めたくなかった。
でも、この光を見ていると——
「この魂は、お前と同じ傷を持っている」
ミーヤが言った。
「そして、お前を傷つけた者たちも——」
「やめてくれ」
遮った。
聞きたくなかった。
認めたら、憎しみの根拠が崩れる。僕の苦しみは、誰のせいでもなくなる。
それは——もっと苦しい。
でも、この光を見捨てられるか。
この声を、聞かなかったことにできるか。
「私なんか、いない方がいい」
また聞こえた。光の声。僕の声。
答えられなかった。
---
その夜、眠れなかった。
あの光が頭から離れない。あの声が、耳から離れない。
「私なんか、いない方がいい」
自分の声だ。
自分と同じ苦しみを、あの人間は持っている。
そして——
考えたくなかった。でも、考えてしまう。
自分を傷つけた人間も、同じだったのかもしれない。
ソラも。あの子供も。あの人間たちも。
誰かに傷つけられて、誰かを傷つけて、そうやって——
「そんなの、認めたくない」
声に出した。
認めたら、僕の憎しみは行き場を失う。
僕は何を支えに生きればいい。
でも——
あの光を見捨てられなかった。
同じ傷を持つ光を、見て見ぬふりができなかった。
湖を覗けなかった僕が、あの光を見つめていた。
自分からは無理だった。でも、向こうから来た。
偶然の出会いが、僕を動かした。
答えは出なかった。
でも、何かが動いた。
夜が明けていく。空が淡い金色に染まっていく。
僕はまだ、ここにいる。




